STARDUST

 好きですと伝えるだけで、なにも怖いものなどない気になる。何度も言葉を重ねるほどに、この気持ちは永遠に続くように思えてくる。
 あまい、あまい、麻薬のようだ。恋は。
 夢心地のふわふわとした日々に、怜平はふとかつての恋を思い出す。
 行き場のない恋だった。だからこそ壊れてしまったのだろう。けれどもはじめから痛みばかりの恋ではなかったはずだ。
 そう、いまこのときのように。

 フェイクレザーのジャケット、カーキ色のシャツ、キャメルのウエスタンブーツ。盆が過ぎ、アルバイト先のショップは秋一色になった。外はまだ暑さが和らぐ気配はないが、ショーウインドーの前に立てばいくらか夏を忘れられた。
 前期試験で休んだぶんを埋めるため、怜平は短期アルバイトを増やし休みなく働いた。実咲子とは花火のおりに会ったきりだった。電話やメールはあるが、付き合いはじめて日が浅い恋人同士とは思えないほど、さばさばとしたものだった。特に実咲子は、怜平がもどかしくなるほど聞きわけがいい。すこしくらい不満を口にしてくれたほうがかえって罪の意識を持たずにすむのだが、怜平のほうでもそうと言い出すことができずにいた。次の約束もいまはまだない。それでも気持ちが翳る気配は微塵もなかった。いつだって実咲子のことを思い浮かべると心は華やぎ、どんな疲れも吹き飛んだ。
「おう、怜平」
 二週間先のシフト表をチェックしていると、店長の下園に突然頭を小突かれた。
「シフト睨んでも休みは増えんで」
「別に睨んでないです」
「可能な限り入れてくれって言ったんはおまえやろ。責任持ちや」
 言葉は厳しいが、それ以上のことを感じさせない人だった。すみませんと謝ると、少年のように無邪気に歯を見せて笑う。
「みんなして好き勝手ゆうから大変やねんぞ、シフト作り」
「ありがとうございます。助かります、すこしでも稼ぎたいんで」
「ビヤガーデンの短期もやってるんやろ」
「はい……」
 苦笑いを浮かべて、怜平は視線をそらした。
「飲食系のバイトはもうしたくなかったんちゃうん。思い出すから」
 下園はかつて怜平が働いていたジャズバーの常連だった。その店を辞めて次の仕事を探していたところ、人手が足りないからと声をかけてくれた。薄暗い店内、生きもののようなピアノ、腹の底を揺さぶるベース、知性と狂気のドラム、くすんだスポットライト、煙草のにおいと沁みるような歌声。そういったものの影から離れていたかった怜平は、下園が差し出してくれた手を迷うことなく掴んだのだった。
「屋外なんで、大丈夫みたいです」
「そこなん? まあたしかに屋上ビヤガーデンに『ピチカート』の雰囲気はないけどな」
 伝票の束をファイルにまとめながら、下園はそういえばと呟いた。
「こないだ高岡女史が来たで」
「へえ、元気でしたか。だいぶ前に会ったきりですけど、研修でしばらく東京へ行くって」
「らしいな。なんか帰ってきたんやて。自分のことずいぶん気にしてたわ」
「まさか。高岡さんが?」
 怜平は思わず笑いを洩らした。高岡清もまたピチカートを贔屓にしていた。清と書いてさやかと読む。名前のとおり清々しく爽やかな人柄で交友関係は広いが、さやさやと流れる清流のように他人へのこだわりも少ない。怜平には下園の言葉が意外でならなかった。
「だってほら、あー、その、大学行ったんは高岡女史のすすめやろ」
「まあ、そうなりますね」
 高岡と最後に会ったのは大学入試の直前だった。まだ結果が出ていないどころか試験も受けていないのに、前祝いだと食事に誘われた。しばらく大阪へ帰ってこられないからと高岡は言ったが、下園のいまの言葉で、それは建前だったのだと確信した。下園もまた同じことに気づいている。察して、怜平は朗らかに微笑んだ。
