* * *
天水の空は、薄灰色の雲に覆われていた。地面には所々芝があるだけで、ほとんどが砂に埋め尽くされていた。地平線は砂丘の稜線だった。
紅は天水王家領外の土を、初めて踏んだ。城の裏の砂より、さらに乾燥していた。芝は短く、砂が煽られると根まで見えた。靴先で掘る。生きているのか、死んでいるのか、見分けがつかない。糸のように細い根が、捩れながら地上に怯えていた。植物相手では、罪悪感は沸かなかった。
茜の後に続いて、厚い布地で組まれた白い住居へ入る。入り口は腰を屈める必要があったが、天井は高く、紅の想像以上に広広としていた。風に飛ばされた砂が、壁に当たって音を立てる。足元を見ると、靴が白っぽくなっていた。床は極彩色の織物が何重も敷かれていた。
迎え入れてくれた女性は、
琉霞と名乗った。手を差し出されたので、紅は成り行きで握手をした。茜と同じようにきれいな黒髪だった。肩の長さに切り揃えて、快活に揺れていた。紅は勧められるまま丸い椅子にかけて、黒い眼鏡の隙間から琉霞の顔を見つめる。彼女は顔の半分が包帯に覆われていた。
「近々、いらっしゃるんじゃないかって、思ってました」
穏やかな口振りで琉霞は言った。部屋の中央では火が焚かれ、上から吊られた鍋では茶を煮出していた。柄杓で混ぜて、器に注いだ。真っ白な湯気が上がる茶色い器を、琉霞は茜と紅に差し出した。
「ずっと気になっていたんです。でも私、お城へは行けないし」
「ごめんなさい。遅くなって」
「ううん。茜さんが謝ることじゃないの」
顔の前で両手を振る。琉霞の手は、指先まで包帯が巻かれていた。
茶をすする。家畜の乳の匂いが、甘く舌に絡みついた。初めての味だったが、紅の好みだった。
「色んな可能性とか危険とか、考えてみたの。彼、言ってた。アミティスへ行くって。あそこは、ここと時間の流れが違う。あのね、向こうの方がゆっくり流れてるの」
琉霞のゆったりした口調は、茶の味と重なった。紅は組んだ脚に頬杖をついて、目を閉じた。薪の爆ぜる音は、それだけで温もりを想起させた。
「こちらの百年が向こうの一年らしいから。それって、大変なこと」
「大変って」
茜は一口も茶を飲もうとしない。両手で器を包んだまま、膝の上に置いていた。
「瞬は百年が過ぎる速さで、一年を過ごそうとしているの。相当の負荷。逆なら、ほとんど支障はないんだけど……」
「具体的には、どんな支障があるの」
茜は焦燥を隠せずにいた。器を持つ手は力み、指先が白くなった。部屋の隅に置かれた燭台の火が、空気を求めて低く喘いだ。琉霞の唇が躊躇いに濡れる。
「封印が、解けます」
先に視線を逸らしたのは、琉霞だった。茜は琉霞の首筋辺りを見つめたまま、じっとして動く様子がない。あまりの重苦しさに、紅は大仰にため息をついた。
「なぁ、その封印ってのを解いたら、何が起こるの」
「うん……、そうだな……」
少し考え込んで、琉霞は口を開いた。
「瞬の中の、もう一人の瞬が意識を支配することになるの」
「二重人格かよ」
「そんな感じ」
琉霞は色素の薄い、淡黄色の瞳を細めた。壊れそうな笑顔だった。紅の中に、憎しみが一片積もる。
「あいつは誰にでも、そういう顔をさせるんだな」
「え」
「何でもない」
顔を逸らして、紅は煙草に火をつけた。
「ねぇ、琉霞さん」
茜の声は掠れていた。押し潰されたようなひどい声だった。
「うん?」
琉霞は優しく問い返す。
「私が、間違っていたの」
虚ろな目をしていた。自責でも後悔でもなく、茜は過去を振り返っていた。
「行かせてはいけなかったのよ。泣いて引き止めなければいけなかったの。何が王位よ、何が国民のためよ。私は……」
「でも、瞬が決めたことなんでしょう?」
「そんなの、そうするように追い込まれただけよ!」
声を荒げて、茜は持っていた器を投げつけた。琉霞の足元に、鈍い音を立てて転がる。立ち上がりかけた紅を琉霞は笑顔で制し、濡れた布で敷物を拭いた。
茜は、震えていた。
「逃げたんだわ、私」
憎しみが膨らみ、体がはちきれそうになる。茜は自分の肩を抱いて、火を見つめた。群青の瞳に揺らぐ炎は、青かった。
琉霞は器を片付けると、茜のすぐそばにしゃがみ込んだ。体を屈める茜を、下から覗き込む。
