MAWATA

 たとえば人混みではぐれないように手を繋いだり、人混みを抜けてからもその手を離さなかったり、時おりじゃれて強く握りしめたら諌めながら優しく握り返してくれたり。
 きっとずっと、こんなときを求めていた。実咲子はいつも、すこし体温の高い怜平の肌に触れるたび思う。真綿のようにやわらかな温もりにいつまでだって包まれていたい、と。
 けれどいつからだろう、ふと息苦しくなることがある。それはなんでもない一瞬に訪れた。彼が実咲子を見つめるとき、そして彼が実咲子の望みを叶えるとき、その眼差しは実咲子の首を絞めつける。
 ただやわらかなばかりの真綿のように。

 日に日に日暮れがはやくなる。昼間は半袖で過ごしていても、薄暗くなると上着が手放せない。十月も半ばとなり、夏の抜け殻はいつしか眩しい光のなかに失せてしまった。
 阪急梅田駅で電車を降りた実咲子は、強く吹き抜ける風に慌ててカーディガンを取り出した。振り返るとホームを出入りする赤茶色の車両が目の覚めるようなピンクに染まっていた。それがあまりにも人工的な輝きだったので、たまらず見とれてしまう。
 本当はもう日は暮れていて、空から吊り下げられた大きなミラーボールが地上を照らしているほうがこの輝きにはふさわしい。そんな幻想に耽る。足早に歩いてきた女性と鞄同士がぶつかって、実咲子ははっと我に返った。互いに小さく謝って改札へ向かう。
 卒業論文のために連日図書館へ通いつめているせいか、世間の時間の流れから切り離されている。足もとがふわふわするが、夢見心地からはほど遠い。手に提げていた鞄を肩にかけて改札を出た。
「先輩」
 すぐそばから声が降ってきて、見上げると怜平が立っていた。すべるように寄り添ってきて実咲子の鞄をなにも言わずに持つ。
「重いでしょ。いいよ、自分で持つから」
「なに言ってるんですか。重いならなおさらおれが持つんですよ」
 怜平は実咲子から遠いほうの肩に鞄をかけ、残る一方で手を繋いだ。整っていながらどこか人懐っこい笑顔を向けられると、実咲子はなにも言えなくなる。華やぐほど胸の奥が渇いていった。切ないという言葉でまとめてしまうには、あまりに満たされている。泣きだす前のような、喉がぐっと押される感覚があった。実咲子は黙って顔を逸らして人差し指だけ絡めるようにした。
 帰宅時間の梅田は乗り換えやショッピングのためたくさんの人々がさまざまな流れを作って入り乱れていた。たとえ手を繋いでいても、すこし体が離れてしまえばすぐにもはぐれそうになる。怜平の手に力がこもるのがわかった。
「先輩、卒論はどうですか」
「進んでるような、進んでないような。やればやるほどやらなきゃいけないことが増える感じ」
「それで鞄がこうなるわけですね」
「本を何冊も持ち歩くよりはましなんだけど、それでもコピー用紙って結構重くて」
「大変ですよね」
「自分は関係ないみたい」
「なんかまだまだ先のことって感じで」
「それはあと二年じゃ卒業できないってこと?」
「先輩わりとはっきり言いますよね」
「授業に出て単位取ればいいんだよ?」
「……そのくらい知ってますよ?」
「じゃあ二年後だね、松下の鞄がこうなるのは」
「……ですね」
 苦笑する怜平を見てにやにや笑いながら、はたして自分はそのころどうしているかと想像する。この春に決まった就職先で働いて、週末には怜平と一緒に食事をして、とりとめのない会話を繰り返して……。それはいま現在の延長線上に見える世界で特別大げさな未来ではないはずなのに、どこか他人事でなんの感慨も実感もわかない。
 指先に怜平の肌を感じながら、どこへ行くあてもなく人波に流されて歩く。
「ミサコ先輩、なにか食べたいのありますか」