「高岡さんはなにも悪くないんですけどね」
「やけど知ってたんやから気にするやろ。自分が怜平に話してたらって思うはずや。すくなくとも、おれやったら黙ってられへんかったやろうし」
 まとめ終えたファイルを閉じて下園はつとめて明るく口を歪めた。すこし後悔しているとき、下園はいつもこの顔をして無言で謝る。
「ま、暇があったら連絡してみ。喜びはるわ」
「そうしてみます。ありがとうございます」
「よし、ほな仕事な」
 ぶ厚いファイルを怜平に渡して、下園はジャケットの前で腕を組む客の方へと歩み寄っていった。怜平はレジ下の棚へファイルを収めて、ひとつ深呼吸をする。無性に実咲子に会いたかった。

 夕方まだ明るいうちにビヤガーデンへ向かった。日没の粒子が霧のように立ちこめて、足元が覚束なくなるような寂寥感に襲われる。みるみる輝きだす月が気持ちをいっそう波立たせた。
 怜平はいくつか届いているメッセージを無視して、実咲子へのメールを打ちはじめた。用件はない。気の利いた面白い話もない。今日は以前のアルバイト先での飲み会があると言っていたことを思い出す。あからさまに返事を期待するようなことも言いたくはなかった。
 書いては消してを繰り返しているうちに、自分はただ彼女の名前を呼んでいたかったのだということに気づいた。そうしていないと、自分がここから消えてしまいそうだった。胸の奥で凍りついていたはずの過去が残照に融けだし袖をひく。
 強い風が吹きつけるように記憶が怜平を取り巻いた。
 はじめて彼女を見たのは、ピチカートの狭いステージの上だった。彼女はピアノとともに歌っていた。
 音楽にいのちを吹きこみ、自在にあやつるひとだった。神のような傲慢さと少女のような無邪気さで、音の嵐をまきおこす。聴くものを散々に振りまわしながらどこまでも離さない引力を、離れたくないと思わせる魅力を兼ね備えていた。ピアノは彼女で、彼女はピアノだった。バンドの臨時メンバーにすぎなかったが、彼女のピアノを楽しみに訪れる客は多かった。
 あゆちゃんと呼ばれていた彼女のフルネームを知ったのは、一夜が明けてアドレスを交換したときだった。
『川瀬あゆ、む?』
『男みたいな名前やろ。あゆみでええのにな』
『嫌いなんですか』
『ううん、めっちゃ好き』
 彼女が自分の名前を愛していることを、怜平はぼんやりとわかっていた。ただ彼女が息を吹き込んだ「好き」という言葉を、それがたとえ自分に向けられたものでなくても聞いてみたかったのだった。
 大きく息をして、現在を踏みしめる。ミサコ先輩、と呼びかけたメールをそのままにして、怜平は週末をむかえてふくれ上がる人込みを歩いた。
 屋上に取り付けられた大型テレビからは球場の大歓声が聞こえてくる。ビヤガーデンに集った客も応援歌を口ずさみながら盛りあがる。西の空が青くなるころには店は満席となった。
 ホール係の怜平は、両手にジョッキをいくつも持ってサーバーとテーブルを行き来した。初日こそ久しぶりに持つジョッキを重く感じたが、翌日にはすっかり慣れた。忙しさのため仕事中に余計な私語がないのも良かった。おかげで働いているあいだは、なにも考えずにすんだ。
 野球中継が終わると、大テーブルの団体客は帰り支度をはじめる。片付けのため出口へ向かう客を見送っていると、ふいに名を呼ばれた気がした。
「りょうくん!」
 振り返ると流れに逆らって一団から出てくる人影があった。駆け寄ってきたのはモノトーンのワンピースを着た、姉の彩乃だった。ボリュームのある髪を器用に結い上げて、夏らしいカーディガンをはおっている。年々母の面影が濃くなる華のある顔立ちが、シンプルな装いにいっそう映えた。
