Goodnight & Goodluck

 おはようと呼びかければ、おはようと。
 おやすみと囁けば、おやすみなさいと。
 何も語らずにいたなら好きですと、迷いなく向けられるやわらかな眼差しがそこにはあった。
 あまりの眩しさに思わず視線を逸らしながら、実咲子は思う。いつか自分も彼のようになれるだろうか。
 なりたい、と。

 強い日差しがアスファルトに照りつけて、足元から熱気が立ちのぼる。正門近くの日陰ではチアリーディング部の女子生徒らが、ジャージ姿でストレッチを行っていた。引き締まった手足は浅く日焼けして目映い。実咲子は差していた日傘で瑞々しい輝きを遮った。
 前期試験が終わり本格的な夏を迎えたキャンパスは、毒気がすっかり抜け落ちて解放感に満ちていた。体育会系の活動が活発になり、構内はさながらスポーツ施設のようになる。
 冷房のよく効いた図書館で卒論に使う文献を借り、実咲子は気晴らしを兼ねて部室へ向かった。サイケデリックなドアを開けると、まっさらなキャンバスに向かって呪詛を唱える嶋、借りてきた音楽アルバムを積み重ねてタワーにし、ジャケットを読み込んでいる山崎、クリップ式の扇風機の前で宇宙人の真似をする関谷、本棚を整理していたはずがうっかり読み耽ってしまい頭を抱えている沙智がいた。狭い部室内は、思いがけず人だらけであった。
「群れてますね……」
「おお、相沢ー。生きとるかー」
「先輩はついに地球人まで辞めるんですか」
「この暑さと追試から解放されるんやったら、俺は宇宙人にだって魂売るでぇ。あーあああー」
「追試?」
「せやねん。エアコンという艶かしく冷酷なアイツに、こう、上から下から責められてやな、ああっもうやめて、おかしくなっちゃうのぉ、とまあ、めくるめく夜を過ごしたんやけど、俺のこの繊細なガラスボディはあんまりハードなプレイに耐えられへんかったわけや。そう、繊細って罪深い、ああでも美しい」
「実咲子先輩、まともに聞かんほうがいいですよ。そん人、腹出して寝て下半身が死んだだけらしいですから」
「下半身ゆうな。守備範囲が変わるやろが」
 部屋の奥では嶋が、下半身死亡と笑いながら肩を揺らしていた。
「つまり寝冷えしたんですね」
「あほか、ただの寝冷えちゃうぞ。風邪もこじらせて肺炎にまでなって入院しとったんやぞ。しかも魔法のアイテム診断書が俺の食費をどれだけ犬畜生にしたか知らんやろう。くそっ、心理学め」
「犬畜生の使いどころ、おかしないですか」
「ていうか五回生なのに、どうして般教を……」
「いいか、相沢。だからこそ俺は五回生なんや」
 関谷はいい顔をして親指をぐっと立てる。なるほど説得力のある言葉だった。
 本棚は、これまでの部員たちが持ち寄った漫画や小説や雑誌、辞書や専門書などで溢れかえっていた。最上段は五十音順にきちんと並べられていたが、他は雪崩を起こした雪山のようになっている。実咲子はすっかりグロッキーになってしまった沙智の肩をつついた。
「一緒にやるよ」
「ありがとぉ、助かるわあ」
 それから夢中で本棚を整理していると、気づいたときには実咲子と沙智だけになっていた。
 沙智は時計を見て、小さな悲鳴をあげる。
「もうこんな時間やん」
「さっちゃん、バイト?」
「え、あ、ううん。ちょっと……」
 暑さのせいか赤らんだ顔をして、沙智は言葉を濁した。抱えていた漫画を下段へ押し込み、鞄と携帯電話をつかみとる。
「そういや実咲子ちゃん、今日怜平くんは?」
「一日中バイトじゃないかな」
 どうして、と目で問いかけると、沙智は慌てた様子で笑顔を浮かべて首を振った。