 まただ、と実咲子は胸のうちでこぼした。こたえたくなくて反射的に黙り込む。
「先輩?」
「あ、うん。聞いてる。ずっと図書館にいたせいか、あんまり食欲がなくて。お店入ったらその気になるだろうから、たまには怜平の行きたい店に行きたいなあ……、とか」
 前髪の下からそっと見上げると、怜平は眉を寄せて微笑っていた。
「だから先輩に訊いてるんですけどね」
「どういうこと」
 実咲子はこたえを知りながら、震える気持ちで問わずにはいられなかった。
「ミサコさんの行きたいところが、おれの行きたいところですから」
 そうらしいね、知ってる。実咲子は言葉にせずただ静かに目を細めた。
 付き合いはじめて四ヵ月になろうとしている。ひとつの傘に入り、花火を見上げ、真夜中の堤防をふたり歩いた。そのあいだ怜平はいつも心から幸せそうに、わずかな不安も不満も見せず実咲子のそばにあった。怜平の笑顔は眩しい。ほんの一瞬で目を奪われてしまう。それはいまにも暮れてしまう夕景にも似ていた。
 その先の光が、見えない。

 学園祭まであと一週間と迫っていた。キャンパスにはいたるところに様々なポスターが貼り出され、大掛かりな舞台用の足場が組まれはじめていた。ジャージ姿でダンスの練習をする人たち、機材やパネルを運ぶ人たち、芝生に座り込んでミーティングをする人たち、誰もがすでに満ち足りた顔をしていたが、植え込みに住みつく茶トラの猫一家だけは彼らを迷惑そうに見つめていた。
 猫にシンパシーを感じながら実咲子は大学の裏手へと向かっていた。山崎と待ち合わせている。体育館横を抜けて裏門から出る。薄曇りのなか吹く風は不思議といまにも砕けてしまいそうな脆さをはらんでいた。
 細い道を何度も曲がって住宅街を進むと、路地の奥に真っ赤なベンチがある。モノクロ写真に赤いインクを落としたように鮮明で周囲から浮き上がっている。屋号を赤いブランコというが、誰もそう呼ばない。そばには山崎の原付バイクが停まっていた。
 カウンターが六席だけのこじんまりとした喫茶店だ。客は山崎ひとりで、白髪まじりのマスターと将棋の最中だった。
「ザキちゃん、ごめんね。だいぶ待った?」
 将棋のことはわからないが盤上はずいぶん進んでいるように見えた。
「全然大丈夫ですよ。うち近いから家にいるのもここにいるのもGPS的におんなじようなもんですもん」
 山崎はマスターの前に手をひらひらと差し出して、おっちゃんお客さんやでと笑った。勝負の行方は次の来店時に持ち越される。
 実咲子の前にアイスカフェオレとシナモンドーナツを出し、マスターはカウンター内の椅子に座って新聞を読みはじめた。豊かなコーヒーの香りとともに流れてくるのはウエス・モンゴメリーのギター。実咲子は小さく、あっと呟いた。
「ザキちゃん、この曲」
 山崎から預かっていた原稿を引っ張り出し、ページを繰る。
「これだよね」
「ですです! 先輩、曲までちゃんと聴いてくれはったんですか、うれしい!」
「ネットにあったのは一応ね。難しいことはわからないけど、この曲がいちばん好きだな」
「でしょ、いいでしょ。もうめちゃくちゃかっこいいんですよ。こん人のギターは指が触れてくるみたいで。ちょっと乾いた、かたい肌で、すごい性的なんやけど、どこまでも性とは無縁のところにあるような。とにかくかっこいいんです」
 マテリアルは学園祭のブースで展示や物販を行うが、誰かが中心になって取りまとめることはなく、各自で準備することになっている。山崎は昨年に引き続き音楽エッセイ冊子を配布する。実咲子はその原稿の添削を頼まれていた。ヒットチャートすら疎い実咲子だが、山崎のエッセイはどれも愛にあふれていてどんな曲か知りたくなる。添削は荷が重かったが、おかげで苦にはならなかった。