「そんな大声で呼ばなくても」
「だってすごい偶然! 街なかでこんなふうに会うなんて!」
「生き別れの弟に会ったみたいに言わないでくれる。ちゃんと連絡してるのに」
 そうは言ったが、会うのは春以来だった。綾乃が手放しで喜ぶのも無理はなかった。
「ねえ、久々に飲みいこうよ。明日土曜だし」
「おれは明日もバイトだけどね」
 レジにいたマネージャーとかすかに目があう。怜平は彩乃を介抱するふりをして一団のほうへ促した。
「そっか、じゃあしょうがないね」
 潔い引き際に、怜平は違和感を覚えて姉を見おろした。
 他愛ない話や愚痴はすぐ口にするくせに、大切な話や自分の気持ちのこととなると、途端に無口になるところがある。母が家を出てからはそれが顕著になった。
 怜平はフロアを見渡した。団体は彩乃の一団で最後だ。あと三十分もすれば上がれるだろう。
「いいよ。終わったらすぐに電話する」
「え、でも」
「ゴチになります」
 彩乃の言葉を遮るように、怜平は肩を叩いて笑った。それに応えて彩乃も笑う。
「どーんとまかせなさい」
 姿は母と似ているが、嘘や隠し事が苦手なたちは父譲りだ。そういう不器用な姉を怜平は好ましく思っていた。

 松下はうわばみの家系だ。どんなに飲んでも平然として顔色を変えない。ただ彩乃だけが誰に似たのか、こらえが利かなくなる。
 彩乃は職場での愚痴を肴に酒をあおった。梅酒ロック、芋焼酎ロック、角ロックを次々と飲み干してはくだを巻く。怜平はうなずきながら生ビールで付き合った。
「りょうくんの彼女はいまどんな子なの」
「サークルの先輩」
「他は?」
「彼女っていうのはひとりきりだろ」
「嘘だー。前に飲んだとき立て続けに違う子から電話あったけどー。しかも両方に好きとかなんとか言ってー」
「へえ」
 思い当たる節がないではないが、おそらくどれも嘘ではなく、本心でもない。怜平にとっては特別な意味をもたない、ただの相槌だったのだろう。
「あったっけ、そんなこと」
「うわ、さいってー。女の敵だ。りょうくん不良だよ不潔だよ」
 彩乃は手近にあったおしぼりを投げつけようとして、思い直して頬づえをついた。
「でもちょっと羨ましいなあ。誰とでも付き合えるって、誰でもいいってことでしょ。わたしもそんなふうになりたい」
「何気に失礼なこと言われた気がするけど」
 彩乃はグラスに残っていた梅酒を一気に飲み干した。そして唐突に、お母さんは、と切り出した。
「お母さんはさ、お父さんのこと好きだったと思う。だってふたり、仲良かったでしょ。でもお父さんといると必然的にわたしたちとも一緒だから、それがつらかったのかなあって。きっともう、母親ではいられなかったんだよ。だから女の人でいられる場所を選んだ。いまはそう思ってる」
 母が出て行った夜、彩乃は友人宅へ泊まりに、父は仕事仲間と飲みに行っていた。家には怜平だけだった。翌朝父が戻って母の不在が明らかになると、連絡を受けた彩乃は寝起きのジャージ姿で家まで走って帰ってきた。見送った怜平を責めることも、引き留められなかった父をなじることもせず、端整な字で残された書き置きを見つめて、唇を噛んで泣いた。そのときになってようやく怜平は事の重大さに気づいたのだった。
 それから彩乃は母の代わりに家事をこなした。父は絵筆が持てなくなり工房を辞めた。しばらくは貯金で食いつないだが長くはもたなかった。母がいなくなって一年後、父と姉は親戚を頼って神戸へ越した。当時高校生だった怜平はひとり残り、卒業まで工房の親方一家の世話になった。
 長いあいだ母の話はタブーだった。だが怜平が大学へ通いはじめたころから彩乃は母のことをあの人と呼ばなくなり、最近では折に触れて話すようになった。そのことを彩乃自身は無自覚のようだった。