「あなたにしか出来ない。あなたにしか、彼を救えない」
琉霞は茜の背中に手を置いて撫でた。包帯の指先は茜の苦悩を吸い上げた。
「ね、行ってあげて」
促されて、茜は顔を上げた。涙はなかった。琉霞は眼差しを曇らせた。
湧き上がる哀切を押し込めて、琉霞は炎に手を翳す。中から黒い塊が浮き出た。手に取って、宙に浮かべる。塊は弾けて煙になり、人の姿を形作った。煙をかき分けて、足が出てくる。
「やっと、お呼びがかかった」
現れたのは、男だった。髪は黒くやわらかく、少しくせがあった。朗らかに微笑む。笑顔から滲む人懐っこさが、琉霞と似ていた。
「茜さん、お久し振りです」
「そうね」
茜は男を見ようとしないで、紅に手を伸ばした。悟った紅は立ち上がり、茜の手を取って引いた。足元の覚束ない彼女を、腰を抱いて支える。
「君が紅くんだ」
「そう、だけど」
眉を寄せる紅に、男は満面の笑顔を向けた。
「ほんとに、よく似ているね」
清々しいほど明瞭な声で、男は紅が最も嫌う言葉を放った。
「さぁ、それじゃ、あの馬鹿を鎮めに行きますか」
何事もなかったように、男は足元に光の輪を作る。白々しさより、紅は男の人格を疑った。そもそも、彼は人なのか。
男は二人に手を差し伸べる。
「この手を、離さないで下さいね。空間移動は結構激しいですから」
そう言うと、強引に紅の手を引き寄せて輪の中に引きずり込んだ。
「行ってきます、姉さん」
「お願いね、
凍馬くん」
琉霞に笑顔を残し、三人は光とともに消えた。
* * *
廃墟の中にいた。街は一瞬で死んだのだった。
由稀は地面を蹴った。刃が激しくぶつかり合う。髪が触れ合う距離に、相手を見る。由稀は奥歯を噛み締めて、短刀の切っ先を返した。間合いでは劣勢だった。速さが由稀の武器になった。地面を転がって瞬の背後を取る。短刀を横に薙いだ。しかし刀のきらめきは髪の一筋すら捉えきれない。
「もう少し、気配を消さないと」
耳元で声がした。由稀はとっさに体をのけぞらせ、軌道から逸れる。服の裾が、未練なく切れた。走って、瞬と距離を取る。
緊張感は、由稀の体を自由にした。これほど軽やかなことは今までになかった。
「無駄口叩いてる暇があるなら、雲でも呼び戻したらどうなんだ」
「ああ」
由稀に促され、瞬は空を見上げる。広がり、膨らんでいた暗雲は、竜巻に飲まれて消えていた。
「必要があれば、そうするよ」
「そんな暇、やらない」
由稀は両手を交差して、勢いよく短刀を投げた。矢のように飛ぶ短刀を追って、由稀も駆ける。瞬が太刀で短刀を払った。由稀は一瞬の好機を見いだす。
開いた懐へ潜り込み、瞬の胸倉を掴んだ。拳を振り上げる。しかし、その腕が痺れて動かなくなった。
「お前は誰だ。その中に、誰がいる」
「え」
瞬の言葉で、由稀の中に放たれた鬼がうろたえた。意識が混濁して、境目が薄れる。
隙をついて、瞬は由稀の腹を膝で蹴り上げた。後ろに倒れそうになる体を、瞬が服を掴んで引き寄せる。
「見えるよ、透けて見える。お前の闇が」
深緑の瞳が、容赦なく空色を覗き込む。瞬は口を歪めて笑った。由稀の顔を太刀の柄で思い切り殴りつけた。
「誰か知らないが、安易なことをしたな。本物の由稀の中は、俺が見れる仕様じゃない。よくまぁ無防備に開放したものだ」
瞬に近付くだけで、溢れる《気波動》で皮膚が切れそうになった。由稀は腰に下げていた短刀を抜き、瞬の腕を切りつけた。隙が出来る。由稀は瞬の手から逃れた。
「上等」
瞬は目を細め、腕から流れる血を舐めた。血で口の中が染まっていく。
「じゃあ、はっきりと教えてやろう。お前が垂れ流している無様な闇を」
赤い唾を吐き、瞬は太刀を地面に向けた。
「世界を隔てる壁、拒むことは許されない。闇を浮かび上がらせよ。土に砂に張り付いた影、秘めごとの懐、過ぎ去りし星霜、全てをつまびらかに」
太刀の刀身から液状の光が滴る。光は地面に円になって広がっていく。
「結界、観想」
瞬は太刀を光の円に突き立てた。光の雫が、逆さに降る雨になって、空へ散らばっていく。由稀はあまりにも美しい光景に、戦いを忘れて見入った。ややすると、空へ舞い上がった雫は、糸を引いて垂れ始めた。