「先輩は今年もハンクラ出しはるんでしょ?」
「うーん、できればそうしたいとは思ってるけど……」
「松下が邪魔しよる」
 卒論が、と言いかけていた実咲子は思わず言葉に詰まって山崎を見つめた。原稿を読んでいた山崎はその視線を感じて顔をあげる。
「わたし地雷踏みました?」
「地雷じゃないよ。松下はわたしの邪魔になるようなことは絶対にしてこないから。でもね、だからって全部は否定できないというか……」
「ほほう」
 揃えた膝がしらを実咲子へ向けて、山崎は妙に真面目な顔つきになった。
「あの男の愚痴やったらなんぼでも聞きますよ」
 だっておもろいからと目で語ってくれるのが、実咲子にはありがたかった。こんな話、他の誰にしてもただのノロケとあしらわれて終わってしまう。実咲子はたとえばと前置きして先日の行きたい店の話をして、続けた。
「はじめからそうだったわけじゃないんだけど……いつからかな、後期始まったころからだと思う。なんていうか、わたしの望み通りになりすぎるっていうか。付き合ってるというより、松下がわたしに付き従ってるみたい。わたしはもっと、今日はどんなふうに過ごしたとか、昨日食べたご飯がおいしかったとか、旅行の計画をああでもないこうでもないって考えたりとか、そのうち会話が脱線したり、たまには会うなり焼き鳥食べたいって言われたりしたいと思うんだけど、それって変なのかな」
 実咲子が同意を求めて首をかしげると山崎は眉間にしわを寄せて、先輩……としぼるように言った。
「せやからわたし言ったやないですか。あの男のこと、おもんない男やて」
「う、うん。うん……?」
「それはなにも笑い的におもろいとかおもんないとか、それもありますけど、そういうことばっかとちゃうんですよ。あれはね、なんでか知りませんけどどうしようもなく張り合いのない男なんです」
 のれん男ですわと山崎が顔を歪める。
「そらまあ顔はきれいし、気遣いもできるし、優しいとは思いますよ。でもあれじゃまるで接客やないですか。しかもマニュアルばっかりで、ただただ卒ない感じの替えがきくやつです。仕事やったらそれがええと思いますけど、付き合うってそうちゃうやないですか。あれじゃ松下んこと、なんもわからんやないですか。なんか隠してああしてんのか、それともどんだけひん剥いても接客なんか。やけどね、ほんまになんもないんやったらあの絵は描かんと思うんです。あれだけの目があって、それを形にする目ぇもあって。……まあ、ものを創られへんわたしには、そこらへんのことはわからんのですけど」
 自嘲気味に笑って山崎は続ける。
「あとほら、自分から振ることはあっても、振られてばっかとかもおかしいでしょ。そう言うわたしもこっちからおもんないて切り出したんですけど、みんながそうちゃうでしょ。どんなわがまま言うてもあの顔やったら許す女子、なんぼでもおりますよ。やから、わざとそうなるようにしてるとしか思えんのですよ。なんのためかが意味不明ですけどね」
 山崎の話に実咲子は何度もうなずいた。そうしながら、うなずくばかりの自分に嫌気がさした。自分が感じていながら言葉にしたくないことを山崎に言わせている。その狡さと弱さに辟易とした。
 山崎がいう怜平の「接客」には実咲子もはやくから気づいていた。振られてばかりというのも、付き合う以前からおかしいと思っていた。実咲子はそれらを見て見ない振りをしていた。怜平を好きでいるために。追及して怜平に嫌われないかと不安にならないために。ただ自分のためだけに。
