砂のよう

 お父さんとお姉ちゃんのいうことよくきいて、高校受験がんばって。
 そう言って母は出て行った。どしゃ降りの夜だった。目の覚めるような赤いワンピースを着ていた母は、怜平の知らない女に見えた。
 いま引き止めなければ二度と会えなくなるとわかっていた。それでも怜平は微笑んでうなずいた。
 いってらっしゃい、しあわせにね。
 振り返った母は泣きそうな顔をして、少女のように笑った。

 いまにも降りだしそうな空だった。
 灰色の雲は重く垂れこめて、じわじわと厚みを増す。午前中に降った雨のせいで、じっとしていても汗が滲み、息が詰まりそうだ。
 怜平は大学前の古ぼけた食堂で日替り定食をかきこみ、冷たすぎるお冷やに眉をしかめた。沁みて、うちから凍みていく。
 テーブルに引っかけていた傘がずり落ちるので、邪魔にならないよう壁際へ立てかける。年月と煙草のヤニで茶色くなった壁は、砂を塗り固めたようにも見えた。
 メニュー表の横に吊り下げられたテレビでは、お天気キャスターが関西の梅雨入りを伝えていた。今日も夕方にはまた雨になるらしい。
 店を出ると、昼からの授業へ向かう学生らの疎らな群れが、目の前を横切っていった。怜平もそのなかに混じって正門を過ぎる。
「松下やん」
 背中を傘で突っつかれ、怜平は肩越しに振り返った。そこには悪びれる様子なく、山崎がにやついていた。
「俺のこと殺す気です? せめて柄の部分で……」
「いやや、手ぇ濡れるやん。何言ってん」
 エスニック調の髪留めとジャケットを着て傘を構える山崎は、怜平の目にしなやかな戦士のように映った。言葉は通じそうにない。
 降参です、と両手を上げると、山崎は満足げにうなずいて隣を歩いた。思えば彼女と一緒に歩くのは、たった半日だけ恋人同士だったとき以来だ。口が悪く、いたずら好きで、根拠なく態度が大きく、まるで小学生男子のような山崎だが、並ぶと小柄で髪の先まで女らしさで彩られていることがよくわかる。在籍する法学部では意外とモテるのだと、同じ学部の関谷から聞いたことがあった。
『みんなあの怪物の本性を知らんねん。まあ、知らぬが仏か。ちょっとちゃうか』
 そう言いながら泡の消えたビールを飲む関谷は、疲れきったサラリーマンのようだった。
「自分、バイクちゃうの」
「雨なんで。そっちこそ」
「あー、うちは昨日鶏源で飲んだから置いてってん」
 通りすぎてきた大学前の通りを指し、何を思い出したのか肩を揺らして笑い出した。
「ちょ、聞いてや。シマイチに片思いの彼女がおるって知ってる?」
「いや、初耳」
「おんねんやんかー。それが飲んどったら男連れて店に来よってな、まじで失恋レストランやで」
「レストランっていうか焼鳥屋だけど」
「炭火やからええねん」
 ひっひっひ、と魔女のように笑いながら、山崎は可憐に首をかしげる。遠くから見れば仲睦まじい恋人らの登校風景でしかなく、まさか仲間の失恋を嘲笑っていると誰が想像するだろう。
 怜平と山崎が付き合った半日は、今日のような雨模様とは正反対の秋晴れの日だった。はじめてマテリアルの扉を叩いた翌日、昼休みなら部員が大体集まってるよと実咲子に教えられたので赴くと、自己紹介をする間もなく山崎に指をさされた。
『自分、付き合おうや』
『え?』
 その後、授業が終わってから一緒に飲み屋とカラオケに行き、ふたりきりとは思えないほど盛り上がったが、日付が変わるころ、山崎のきもいの一言で恋人関係は終わった。そのときの取り決めが今も引き継がれ、怜平は敬語を禁止されていた。標準語寄りの敬語が何より気持ち悪いらしい。
 昭和の歌謡曲と民俗音楽をこよなく愛す山崎は、スキップでもしそうに楽しげに失恋レストランを口ずさんでいた。
「ザキさん、今度ギター聴かせてよ」
「ほな、うちにおいでーな。あ、でも自分が来たら、うちのかわいいスヌーピーがご懐妊してまうわ。かわいいあの子をシングルスヌーピーにするわけにはいかん。あかん、来たらあかん」
「スヌーピーはオスだから」
「あかんあかん。あの子の貞操はうちが守ってやらなな」