「対象を捉えた」
指を鳴らす。光が由稀めがけて降った。眩しさで何も見えなくなる。由稀は腕で目を覆った。
瞬の笑い声がした。
「随分と暗い所に押し込められているようだな、お前の本体は」
驚いて由稀は顔を上げた。しかし、瞬の姿を捉えられない。
「洞窟か。湿っぽい場所だ」
すぐ横に瞬がいた。由稀は手にしていた短刀を瞬に向けて振り上げた。だが、光が邪魔をして、距離を掴めない。
「街が、燃えている。戦争かな、むごいことをするね」
由稀は瞬の姿を追って短刀を振り回した。手応えは一向にない。
「男がいる。背の高い男だ。街を見下ろして、満足げだ」
「貴様」
張り裂けそうな気持ちを隠し、由稀は狙いを定めて短刀を投げた。ついに瞬を捉えたと思った瞬間、辺りを包んでいた光が砂になり消え去った。瞬の姿も見えなかった。精神を研ぎ澄まし、瞬を探す。
風を切る音が後方であった。身をよじり、横に転がる。由稀のいた場所を短刀が切り裂いていった。
背中に何かが当たる気配があった。
「さっきまでの勢いはどうした」
上から瞬の声がした。地面に膝をついていた由稀は、振り向くよりもまずその場から離れた。だが一歩遅く、背中に《気波動》の塊をぶつけられ、建物の壁にしたたかに体を打ち付けた。体の中が跳ね上がるような衝撃があった。中で何かが破れた。地面に崩れ落ちた由稀は、咳き込んで血を吐いた。
近くに短刀を見つけ、由稀は這った。肩に力を入れるたび、胸の奥が引き攣る。擦り切れた手を伸ばす。爪が、柄に触れる。
「動きにくいんだろう、他人の体は」
懸命に伸ばした手を、瞬の擦り切れた靴が踏みつけた。由稀は声を堪えた。
「かわいそうに。死ぬときくらい、自分の体で死にたいだろうに」
「まだ、やれる」
由稀は瞬を睨み上げた。瞬は涼しい顔をして由稀を見下ろしている。
「ごめん、もう飽きた」
瞬は短刀を拾い上げ、遠くへ投げ捨てた。由稀の手の上から足を退ける。由稀は素早く腕をひき、起き上がって身構えた。竜巻を起こすような《気波動》は、もう残っていなかった。短刀の場所を横目に探す。走れば、まだ勝機はあった。
「勝負を捨てたか、鬼使」
薄笑いを浮かべて、由稀は短刀へ向かって走った。足が縺れそうになるのを、喝を入れて奮い立たせた。姿勢を低くして、走り抜けながら短刀を拾う。勢いをつけて壁に足をかけ、宙高くで身を翻す。直後、由稀が足をかけた壁が《気波動》で吹き飛ばされた。
着地して、由稀は走る。振動で血が競り上がってくる。喉に血が溜まった。瞬の姿を目で捉えながら、また壁に足をかけ、高く飛ぶ。瞬の真上へ飛ぶ。
「覚悟」
落ち始めると早かった。狙いを定めて短刀を構える。瞬の薄茶色の髪が風に揺らぐ。由稀の影が瞬を覆った。その影の中で、瞬の深緑の瞳が由稀を見て憫笑した。
「あまりに必死だと、見るに忍びないよ」
瞬は指を鳴らした。由稀の真横に、《気波動》の塊が現れた。そんな気配は全くなかったのに。空中では方向転換も叶わない。由稀は塊に飲み込まれた。瞬が掌を徐々に拳にしていくと、《気波動》の塊も小さく凝縮されていった。また指を弾くと、塊は一瞬にして消えた。
由稀の体が、地面に勢いよく落ちた。瞬は足で由稀の肩を押して仰向けにさせた。由稀が握ったままの短刀を抜き、腕に突き刺す。
由稀が悲鳴を上げた。短刀は腕を貫通していた。
「おそろい」
瞬は自分の腕を指差した。
「狂ってる」
由稀は息だけの声で言った。空気が胸から洩れていく。
「そうか」
瞬の眼差しが慈しみに染まる。
「俺が狂ってるいのか、世界が狂っているのか。一体誰に判断できる。神ですら狂っているかもしれないのに」
立ち上がって、手についた砂を叩いて払う。
「基準なんて、自分一人が安心するための道具だ。自慰さ。誰も皆正常で、誰も皆異常だよ」
「詭弁を」
「ああ、それでもいいよ。どうせもう終わりだから」
太刀を振り上げる。狙いは正確に。
「ばいばい、由稀」
由稀は指一本すら動かせなかった。視界もぼやけて、ひどく狭かった。ただ、空の色だけはよく見えた。透徹した青空は、世界の上澄みのようだった。
そして、眠るように空色の目を閉じた。