「えっと、ほら、最近見かけんから、どうしたんかと思って。一日中バイトやなんて、元気そうやね」
「たぶん……」
 妙に早口で喋る沙智に違和感を覚えながら、実咲子は浅くうなずいた。
「ほんなら、あとちょっと残ってるけど、行ってええかな」
「うん、もちろん。暑いから気をつけてね」
「ごめんな、ありがとぉ」
 携帯電話を持った手を振り、沙智は部室を出て行った。そこに、ミラーボールのストラップはなかった。
 机に積み上げられた数十冊の漫画を眺め、実咲子はパイプ椅子にすとんと座った。鞄の底のほうから携帯電話を取り出して、開封済みの受信メールをひらく。
『明日かまへんよ。みさちゃんが大丈夫やったら、十八時に梅田で』
 淳との約束の時間まで、三時間を切っていた。互いの予定が合わず、会うのは二カ月ぶりとなる。
 別れを切り出すつもりだった。電話やメールで終わらせることも考えたが、未練が芽生えてしまいそうで怖かった。
 メールの文面から、淳の声が聞こえてくる。みさちゃん、と微笑みながら甘えてくる年上の彼の、裏表ないずるさが実咲子の胸を絞めつけた。
 まだ好きなのだろう。淳のことが好きなのか、淳に恋をしたかつての自分がいとしいのか、それとも生まれたての雛のように、目覚めてはじめて見つめあったのが彼だったからなのか、実咲子にはもう区別がつかない。
 見おろした手をかるく握る。そうすると今でもほんのりと梅雨のにおいが鼻を掠めて、耳の底には雨音が響いた。雨の日に繋いだ怜平の手が、吸いつくようにして実咲子の心に寄り添っていた。限りない温もりとすこしの重みがゆっくりと不安に染み渡り、ほぐしていく。
 今日のことを怜平は知らない。話せば、驚いてすこし拗ねて、けれどそのあとは頑張ったねと微笑んでくれるはずだ。怖がることは何もない。実咲子は残っていた本を片付け、誰もいない部室をあとにした。
 約束までの時間は、待ち合わせ場所近くのカフェで文献を読んで過ごした。大きな窓から見あげた夏空はいつまでも明るく、変化に乏しい。雲ひとつない空は風を感じさせず、ゆっくりと回転する真っ赤な観覧車だけが時を刻んだ。
 ふと、付き合い始めてすぐのころに、淳があの観覧車に乗りたいと言ったことを思い出した。実咲子が恥ずかしいからと頑なに固辞したので実現しなかったが、あのときの淳は捨てられた子犬のような目をしていた。まさか観覧車に乗りたがる人だとは思っていなかったので、少なからず衝撃だった。
 そんなことを思い返しているうちに、携帯電話のアラームが震えた。実咲子はカフェへの道すがら買ったシュシュで髪をまとめて、待ち合わせ場所へ向かった。書店入口とビッグマンを見おろす二階のコインロッカーが、ふたりのいつもの場所だった。いつもどおり十分ほど遅れて淳はやってきた。走ってくることも、ひとこと謝ることもしない。それもいつものことだ。彼はさも何事もなかったように手をあげる。
「僕、中華食べたい気分やねん」
「中華って、ラーメンぽいの?」
「うーん、それよりは一品とか点心とか」
「お店に心当たりがあるなら、いいよ」
「よっしゃ、ほないこ」
 帰宅時間と重なりごった返す街を、淳は強引に切り抜けることも流されることもせず進んでいく。実咲子は彼の背中を追って歩いた。
 結婚指輪が嵌められた左手を、いまもまだ恨めしく感じる。たとえ指輪があっても、この手をいつまでも繋いでいられたら良かった。そうすればもっとずっと、ただ好きでいられたかもしれない。しかしそう思う一方で、手を繋いでいたらもっと早くに彼のスピードについていけず息切れしていた気もするのだ。
 不意に淳が振り返る。
「それ、ええな」
「え」
 耳のうしろでふわりと綻ぶ、花柄のシュシュを指される。