「りょうくんはきっとお母さんのそういうところ、わかってたんだよ」
「どうかな」
「そうじゃなきゃ、お母さんはあの夜を選ばなかったと思うから」
 怜平は相槌を返さず、黙ってジョッキに手を伸ばした。
 母が最後どんなふうに笑って、なにを話したのか、怜平は語らなかった。それでも彩乃はある種の冷たさでもって母の本質を捉えようとしている。怜平にはそうやって見透かされる母がすこし羨ましくもあった。
「ほんとはみんな、誰でもいいのかな。わたしのほうがおかしくて……」
 箸袋をちょうちょ結びにして、それをまたほどいて、彩乃は消え入るように黙りこんだ。
 彩乃の胸にも消せないままの恋がある。無理やり閉じ込めてしまった怜平とは違って、彼女はいまもまだ小さく灯る想いを聖火のように大切に抱いている。想い人はかつての工房にいる。怜平の絵を最初に褒めてくれた、姉弟にとって兄のような人だった。ただ、彩乃は父に気兼ねしているのか、連絡を取っていないようだった。
「それぞれだよ」
 そのことを彩乃もわかっている。それでも誰かにそうと言ってほしいときがある。
「最近、絵は?」
「すこし」
「また見せてね」
 それから互いにもう一杯ずつ飲んだところで、彩乃が力尽きたように話さなくなった。怜平は半眼の彩乃を抱えて店を出た。
 電車に乗るまではどうにか自分の足で歩いていたが、座席に落ち着くと、彩乃は怜平にもたれかかって何やらもごもご言うばかりになった。
「寝るなよ」
「うん」
「おんぶする気ないから」
「やだ」
「やだじゃない。とりあえず泊めはするけどさ」
「きっとりょうくんはいつもこうやって女の子を……」
「神戸線に放り込んでほしいわけ?」
「りょうくんの彼女は大変だなあ。りょうくんかっこいいもんなあ。自慢の弟だもん」
「不良で不潔なんじゃないの」
「うーん、気持ち悪い……」
「まだ電車だから、頼むから我慢しろ」
 どうにか無事に電車を降り、彩乃を女子トイレへ押し込んだ。しばらくしてふらふらと出てきた彼女をベンチに座らせ、水を飲ませる。覗きこんだ顔は真っ青だった。
 通りがかりの酔っ払いがふたりを茶化しながら千鳥足で過ぎていく。終電車まではまだ時間があるが、いつまでもここにはいられない。駅員が救急車を呼ぼうかと声をかけてきた。怜平はそれを断り、彩乃を背に負う。ジーンズのポケットで携帯電話が震えていたが出られるはずもなく、改札をくぐった。
 繁華街だけあって駅前はまだ明るく、人通りもある。怜平は人目を嫌ってすぐに道を折れた。途端に周囲から音が消える。街の喧騒も車のクラクションも、薄い膜を隔てた向こうのことに思えた。
 背中の彩乃が落ち着いた声で謝った。
「ごめんね、大変でしょ」
「いいよ。軽いとは言わないけど」
「そうじゃなくて、お金」
 怜平は生活費や学費を自分でまかなっているが、一部、彩乃からの援助もあった。
「充分やってもらってる」
「だって、掛け持ち……」
 訊かれるだろうと思っていた。怜平は正直に答えた。
「引っ越そうと思って」
「そうなんだ。契約者の人と連絡つきそうなの?」
「いや、わかんない。でもどうにかするつもり」
「うん……、わかった」
 マンションのエレベーターに乗り込んで彩乃をおろす。扉がひらくと、外からむっとした空気が押し寄せた。怜平はエアコンをつけるからと言いおいて先に歩き出した。だが角を曲がったところで立ち止まる。怜平の部屋の前に立つ人がいた。
「ミサコ先輩」
 呟きに実咲子が振り返る。
「あ、おかえり。ごめんね突然。さっき連絡したんだけど……」