 はじめて恋をしたころはそうではなかった。けれど淳は実咲子が知りたがるのをよしとしなかった。いま楽しいことを大切にする人だった。それを実咲子も受け入れて繋いだ関係だった。十代のころから何年も続いた恋だ。相手が変わったからといって、なんの影響も残さないはずがない。無意識のうちに目を閉ざす癖がついていた。知りたいと言わないこと、欲しないことが愛情だと思っていた。そうやって心が行き詰まったはずなのに、また繰り返そうとしている。
 怜平の好きな食べもの、好きな絵、好きな色、……。それらを思い浮かべようとするが、よぎるのは彼が描いた夕景とあの笑顔だけ。実咲子はそのほかに怜平のことをなにも知らない。
 融けた氷がアイスカフェオレの上で水の膜になっていた。まずくなるとわかりながら実咲子はストローですべて混ぜる。そうして一口、重たげに飲み込んだ。
 山崎が一段と低い声で短く、先輩と呼ぶ。
「勢いに任せてなんかいろいろ言うてまいましたけど、でもわたしあの日の松下はなんか違って見えたんですよ」
 あの日。それ以上のことを山崎は言おうとしない。実咲子も問い返すことはしない。それは四月の、まだすこし肌寒いベランダから淀川を眺めた日のほかない。
 怜平に会いたいし、触れたいと思う。それだけで充分と感じている自分がいた。優しさや、繋いだ手の強さは、一切の未来に響かない。心強くなど感じられない。むしろいっそう息苦しくなる。
 やわらかな不安が喉にからみつく。これは自分の弱さなのだと実咲子は思った。

 関谷からとにかく集合せよとメッセージが届き、実咲子は山崎と首をかしげた。今日は五限終わりから学園祭に向けてのミーティングの予定だが、それにはまだ早い。ちょうどグラスも空になったので、ふたりは部室へ向かった。
「ちょーもぉ、なんなんすか関谷先輩」
 勢いよく扉を開けて踏み入ろうとした山崎だったが、二歩目でぴたりと足をとめた。
「どうしたの?」
 うしろから覗き込むと、スーツを着た見知らぬ女性がいた。向かい合って話していた関谷が手をかるくあげる。
「おおー、ザキに相沢。おつかれおつかれ」
「つかお客さん来てはるんやったらそう言っとってくださいよ。めっちゃ恥ずかしいやないですか」
「あれ、おれさっき書かへんかった?」
「とにかく集合としか」
「せや。あはは、わるいわるい」
 からからと笑う関谷に山崎はそばにあった誰かのジャージを投げつけた。立て続けに投げようとするものの、手頃なものが見つからない。山崎がきょろきょろと探していると、スーツの女性が机にあったボックスティッシュを差し出した。
「あっそれはあかんっ、意外と角が痛い……いたっ!」
「女の子に恥ずかしい思いさせたんやから、そんくらいせんとなあ」
「あざす!」
「自分ら紹介する前から意気投合しすぎやろ……」
「で、あの……関谷さん、こちらの方は」
 実咲子が訊ねると関谷は首に巻きついたジャージをくせぇと言いながら剥ぎ、わざとらしく咳払いをした。
「えーっと、こちらは我らがマテリアルのOGで、創設メンバーでもある高岡清師匠や」
 散らかっていたレシートの裏に名前を書き、これでさやかと読みはると言い足す。実咲子と山崎がそれぞれ挨拶をすると、高岡はふたりの創作について知りたがった。山崎は先ほど実咲子が渡した原稿を見せ、実咲子はつけていたピアスを外して手にのせた。それらを前に、高岡は感慨深げに目を細めた。
「わたしが酒好きなばっかりに前はほぼ飲みサーやったけど、こうやって創作してくれる子がおってくれてめっちゃ嬉しいわ……。さっきもこれ見とったんよ」
 そう言って高岡が広げたのは怜平のスケッチブックだった。デッサンばかりの白黒の世界が静かにひらかれていく。
「この人は学祭で色つけたん出しやるんかな」
「どうなんやろ。先輩、松下から聞いてはります?」
 山崎が振り返る。実咲子は首を振った。
「なにも。家で描いてるふうでもないよ」