「髪につけてるん、よぉにおてる。かいらしわ」
「あ、ありがと」
 戸惑いと苛立ちと、ほんの少しの嬉しさが、実咲子の声を小さくした。淳は気にせず、にこにこと微笑んでいる。もしかすると、淳は実咲子が話そうとしていることに気づいているのかもしれない。
「ねえ先生」
「地下から行くほうが涼しいし、おりよか」
 呼びかけは雑踏に飲まれた。
 途中まで地下街を歩き北新地で地上にあがったときには、空は落日のやわらかさに包まれていた。灯りはじめたネオンに照らされ、立ち並ぶビルが波に濡れた砂浜のようになる。排気ガスで汚れた空気も、不思議と潮風のように感じられた。
 半個室の席について、紹興酒で乾杯をする。淳は中華が食べたいと言ったわりに、注文のほとんどを実咲子に任せた。どうやら、実咲子をここへ連れて来たかっただけらしい。
 食事のとき、淳はあまり話をしない。そう躾けられたと、昔ぽつりと話していたことを思い出す。テーブルにザーサイとクラゲの和え物だけになり、ようやく淳は口をひらいた。
「みさちゃん試験は」
「ほとんどレポートだったから、もうだいぶ前に終わった」
 すこし飲みすぎたのか、箸を持つ手がふわふわとした。
「そっか。もう四回やもんな」
「うん」
「僕の授業もレポートや。読まれへんような汚い字が減るから」
「そうなんだ」
「なあ」
「うん?」
 顔をあげると、組んだ腕をテーブルに押し付けて淳が体を乗り出していた。
「僕に話したいことあるんちゃうの」
「え、あ、なんで」
「そんなん、見とったらわかる。高校んときから、もう、四年間もみさちゃんのこと見てきてるんや」
 淳の手が伸びてきて、シュシュに触れた。
「みさちゃんがこういうの付けるときは、頑張るでって思ったときなん。知らんやろ」
 実咲子は何も言い返せずにうなずいた。差し出された淳の手からは、しみついた煙草のにおいがした。
「たぶん僕は、みさちゃんが思ってる以上にみさちゃんのこと知ってる」
 底を見せることのない、どこか翳りのある目を細めて、淳は実咲子の髪を撫でた。
 なんてやさしい顔をするんだろう。ずるい。実咲子は口に出さずに悪態をつく。やさしくてずるい人だ。
「せんせ……」
 掠れそうになる声を絞りだすと、胸が締めつけられた。
「わたし、もう……終わりにする」
 泣いてはいけないと心に何度も言い聞かせる。だがほんのすこし淳の手が動くだけで、なみなみと注がれた涙がこぼれそうになる。実咲子は顔を振って淳の手から逃れた。
「ただの先生と生徒になる」
「うん、そっか」
 置いてきぼりになった手を軽く握りしめて、淳は妙に爽やかに微笑んだ。実咲子は言葉の真意が伝わらなかったのかと、不安になる。
「えっと……」
「大丈夫、ちゃんと理解してるよ」
 煙草に火をつけて、淳は何度もわかってると呟いた。
「正確には、わかってた、になるんやろな。いつやったかな、江坂でばったりおうたやん。あのとき一緒におった子が来たときから」
「来た? え、どういうこと」
「なんや、聞いてへんの」
 心底意外そうな顔をして、淳は目を瞬かせる。しかししばらくしてから、してやられたと言いたげに手で顔をおさえた。
「やるなあ、あいつ」
「ねえ、何があったの」
「僕の授業に来たん。いっちゃん後ろの席からずっと僕のこと睨むように見てきて、ほんま鬱陶しかったわ」
 淳は文句を言いながらも上機嫌で笑っていた。実咲子は首をかしげた。
「それって松下、だよね」
「へえ、松下くんゆうんか」
「名前も知らないでいったいどんな話したの」
「なんも話してへんし」
「なんにも?」
