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宿を飛び出すと、雨は激しさを増していた。瞬は亜須久の家へと向かって駆けた。行ったことはないが、道筋ははっきり頭の中に浮かんでいた。
着いてみると、思っていたより遠くはなかった。何棟かの長屋が所狭しと門を構えている。一棟に四軒。長屋と長屋の間は、人一人が通れるほどしかあいていない。長屋の壁も薄かった。
中を窺うと気配があった。瞬は雨と同化するように息を潜める。亜須久はいないようだった。瞬は中の様子が見られる裏口へ回る。中にいたのは、亜須久の意識を占めていた三人だった。そのうちの背の高い男は、瞬も昨日会っていた。もう一人の男は死相がひどく、眠っているのか死んでいるのかもわからなかった。すぐに亜須久の義兄・伊杜巳だとわかった。亜須久の最大の枷だった。瞬は自らの境遇と重なって見えて唇を噛んだ。
「周防さん、伊杜巳はもう無理よ。亜須久を引きとめたいなら、何か他の」
雨音をかいくぐって、会話が漏れ聞こえた。
「お前に任せる。いや、お前に任せた方が効果的だ」
「謙遜ね」
「そんなことはない。お前に期待しているんだ」
浮ついた言葉に、女は楽しそうに笑う。
瞬は耳を澄ます。しかし舌がざらつくような違和感が消えることはなかった。
瞬はこの声の主を知っていた。亜須久の意識の中で、乾いた心を潤すように広がっていた声だった。耳に届く声は同じだが、この声には人を包み込むような優しさが感じられなかった。
亜須久に自分と同じ思いをさせたくないのなら、彼女が鍵になる。瞬の秤に道徳観と自己満足がかけられた。答えはすぐに出た。
瞬の意識は空気に溶解し、多くの闇を嗅ぎ分け、三人の元へと辿り着く。事態はほぼ把握できた。しかしそれをなんと説明したらよいのか、どうしたら亜須久にうまく伝わるのか、彼には見当がつかなかった。
諦めから、自虐的な笑みを浮かべる。
瞬が亜須久に事情を説明したところで、何が変わるわけでもない。どう話そうかと迷う余地などなかった。
瞬は潔く踵を返す。雨に濡れた服の重みが肩に圧し掛かる。振り払うように顔を上げて、視線に気付いた。
「夜上」
先には、亜須久がいた。瞬は言葉を失う。亜須久は瞬を追い越して長屋の表へ出ようとする。瞬は焦って追いかけて引きとめた。振り返った亜須久の顔は悲しみに滲んでいた。瞬は掴んだ服を手放した。
女の声が、土足で雨音に割り込んだ。
「あたしが何とかするわ。大丈夫、任せて」
周防は頷く代わりに翔華を優しく抱いて深く口付けた。翔華は痛みを押し隠すような、緊張した面持ちで瞼を閉じた。周防は翔華の顔を見ることなく去った。
亜須久と瞬は息を潜めて、周防の背中を見届ける。
「どうするつもりだ、夜上」
途切れがちに瞬は言った。亜須久は雨に濡れた髪を後ろへかきあげた。
「どうこうできるほど選択肢はない」
亜須久の頑固さに、瞬は呆れる。だが、予想通りだった。
「何が大切かはよく考えろ。欲張れば」
そこまで言いかけて、瞬は首を振る。
「勝手にしろ」
「ああ」
亜須久は静かに微笑み頷く。瞬は背を向けて路地裏へと消えていった。その姿を見送ってから、亜須久は周防の去った道を一瞥し、長屋の戸を引き開けた。
「亜須久」
驚いた様子で翔華は亜須久を見つめた。さっきまでとは違う、亜須久の知る翔華だった。変わりようが胸に痛々しく響いた。
「翔華、話が」
あるんだと続けようとして、彼女の涙に遮られた。葉から雫がこぼれるように、瞬きのたびに大粒の涙が落ちた。
「翔華」
「伊杜巳が、伊杜巳がね」
「伊杜巳がどうした」
「死んだわ」
亜須久は言葉を失った。伊杜巳が死んだ。理解をしようと何度も口を動かすが、言葉は亜須久を素通りしていく。口の中に苦味が走った。
その時、彼女の口元が弓なりに歪んだのを、亜須久は気付かずにいた。