「ねえりょうくん、暑いから先にシャワー借りてもいいかなあ」
「出なか……った、から……」
 実咲子は怜平にもたれかかる彩乃を見て、すっかり言葉を失った。怜平は慌てて彩乃を引き剥がす。
「違うんです先輩。これは姉の彩乃っていって」
「うん。そうか」
 どこかしら憐れむような目をして、実咲子は微笑む。ほんのすこしも信用されていない。
「ごめんね松下、なんか迷惑だったよね。帰るね」
「迷惑なんて。いや、ちょっと待ってください。先輩誤解してます。ていうかこんな時間にひとりで行かせるわけには」
「大丈夫、ひとりでここまで来たんだし心配しないでいいよ。終電あるうちに帰るね」
 実咲子はどこまでもにこやかな様子で、横を通り抜けてエレベーターへ向かう。引き留めたところでどうすれば信じてもらえるのかわからず逡巡しているうちに、待機していたエレベーターの扉がひらく。乗り込もうとする実咲子をぼんやり見つめていると、横から伸びてきた手が実咲子の腕を掴んだ。
「待って待って、帰らないで」
 引き留めたのは、彩乃だった。
「りょうくんが言ってること、今回はほんとだから信じてあげて」
 今回も前回もないが、怜平は状況を鑑みてそのことに言及するのは控えた。
「姉弟って、どうやったら信じてもらえるのかな、あんまり似てないからな……あっ、身分証。待って、いまから保険証出すから。あのね、昨日歯医者行ったからそのまま入ってるはずなの、ええと……」
 鞄から財布を取り出し、実咲子の手を離さないまま片手でなかを探る。脇に挟んでいた鞄の口がひらいて、中身が足元に散らばった。実咲子は慌ててポーチやハンカチを拾いあげる。そのあいだにエレベーターの扉は閉まり、下の階へ呼ばれていった。
「おかしいなあ。置いてきちゃったのかな」
「あ、あの、わかりました。とりあえず信じることにします」
「とりあえず……」
「ほんと? よかったあ」
「はい、驚きましたけど……、でもよくよく考えたら想定内の事態だなあって」
 実咲子は彩乃にポーチを手渡しながら、ちらりと怜平を見やる。いたずらな目をしていた。貸しだとでも言わんばかりだ。
 彩乃が気を利かせて買い出しに行くという。先ほどまで自分で歩けなかった酔っ払いを行かせるわけにはいかないので、怜平は彩乃に鍵を渡し、実咲子とともにマンションを出た。
 夜道を歩きながら、実咲子は軽いため息とともに笑った。
「……今回、ねえ」
「やっぱりいじりますか、そこ」
「理解のあるお姉さんだねー」
 実咲子の二歩後ろを怜平は歩いた。花火から半月ほどしか経っていないのに何カ月も会っていなかったような気がした。実咲子を形作るすべてが怜平の目にあざやかで、かけがえのないものだった。
 携帯電話に着信とメールが残っていた。追いついて横に並ぶ。
「すみません、電話気づかなくて」
「いいよ。ほんと自分でもどうしてこんなことしたのか、いますごく不思議だから。実際、お姉さんいなくても迷惑だったよね。明日もバイトでしょ」
「なに言ってるんですか。先輩ならいつでも大歓迎ですよ」
「だいぶ飲まされちゃって、なんかすごく盛りあがって、それでね……」
 言い終えないうちに、実咲子は足早にコンビニエンスストアへと行ってしまった。取り残された怜平は明るい店内にいる実咲子を外から見つめる。その横顔には、いつかの翳りがあった。あの講師といたころの傷がいままた膿んでいるようだった。
 怜平は店へ入り、実咲子が見ていたアイスバーをカゴヘ放り込んだ。
「え、ちょっと」
「食べながら帰りましょうよ。おれもおなじのにしようかな」
「こんな時間に食べるとか正気?」
「だったら半分こで」
「わたしまだ食べるって言ってないけど」
「食べますよ、先輩は」