「ゆうたやん、めっちゃにやにやしながら睨まれたん」
「ほんとにそれだけ?」
「充分や」
 それ以上、淳は怜平のことについて話そうとはしなかった。怜平と淳のあいだに何があったのかひどく気にかかったが、強引に尋ねることは控えた。淳が煙草を吸い終えるのを待って、ふたりは店を出た。
 食事のあとはいつもならホテルへ向かった。だが今日はどちらからともなく、駅へ向かって歩く。地下街への階段を降りようとすると、みさちゃんと呼び止められた。
「まだ暑いけど、外の空気が吸いたいん。あかん?」
「いいよ」
「ありがとう」
 淳の手が差し伸べられる。実咲子は立ち止まり、ためらった。
「おねがい、みさちゃん」
 彼のおねがいには、弱かった。実咲子はそっと指先をのせた。荒っぽいこととは無縁の淳の手はなめらかで、夏とは思えないほど冷たく、口に含めば融けてしまうマシュマロのようだった。はじめて手を繋いで歩いた日のことが思い出される。
「ねえ先生、ヘップの観覧車に乗りたいって言ったの覚えてる?」
「ああ、ゆうたね」
「私が嫌がったら、すごくへこんで」
「僕なりに、みさちゃんに楽しんでもらいたかったん。君のきらきらした想いを曇らせたくなかったから、ふたりでいる時間が少しでもきらきらになるようにしたかったん。でも、それをことごとく真っ黒にしてしまったんは、僕自身やよね」
 信号が点滅して赤に変わる。強引に横断する歩行者へ向かって、タクシーが乱暴なクラクションを鳴らした。淳が、繋ぐ手に力をこめた。
「あかんねん、昔から。僕は守りたいものを守られへん。それがわかってくると、傷つけ続けるしかできんくなる。そのうち僕が泣くかわりに、君を泣かせた。いっぱい、いっぱい」
 ベッドで抱きしめられているときよりも、幼稚園児のように手を繋いでいる今のほうが彼の近くにいる気がした。
 ずるさは彼の弱さだ。心がぐらついて仕方ないのは淳の方なのだ。だが、しがみつかれれば実咲子もまた揺さぶられて、彼の夜に流されそうになる。もがいたり抗ったりするのはあまりにも苦しくて、流されるのも悪くないかもしれないという思いが掠めていく。どこにもたどり着くことのない明けない夜を、またふたりでさまようのだ。いつまで、という問いかけが泡のようにはじける。
 実咲子は隣に立つ淳を見上げた。彼は実咲子の視線に気づくことなく、いまにも消え入りそうな星を見つめていた。
 こんなとき怜平なら、きっと振り返ってくれる。すこし色素の薄い瞳を細めて、癇に障るような整った笑顔で、どうしたんですかと声をかけてくれる。
 実咲子は信号が青になると同時に、淳から手を離した。
「ただの先生と生徒は、手なんか繋がないね」
「……せやね」
 都会の星のようにささやかな笑みを浮かべて、淳は小さくうなずいた。
 交わす言葉もないまま、いつもよりゆっくりとした足取りで街を歩く。息苦しさといとしさが胸に降り積もった。彼と過ごした歳月のぶん、深く濃い夜のにおいがした。
 梅田の三つの駅を結ぶ歩道橋に差し掛かる。その岐路で、実咲子は立ち止まった。
「じゃあ先生、ここで」
「うん」
 淳は実咲子に向き合うことも、立ち止まって別れを告げることもせず、軽く手をあげただけで背を向けた。
 人込みにまぎれて遠ざかっていく、追いかけ続けた背中に向かって実咲子は呟く。
「おやすみなさい、せんせ」
 大好きでした、と。
 携帯電話をひらくと、怜平からメールが入っていた。
『土曜日のシフト、早番にしてもらいました。夕方には上がれます。梅田でも十三でも、先輩の都合のいいほうで。楽しみにしてます』