「そっかぁ。このデッサンもええけど、ひとつくらい色ついてるんも見たくなる絵やなあ。あれはまた別やんね。タッチがちゃうもんね」
 高岡は窓辺のイーゼルを指差す。立てかけられているのは嶋が描いている油彩画だ。さまざまにポーズをとった手がいくつも無造作に宙に浮かぶ絵で、下絵の際は実咲子も手のモデルをした。気持ち悪さと不思議のあいだを行ったり来たりする作品だ。
 怜平ならきっと水彩画を描くだろうと実咲子はぼんやり考える。雨の日、薄暗いこの部室で絵筆を持ったまま眠っていた怜平を思い出す。そこに描き出されていた夕景があざやかで優しくて寂しくて、怜平がとらえる世界もまたそうなのだと実咲子は知った。彼が見ている世界と、実咲子から見えていた怜平との差異に胸がざわついたのだった。思えば、付き合う前にはもっとさまざまなことを話していた。いまはもうあの夕景を見たときのように描いてとは言えない。
 不意に、山崎があっと声を洩らした。
「言うてたら本人来よったぽい」
「えっ」
 ドアを振り返るが誰の姿もない。廊下から嶋の中性的な笑い声が響いてくる。続けて、松下それないわーと聞こえる。やがて半開きのドアを押して、怜平と嶋が現れた。
「関谷さーん、おれ華麗に自主休講キメてきましたー」
「おー、シマイチ回れ右して授業なー」
「関谷さん、おれもいま自主休学中です」
「松下おれそれ初めて聞く単語やわ……そしてあまりにも大胆すぎるわ……。ちゃんと学校来てるんか?」
 呆れ果てた関谷の口から煙草の煙が洩れる。怜平は三日前には来ましたよとてらう様子なく微笑った。そしてその笑顔を実咲子へ向ける。
「ミサコ先輩、前髪切りました?」
「あ、うん、ちょっとだけ」
「似合ってます」
 怜平があまりにも普段通りなので、実咲子はかえって目が合わせられなかった。切りすぎてもいないのに、そうであるかのように手で前髪をおさえて視線から逃れる。思えば部員のいる前で言葉を交わすのは怜平の部屋で花火を見て以来だった。夏の終わりと秋のはじまりにふたりだけで重ねた時間が否応なく衆目に晒されるようで、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
「あれ?」
 高岡が怜平を見上げて首をかしげた。
「もしかして怜平?」
 突然名前を呼ばれて怜平は驚いていたが、高岡をしばらく見つめたあと静かな感嘆を洩らした。
「ああ、高岡さんじゃないですか。きちんと化粧してるからわからなかった」
「あいかわらず失礼なこやね」
「ありがとうございます。でも、どうしてここに? あ、もしかして前に話してくれたサークルってここのことだったんですか」
「そうそう。自分気持ち悪いくらいよぉ覚えてんなあ。ちょうど近くまで来たもんやから寄ったん。やけどこんな偶然ってあるもんなんやなあ、世間は狭いわ」
 悪いことはできへんなと笑う高岡に、たまらず山崎が挙手した。
「はいはーい、質問質問。おふたりはいったいどのような?」
「どの、ような。うーん、別にうちら知らん人やんなあ?」
 高岡は仕返しとばかりににやついている。怜平は苦笑いをこぼした。
「知らん人はないでしょ、高岡さん」
 高岡の言葉を方言まじりに怜平が繰り返すのを、実咲子は新鮮さや驚きよりも、どこか暴力的な衝撃とともに聞いていた。視線に気づいた怜平がいつもの笑顔を向ける。実咲子の戸惑いには気づいていないようだった。
「大学入る前に働いてた店で常連さんだったんですよ。進学を勧めてくれたのも高岡さんで。まあ、大してお世話にはなってないですけど」
「あんたがべそべそしてるとき淀川で蚊に刺されながら朝まで話聞いたったんは誰やと思っとん。ずいぶんえらなったもんやなあ」
「いや、冬だったんで蚊はいなかったですね」