「嫌なら嫌って言っていいのに」
 怜平が呆れて苦笑を浮かべると、山崎は形のいい尖った鼻をつんと上に向けた。
「わたしは松下より実咲子先輩のほうが大大大好きやから。ま、そういうこと」
 よく通る凛とした声で呟いて、彼女は古い校舎の薄暗い階段を足早にあがっていった。あとには柑橘系の香りが残る。それは初夏の香りだった。怜平はしばらく山崎が駆け上がっていった階段を見あげていたが、チャイムの音に背中を押されて授業へ向かった。
 廊下の向こうから歩いてくる教授より五歩ほど早く教室へ滑り込み、いちばんうしろの席へつく。
 斜め前に座っていた同じ学部の顔見知りが、怜平の姿を見て驚いた。
「なに、おまえこの授業とってたん?」
「一応」
「知らんかった」
「ああまあ、今日はじめて来たから」
「自分そんなんばっかやな」
 教室へ高齢の教授が入ってきて、男は小ばかにしたような笑みのまま前を向いた。授業にあまり出ていないのは事実で、それは自分の落ち度だ。それでもあまりいい気分はしない。だから怜平はにこにこと笑った。
 ペンを出して顔をあげる。教室を見渡して、怜平は自分にしか聞こえないような小さな声で、あっと呟いた。雨と湿気と埃のにおいが、記憶に繁る新緑で覆われていく。
 ここは仏教学の授業が行われていたのと同じ教室だった。奇しくもあの時と同じ席に座って、自分を持て余すように、朗らかににこやかにしながら耐えている。
 掠れて妙に甲高い、聞き取りづらい声で授業ははじまっていた。しかし怜平の心は五月の痛みのなかにあった。伊勢田淳という存在が残していった、ひとりよがりで身勝手で、だからこそやわい傷を眺めていた。
 好きだけですべてが終わってしまえばいいのに。想いが伝わることなどなく、気づかれることなどなく、夜空の星が誰に知られなくともひっそりと輝き続けるように、もしくは風に吹かれた砂が意図なく積もり続けるように、ただ想い続けるだけの気持ちが存在してもいいのにと思う。それには、何より自分のエゴや欲望が邪魔をした。
 雑然とした思考のなか、ぼんやりとしているあいだに授業は終わった。あとにも講義は入っていたが、怜平の足は自然と部室へと向かっていた。
 むしろほんのりと明るくなった空からは、霧のような小雨が散布されていた。ふんわりと綿毛が掠めるような感触だが、髪や肌はたしかに濡れていく。知らないうちに頬を雨が伝った。
 部室には鍵がかかっていた。ドアの横にある磨りガラスの窓は灰色に染まり、空が透けているようにも見える。しかしその空は室内の暗がりでしかない。まだ昼の二時だというのに蛍光灯が明るく感じられて、怜平は電気をつけないままパイプ椅子に腰かけた。
 大きな机の上には、怜平のスケッチブックが無造作に置かれていた。表紙をひらくと裏に関谷の落書きがあった。デフォルメされた名前が並び、どうやらサインを練習していたらしいとわかる。怜平は首をかしげながら、画用紙をめくった。
 真っ白の紙に、偶然手に触れた鉛筆で線を走らせる。何も考えず、無心に形を塗り潰して、姿を浮かび上がらせていく。指先でこすってなじませ、指紋の隙間に残った芯の滓でさらに淡い線を引く。砂に埋もれたレリーフを掘り起こすように、じわじわと全容が見えてくる。
 怜平は気がつくと右足を何度も踏み鳴らしていた。
 半分ほど描いた絵に大きくバツをつける。新しい紙に再度鉛筆をこすりつけた。殴るように、撫でるように、時には畏れるようにしながら影を重ねていく。だがどんなに描いても、レリーフは砂の下から出てこない。どんなに砂を払っても、あとからあとから砂がこぼれ落ちてくる。はたしてどこから降ってくる砂なのか。怜平は大きなため息をついて天井を見あげた。
 ――ああ、そうか。
 この胸が、風に吹かれる砂の城のように崩れているのだ。そして何も見えなくなる。
 かたいパイプ椅子の背もたれに首を預け、腕をだらりと垂らした。息と声のあいだを通って嘆慨が洩れる。哀しみに寄り添うことさえできない、砂のような感傷だった。