 怜平が静かに微笑むと、実咲子はすこし悔しそうに押し黙った。
 麦茶や缶コーヒーやおにぎりを買って店を出る。まっすぐマンションへ戻ろうとする実咲子に、怜平は遠回りしようと声をかけた。
 川へ向かった。階段をあがり、砂地が剥きだしになった土手に立つ。風が強い。川岸には手花火で賑わう一団がいた。光の届かない黒い空間に、七色の火花が吹きあがり、はじける。夜空に星はない。星は地上で生まれて消えた。
 アイスバーの袋を破り、実咲子へ渡す。しばらく食べるのをためらっていたが、溶けだしたアイスクリームが指を伝うので諦めてかぶりついた。
「あーもう、また太る」
「いいじゃないですか、すこしくらい」
「よくない。バイト辞めてから太って困ってるんだから」
「へえ。見たことないからわかんないです」
「……セクハラ」
 小さく呟いて、実咲子は目をそらす。怜平は実咲子の手を握り、腕が重なりあうほど近づいた。実咲子の肌は川辺の風でひんやりとしていた。
 体をかがめて、互いの前髪が触れそうな距離で目をあわせる。怜平は揺らぐ目をした実咲子を横目に見ながらアイスバーに歯を立てた。引き千切るように奪っていく。怜平の手のなかで、実咲子の指がかすかに震えた。
 終電車が川を渡る。鉄橋の軋みと車輪のリズムが川伝いに響く。ネオンの落ちた川は満天の星空のようで、電車は空を駆けるようでもあった。乗客のいない車窓から真四角の光が川面へこぼれていく。残像が瞼の裏側で砕けて散った。
 唇についたチョコレートを舌で舐めとる。怜平は繋いだ手の指と指とを絡ませた。
「先輩の手って、不慣れですよね」
「どういうこと」
「繋ぎ慣れてない。中学生みたい」
 実咲子の指の手触りには恥じらいと知性がある。だからこそかすかに光るよろこびがいっそう際立った。
 怜平は残っていたアイスクリームを食べきって、伝ったぶんも舐め尽くした。

 朝夕に涼しい日が増えた。この連休が明ければ大学の後期授業がはじまる。夏はゆっくりと終わろうとしていた。
 アルバイト先では来月初旬の連休に向けて、施設から指示されたフェア準備に追われていた。下園は発注や在庫調整、また新作の資料まとめに忙しい。怜平は下園に代わって、フェア用ポップや企画概要を施設事務所まで取りにいった。
 仕事中に店の外を歩いていると、おなじ方向へ向かっている人々の流れがさまざまに入り組んでみえる。久しぶりの買い物を楽しんでいる人、休日にもかかわらず勤め先に向かう人、目的地へ向かう通過点である人、……。水族館の大きな水槽で泳ぐ魚たちのように、それぞれ違いながらも混ざりあって流れを作っていた。外側には立ち止まって誰かを待つ人や、行き先を見失い取り残された人がいる。
「あの、すみません」
 直前に、声をかけられる予感はしていた。案内板を見ていた人が、すれ違いざまに胸元のネームホルダーを見た気がしたのだ。
「はい、どうしましたか」
「久々に来たら道がわからなくて」
 マスクをしているせいで声がくぐもっている。ヘッドフォンを首にひっかけ、黒縁の眼鏡をかけた女だった。手には大きな花束を抱えている。
 怜平は雑踏のなかでも声が聞こえやすいよう、顔の高さをできるだけあわせて道を教える。そのあいだ、女は怜平が示す道先ではなく、ずっと怜平の顔を見つめていた。
「大丈夫ですか。近くですし、ご案内――」
「怜平」
 ネームホルダーには松下としか書いていない。怜平は驚き、あらためて女の顔を見た。女はマスクと眼鏡を外して、後悔にも似た揺らぎを滲ませながら微笑む。そうやって微笑うときは、きまって深く傷ついているのだ。
 怜平は小さく息を吸った。
「あゆむさん……」
 胸が凍みるようだった。