「どっちでもええわ」
 高岡がわっと笑うと怜平も笑った。
 実咲子はサークルで出会うまでの怜平を知らない。以前のアルバイト先だという店には行ったことがあるが、どのくらいそこにいたとか、そこでどんなことがあったとか、そもそもどこの出身だとか、絵を描くようになったきっかけすらも知らない。ほんとうになにも知らないのだと突きつけられ息苦しい。手を伸ばさずとも届く場所に怜平はいるのに、実咲子にはそれがそのままふたりの距離とは思えなかった。
「……コ先輩、ミサコ先輩」
「え、あっ」
 呼ばれているのに気がつくと、すぐそばに怜平の顔があった。
「大丈夫ですか、ぼんやりしてましたけど」
 きれいな唇と整った鼻筋、笑うと目尻に寄るしわ。すこし苛立つときに見せる眼差しの暗さや、実咲子を気遣うときのやわらかな声。これらが怜平のすべてならいいのにと、実咲子は疲れた心で考える。
 視界の端、怜平の向こう側から関谷が手を大きく振っていた
「相沢ー、自分今日はこっから空いてるんか?」
「はい、大丈夫ですよ」
「よしよし、ほんならミーティングはどっか店行ってしよか。シマイチ、それでええか」
「ほぼほぼそうなるんじゃないかと思ってサーチしときましたよ。これクーポンです」
「おお、でかした。できる後輩を持っておれは幸せもんやなあ。せや、せっかくやし師匠も来てくれはるでしょ」
「そこまで言うなら行かんでもないで」
「それほどそこまで言うてませんけどね……あっ痛い」
 ポッキーの空箱が関谷の肩に投げつけられた。その横に嶋がバットを構える真似をして立ち、ボールとコールする。高岡は次の球になるものを机にさがし、関谷が笑いながらやめてと叫んでいた。
「あ、そうそう」
 高岡と一緒に球をさがしていた山崎が鞄のなかをごそごそとしながら実咲子と怜平のそばに歩み寄る。
「これ、頼まれてたやつ」
 そう言って怜平へ差し出されたのは、間取りの印刷された数枚の用紙だった。
「お姉ちゃんから先週もらったやつやから、いまも空いてるかどうかわからんけど。気になるやつあったら言うて。ていうかほんまあんたいつまでガラケーなん。こんなん自分でサイト見ぃや。まともにネット環境なくてよぉ生活していけて……って、え、あれ、先輩?」
 じっと間取りを見つめる実咲子に気づいて、山崎は事態を悟ったようだった。
「ちょ、松下あんたもしかして先輩に」
「あ、とりあえずありがとうございます」
「そんなんどうでもええ。それよりちゃんと説明しぃや。先輩あのね、うちの姉が不動産屋で働いとってですね――」
「引っ越すの?」
 責める理由も権利もない。知らなかったことが悔しいわけでも恥ずかしいわけでもなかった。ただ問う以外の意味をもたない問いかけだった。
 怜平は顔色ひとつ変えることなく、微笑みでごまかすこともせず、はいと静かに答えた。

 もっと怒ったってええんですよと山崎が言うのを、実咲子はにごり梅酒をロックで飲みながら聞いていた。怜平はアルバイト先の棚替えがあるからと一時間ほどで帰ってしまった。彼が残したジンジャーエールはいまもまだ下げられないままテーブルにある。店にいるあいだは高岡や関谷と話すばかりで、実咲子とは運ばれてきたジンジャーエールを渡すときに交わした機械的なありがとうだけだった。光の見えない、息苦しくなるほどやわらかなあの笑顔もなかった。
「ねえザキちゃん、付き合ってたら引っ越すときに事前に話すもの?」
「すくなくともわたしは話しますし、話してほしいと思いますね。だってちょっと時間あるから寄ってこーって行ってみたらおらんのですよ? ないでしょ」
「でも別に一緒に住んでるわけじゃないし、究極的には関係ないよね」
「そらまあ、そうなんですけど……」