 スケッチブックを薄暗い天井にかざして、モノクロの景色を眺める。
「ちがう……」
 道路沿いに立ち並ぶ駅前のビル群、道先に沈みゆく夕陽と、背後から迫り来る夜と星、その境目に伸ばされた実咲子の手のひら。
『いつか、こんな空描いてよ』
 あの日見た光と影は写し取った。だが足りない。これはあの日の空じゃない。
 怜平は起き上がり、抽斗に詰め込まれた絵の具と筆とパレットを引きずり出した。誰のものかわからない、卒業生が残していった水彩絵の具だ。白いパレットは長年使われていたものらしく、細かな傷が無数につき、緑や赤にほんのりと染まっていた。
 筆先に水を含ませ、絵の具を溶く。やわらかな筆をパレットで泳がせるたび、失われていた躍動感が腕によみがえる。
 子どものころの思い出が、水泡のように意識の表面へあがってきては弾けた。絵付師をしていた父を真似て絵筆を初めて手にした日は、布団へ入ってからも瞼の裏に鮮やかな朱色が瞬いて、なかなか寝付けなかったのを覚えている。
 まっしろな画用紙へ色をのせると、あのころの胸の高まりがじわじわと指先へ、そこからさらに、ふっくらした筆へ吸い込まれて絵の具に溶け込んでいく。ふっと筆が息を吐いて、白の世界がとりどりの色に彩られていった。
 工房に満ちていた顔料のにおい、咳払いをすることも憚られるような緊張感、かわいがってくれた職人仲間、金魚の絵を褒めてくれた父の繊細で汚れた手、そしてその手が二度と絵筆を握らなくなってしまったときのことを思い返しながら、怜平は何かに憑かれたように絵の具に光と影を与えた。
 十代で怜平の姉を産んだ母は、子どもには母親でしかなかったが、いまから思えば美しさを持て余した若い女だった。普段は質素な服で化粧っ気もなかったが、それは彼女の母たらんとする母性と責任感からくるもので、決して本意ではなかったのだろう。怜平が十五の夜、工房の若い男と手をとって家を出て行き、その翌日から父は筆を捨てた。
 あの夜、声をかけてくれたときの母の顔を怜平は忘れない。忘れたくとも忘れられなかった。あんなにきれいな母を見たのは、あれが最初で最後だったのだ。
 もし怜平が行かないでと言ったなら、母は迷ってくれただろうか。男を捨てて、何事もなかったように家へ戻り、父もまた誇りにしていた仕事を続けられただろうか。
 雨が降る。
 埃と絵の具のにおいに包まれて、夢とうつつと、過去といまが曖昧になる。雨音に耳を傾けていると、全身からみるみる力が抜けていった。
 肩にぬくもりがかけられる。怜平はとっさに起きて、布越しに感じられた手を強く掴んだ。
 見上げた先には、実咲子の驚いたような顔があった。
「先輩……」
「あ、ごめん。もしかして起きてた?」
「いや、たぶん寝てました」
 ずり落ちそうになったストールを引きとめ、筆を持っていないことに気づく。
「落ちそうだったから、そこに」
 パレットにすこし乾いた絵筆が置かれていた。ありがとうございますと小声で呟き、怜平は掴んだままの手をぎこちなく離した。
「すいませんでした」
「ううん、ちょっとびっくりしたけど」
 そう言ったきり実咲子は黙りこみ、怜平の隣に立ち尽くした。ストールをたたんで返すも、弱々しく笑って受け取るばかりだ。怜平は首をかしげた。
「ミサコ先輩?」
「それ、あのときの空だね」
 スケッチブックを見つめて、実咲子は目を細める。
「描いてくれたんだ」
「まだ描きかけですよ」
 あわてて閉じようとした手がとまる。夢うつつで描いた絵は、怜平の目にもどこか新鮮に映った。その隙に実咲子の腕が伸びてきて、昼と夜に塗りわけられた境目に手がかざされた。
「こんな空だった」
 大きく広げられた指には、小さな石のついた細いシルバーリングがはめられていた。小物作りが好きな実咲子の手作りだろうが、男からの贈り物である可能性を怜平は捨てられなかった。
 空へ手を差し伸べる実咲子の横顔には、かすかな翳りがある。部屋が薄暗いからではない。見えない刃で身を斬り続ける、その痛みをこらえるような笑みを浮かべていた。やさしく、淡い微笑みだった。