 受信時間を見ると、十分ほど前だった。ちょうど信号待ちをしていたころだ。あのとき淳の手を振りほどくことができたのは、必然だったのかもしれない。
 実咲子は夏の夜風に吹かれながら返信をして、携帯電話を手に握ったまま軽い足取りで駅へ向かった。

 八月最初の土曜日だった。
 梅田のビッグマンで待っていると、同世代の女の子らはふたりにひとりが浴衣姿で歩いていた。実咲子は別段いつもと変わらないブラウスとスカートを見おろし、ため息をついた。これは失敗したかもしれない。
「ため息なんかついて、どうかしましたか」
 突然上から降ってきた声に、実咲子は慌てて顔をあげた。
「びっくりした」
「すみません、待たせちゃったみたいで」
 怜平は申し訳なさそうな顔をするが、約束の時間にはまだ五分ほどあった。
「ちがうの、ちょっと人が多くて」
「ですね。さすがに今日はいつも以上かも。店はガラガラだったんですけど」
「バイトお疲れさま。なんか食べてから行く?」
「大丈夫ですよ。あ、でも近所のコンビニには寄りたいんです」
「うん」
「ありがとうございます。じゃ、行きましょうか」
 誰にも憚ることなく、ためらうこともなく、手を繋ぐ。背が高い怜平は手も大きい。なんでもこなす働き者の手は、すこしがさがさとして乾いていて、あたたかい。
 手の甲の親指の付け根に、電話番号の走り書きを見つける。よく見ると怜平の字ではない。
「これ、どうしたの」
 繋いだ手を持ち上げて、メモが見えるようにする。怜平はすっかり忘れていたのか、あっと声をもらした。
「えっと、業者さんとか?」
「いや、あの、裾あげしたお客さんで、いつでも掛けてきてって」
 どうやら仕事中にナンパをされたらしい。
「よくあるの?」
「さすがに手に書かれたのは初めてです」
 それはつまり、声をかけられることは間々あるということだ。実咲子は何と言っていいかわからなくなり、曖昧な笑顔を浮かべた。
 浴衣とカップルで混みあう電車で、それとなく怜平を眺める。普段はほとんど感じないが、外にいると彼の見目の良さは群を抜いていた。顔立ちやスタイルはもちろんだが、まとう空気がやわらかく色っぽいのだ。
「なんですか?」
 実咲子の視線に気づいて、怜平が微笑む。半径一メートル以内の女子が一気にざわついたのを感じとって、実咲子は沈黙を貫いた。
 電車から降りても、改札を出ても、しばらくは人込みが続いた。ビルやマンションが立ち並んで街はごちゃついていたが、川のおかげで空だけは広い。上空は風が強いのか、厚みのある雲も足早に去っていく。
「花火日和でよかったね」
「そう、ですね」
 駅近くの立ち飲み屋を二度見して、怜平は引き攣った笑みを浮かべていた。実咲子は首をかしげてどうしたのか問うたが、怜平はなんでもないと首を振るばかりだった。視界の隅に浴衣が見えて、ああそうかと納得する。
「ごめんね、松下」
「なにがです」
「ううん、いいの」
 コンビニでビールとジュース、おにぎりやおつまみを買って、怜平の部屋へあがる。ここへ来るのは誕生日のサプライズ以来だった。簡素なパイプベッドと小さな座卓があり、作り付けの手狭なクローゼットからは仕事着でもある服が溢れていた。
「散らかっててすみません。ここんとこ部屋には寝に帰ってるだけで」
「いいよ。ていうか、うちで余ってるカラーボックスいる?」
「まじですか、ください。あ、先輩なに飲みます」
「なんでもいいよ」
 実咲子は履いていたサンダルを持ってベランダへ出た。日暮れ時の淀川は空を映してパステルカラーに艶めいていた。堤防や河川敷には人が詰めかけ、芝生や砂利はほとんど見えない。橋を渡る車がちらほらとヘッドライトを点けて、大きな蛍のようだった。川からの、ほのかに冷たく心地いい風が届く。