「前に付き合ってた人は、知らないうちに番号変わってたり、家が変わってたりしたんだけど、それって変だったのかな」
「ないですわ」
 山崎は空になったジョッキを掲げておかわりを頼む。実咲子もグラスに残っていたぶんを一気に飲み干して便乗した。
「先輩、先輩は松下のこといっぱい知ってていいんです。誰よりも詳しくていいんです。たぶんそれが自然なんやと思います。なんでそんな、一歩も二歩も三歩も引くんですか。なんも悪いことしてへんのに。もどかしくてもどかしくて、ほんまわたし、あとちょっとで松下んこと殴ってまいそうやったんですよ」
 新しく運ばれてきた生ビールをぐいぐいと飲んで続ける。
「これはなんとなく黙っとこ思とったんですけど、この際やから先輩には伝えておきますね。松下がいま住んどるマンションですけど、あこ、姉が言うには分譲らしいんです」
 山崎が神妙な顔つきで話す意味がわからず、実咲子は枝豆に手を伸ばした。
「せんぱいぃ、聞いてます?」
「聞いてるよ」
「もしかして松下の持ち家やと思わはったんですか」
「まさか。だって人に貸してる場合だってあるでしょ。分譲マンションだからって、住んでる人がみんな持ち主とは限らないんだし」
「やけど、あこらへんの相場知ってはります? あんな、服は全部職場の人のお下がりで、メシは適当極まりなく、バイトみちみちに入れてるようなのが住める家賃ちゃいますよ」
 それは実咲子もずっと気になっていた。ワンルームとはいえ、部員が雑魚寝できるほどゆとりがある。駅からは徒歩圏で眺望もいい。誰からの援助もなくアルバイトだけで生活できる部屋とは思えない。
「家賃だけは親御さんが払ってるとか」
「まあ、なくはないですよね。わたしやったらおんなじだけ貰っといてもっと安い部屋に住んで、余ったぶんで遊びますけど」
「ザキちゃんらしい」
「お金はよぉよぉ使わんとね」
 ふたりでくすくす笑っていると座敷の端で酔って寝ていた嶋がドイツ語で魔王を歌い出したのでミーティングはなにも進まないままお開きとなった。

 泥酔した嶋をそのまま電車に乗せるわけにはいかないので、関谷は嶋を担いで山崎のアパートへ行くという。
「相沢はどないする」
「今日はここで帰ります」
「そうか、ほな気をつけて。あ、せや、あんまり無理しなや」
「なにをですか」
「まあ……その、ほら、いろいろや。卒論とか、な」
「そっか。先輩はもう卒論の単位取ってるんですよね」
「これでも五年生やからな。半歩くらいは先におるつもりやで。あんまり根つめんと気晴らしにいつものん作って、ほんでついでに学祭に出してくれたらええからな」
「ああ……、ミーティング」
「部長があないなったいま、前部長としてしとかなな」
 最後にもう一度ほなと言って関谷は原付バイクを押す山崎のもとへ走っていった。嶋はと探すと、アスファルトの上に転がっていた。実咲子は山崎に手を振って駅へと歩き出した。
「相沢さん」
 勢いよく肩を叩かれて、振り返ると高岡がいた。手にはミネラルウォーターのペットボトルを持っている。
「はい、これ飲み」
「ありがとうございます」
「端っこでだいぶ飲んでるみたいやったから。あんま顔色変わらんね。強いんやなあ」
「高岡さんも全然酔ってないじゃないですか」
「お酒はガソリンやからね」
 並んで駅へと向かう。九時を過ぎ、大学前は人通りもまばらになった。夜というだけで昼間とはまた違う場所にいるような錯覚に陥る。雑多な景色のなかに、底冷えするような閑散とした佇まいが漂うさまは、閉園した遊園地に似ていた。
 胸の奥によく冷えた水がしみていく。顔色は変わらないが酔っていた。はあっと息をつくと、横で見ていた高岡が微笑む。
「怜平の彼女さんなんやって?」