 実咲子はまだあの講師のことが好きなのだ。それはずっと変わらないのだろう。だからこそ怜平は実咲子に惹かれた。もう二度と、自分より大切な存在なんて欲しくなかったのに。
「先輩」
 怜平は実咲子の手首をそっと握った。隣に立つ彼女を見上げる。
「すきです、先輩」
 途絶えることなく、雨が振り続いていた。遠くから、吹奏楽部のトランペットが聞こえてくる。雨音に掻き消されて、途切れ途切れになる。
「俺ずっと、誰のことも好きにも嫌いにもならないでおこうって、そう決めてたんです。だから誰とでも付き合って、振られても傷なんてつかなかった。でも、もう無理になりました」
 笑いかけようとしても、顔は引き攣るばかりだった。怜平はあえてそれを隠さずに続けた。
「どうしても、俺はあの先生が嫌いです」
「松下……」
「だって好きだから。先輩のことが」
 思わず手に力がこもる。
「また、そんな顔して」
 怜平は実咲子の頬へ手を伸ばした。
「どうして俺のこと呼んでくれないんですか」
 待っていたように涙がひとつ、雨が降りだすときのように落ちた。
「俺、待ってたのに」
「そんな、松下をただ利用するみたいなこと」
「先輩になら利用されたいです」
「また、そういう……」
「だったらなんで不用意に、そんなふうに笑うんですか」
 またひとつ落ちた涙が、怜平の手から手首へ伝っていく。
「でも、そんな先輩も大好きです」
「ばかじゃないの……、何、言ってんの」
 泣きじゃくりながら悪態をつく。鼻先を真っ赤にして、実咲子は涙を拭った。
「先輩、ティッシュ」
 近くにあったティッシュボックスを渡すと、実咲子は背中を向けて鼻をかんだ。
「ねえ松下。たぶん私、めんどくさいよ。たとえばさ――」
「問題ないですよ」
「まだ何も言ってない」
「聞かなくてもわかります。だって先輩のして欲しいことでしょ。だったら俺には不可能なことなんてないですから」
 それは誇張でも強がりでもなく、怜平の本音だった。
 実咲子はなぜか不服げに振り返り、やがて力なく笑った。
「かなわない、松下には」
「たぶん俺のほうがめんどくさいです。自信あります」
「そんな気はする」
 見つめあい、声をそろえて笑った。
「似たもの同士って続かないらしいよ」
「俺、ジンクス破るの大好きです」
「ほんと、ばか」
「よく言われます」
「見た目詐欺め」
「それもよく言われます」
 歯を見せて笑いかけると、実咲子はゆるく巻いた髪を揺らして華やいだ。怜平の胸で燻っていた想いが、息を吹き返す。ずっと、人を好きになりたかった。たとえいつか傷つくときが来るのだとしても。
「松下、今日はこれからバイト?」
「ないです。あってもないって言いますけど」
「私、梅田ぷらぷらしたい」
「いいですよ」
「即答だし」
 眉を寄せ、実咲子は苦笑しながら呟いた。
「いつかあんたに、できないって言わせてやるからね」
「どうぞ頑張ってください」
 散らかした画材を適当に片付け、まだ乾ききっていないスケッチブックをひらいたまま部室をあとにする。
 部室棟から出ようとして、怜平は傘がないことに気づいた。真っ赤な傘をひらいて、実咲子が振り返る。
「もしかして部室?」
「たぶん、大学亭で昼食ったときです」
 雨はやや強まり、とても傘なしで歩けそうにはない。実咲子は傘を見あげて、差し出してきた。
「入る?」
「はい」
 傘を受け取り、あいた手で実咲子の手をとる。
「ふつう、こっちの手で傘持つんじゃないの」
「先輩を雨に晒すことはしませんから安心してください。それとも腕組んでくれます?」
「めんどくさ」
 実咲子は舌を出して顔をしかめた。
 降りしきる雨のなか、ひとつきりの傘の下を歩いていると、世界にふたりきりにも思えた。ほんのすこし雨に濡れた手を、強く握りしめる。しばらくすると実咲子の指が怜平の手に寄り添った。
 あの日、真っ赤なワンピースを着て家を出て行った母も、同じような気持ちだったのだろうか。
 だとしたら、自分のかけた言葉は間違っていなかった。