 肌寒かった四月の夜風が懐かしい。たった四カ月前のことが、ずっと昔のことに思えた。
「始まるまで、まだすこしありますよ」
 窓際から怜平に声をかけられる。振り返るとカクテルグラスを渡された。
「きれいなグラス」
「さっちゃんから俺たちにって。こないだ仕事の休憩時間に会って、選ばせてもらったんです」
 怜平は揃いのグラスを寄せて、涼やかな音を鳴らした。
「中はなに?」
「シャンディです。さっき買ったビールで」
「へえ。いただきます」
 ベランダへ足を投げ出して、サッシの段差に腰かける。裸足のままの怜平は実咲子のほうを向いて、両脚で実咲子を抱き込むようにして座った。決して広くない部屋の、小さなベランダへ繋がるひとつきりの窓辺が大きいはずもない。怜平が折り曲げた脚の隙間に、実咲子はすっぽりと収まり、身動きが取れなくなった。
「先輩」
「なに」
「触ってもいい?」
「なにを」
「それ言わせるんだ」
「口で言えないようなのは、まだだめ」
「まだ? まだって、じゃあ、いつからだったらいいんですか」
「そういう言質はしっかりとるわけね……」
 口の中で楽しげにはじける炭酸を味わいながら、実咲子は眉をひそめた。
「俺、先輩に触れていたい」
 腕が回され、ふんわりと抱きしめられる。怜平の火照った額が首筋に押し当てられた。香水と汗の混じった香りが鼻をくすぐる。
「たぶんもう、あんまり時間がないんです」
「どういうこと?」
「じき、わかりますよ。だから」
 すぐそばに怜平の鳶色の目があった。いつもはやさしいばかりの眼差しに、どこか乱暴な鋭さが宿る。鼻先をやりすごして、互いの唇が重なろうとする。逸って洩れた吐息が、熱をあげる。
 だが、それ以上距離が縮まることはなかった。
 部屋のインターホンが容赦なく連打される。怜平は頭を抱えて、がっくりと肩を落とした。
「え、誰」
 実咲子は恐怖していたが、怜平はへらへらと力なく笑い立ち上がった。
「これが来る前にせめて、と思ったんですけど……。ああもう、開けます、開けますよ!」
 怜平がドアを開けると、すっかり出来上がった山崎と嶋がなだれ込んできた。うしろには関谷の姿もある。
「実咲子せんぱーい! 狩人が狼を退治しに来ましたよー!」
「シマイチ、リア充殲滅モード入ります」
「うん、なんかごめんな、松下。相沢も」
 滅多に酔わない関谷だけがまともに会話できる状態だった。実咲子はわけがわからず、怜平に説明を求めた。
「呼んだの?」
「まさか。でも、さっき立ち飲み屋にいるのを見かけたんです」
「ああ、駅のそばにあった……」
「はい」
 浴衣じゃなかった。
「なんだ、そうだったんだ」
 アルコールのせいか気持ちが弛んで、実咲子はくすくすと笑ってしまうのを止められなかった。怪訝そうな顔をして怜平が困り果てている。それを見て、さらに楽しくなって笑った。
 地響きをともなって、花火のあがる音がする。振り返ると、向かい側のマンションの窓に彩りがきらめいた。
「せんぱいっ、はじまりましたよ!」
「すげー、近いっすねー」
 ベランダでは山崎と嶋がすでに歓声をあげていた。
 鼓動を掻き乱されるほどの音と振動に、たまらず体が熱くなる。
「一緒に見ましょう、先輩」
 怜平に腕をひかれる。実咲子は他に言葉を知らないおさなごのように、うん、と大きくうなずいた。
 見あげた花火はこれまでに見たことないほど近く大きく、馬鹿みたいに騒がしかった。
 こっそり繋いだ怜平の手が熱く、実咲子は花火に見とれる振りをする。一度彼を振り返ったが最後、まだだめ、なんて言えなくなってしまいそうだった。