「まあ、一応そういうことになってます」
「一応て。なんなん、あいつ何人もの女の子に同時に手を出すようなふしだらなことしてんのん」
「なくはないと思いますよ」
 やけになって強い口調でこたえると虚しさが増してしまい、実咲子は口を噤んだ。怜平に不信感を抱いているわけではない。ただほんのすこし、飲み会の席で怜平と姉弟のように親しげに話す高岡に嫉妬していた。実咲子は、自分にはあんな風には話せないと思ったのだった。
「そんな器用なことできるこちゃうやろに。あのこは、あほみたいにその人だけのこやったで」
 高岡は小さな声で続けた。
「怜平はどう。元気しとる?」
 まるで今日会えなかったかのように言う。
「どういう、意味ですか……」
「なんかカラ元気やったやろ。そんな感じせんかった?」
「さあ……、あんまり話さなかったから」
 すぐ横を車が走り抜けていく。風で乱れた前髪を手でおさえると、ふと怜平の笑顔が脳裏に浮かんだ。似合っていると微笑った彼に、いまさら違和感を覚える。怜平はどこまでも実咲子の気持ちを大切にする。ふたりきりのときならいざ知らず、部員のいる前で実咲子が恥ずかしがるようなことを言うだろうか。カラ元気かどうか実咲子にはわからない。だがいま思えばいつもの怜平とはすこし違っていたかもしれない。
 角を曲がって線路沿いをいく。話が途切れたままだったが、実咲子はあえて繕おうとしなかった。しばらくして遮断機が鳴りはじめた。駅は近い。ここからなら急げば間に合う。高岡が線路の向こうを振り返って、足をはやめた。一歩、二歩、走りだそうとした三歩目で、気づけば実咲子は高岡の腕を掴んでいた。
「わっ、びっくりした」
「ご、ごめんなさい」
 謝って、その次の言葉が出てこない。うろうろと視線を投げながら、あの、その、と繰り返す。高岡はまっすぐ向き合うように立ち、静かに実咲子を待っていた。
 金網の向こう側を電車が走り抜けていく。車内の明かりがちかちかと足元ではじける。長いあいだ実咲子の口もとや首に巻きついていた真綿が、急にたしかな質量をもった。息苦しさは胸の痛みに変わる。考えても感じようとしても掴めなかったものの正体がはっきりと見えた。一度気づいてしまえば、もう目を逸らすことはできない。
「高岡さん、松下のこと教えてください」
 心のずっと深いところから実咲子は渇望していた。怜平がこれまでどんな世界を見てきたのか。あの夕景を紙の上に切り取った彼の眼差しをもっと知りたかった。怜平が見せる笑顔に本当に光がないのかどうか知りたかった。怜平のことならなんでもいい。知りたかった。
 高岡は伏し目がちになって口もとだけで微笑む。
「わたしが話すことちゃうと思うけど?」
 その通り、本来なら怜平自身に訊くべきことだ。実咲子は小さく、けれどたしかな心地でうなずいた。
「わかってます。高岡さんから見た彼のことも知りたいんです」
 そう聞いて高岡はしばらく考えていたが、突然腕を高くあげた。実咲子が何ごとかと驚いていると、真横に黒いタクシーがすっと停まった。
「ほな行こか」
 逆に高岡に腕を掴み返され、後部座席へ押し込まれる。
「えっ、えっ、どこ行くんですか」
 戸惑う実咲子をさらに運転席の奥まで押して、高岡もまたタクシーへ乗り込む。どこへと問う運転手に、高岡は梅田までと答えた。車が南へ向かって走りだす。そうしてようやく高岡は言った。
「話すとなごなるから、ゆっくり話せるとこ行こと思って」
「どこへ」
「ピチカートっていうジャズバー」
 窓の外に高速道路の高架が続く。帯になって光が洩れていた。使い古した綿のような雲は地上でまわるミラーボールに照らされてほの黄色く浮かんでいた。
 実咲子は暗い窓に映り込むすこし短い前髪を手で軽く押さえた。