04.夏を閉ざす

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 シャツのボタンをとめていると、アキの冷たい指先がナルオミの手首に触れた。
「ひどい火傷のあとだ」
 手首の皮膚は他より赤く、縫合のあとも重なり引き攣れていた。成臣は袖口をめくって、ああとこぼした。
「若気の至りです」
「どうせ無茶をしたんだろう、容易に想像がつく」
「おれにもそれなりに、普通に憧れたときがあったんですよ」
 やわらかく微笑むと、アキは呆れたように普通ねと繰り返した。
「ぼくたちには縁遠い言葉だ」
 白いシーツにくるまったアキは大きなクッションを抱えて頬杖をつき、目つきでナルオミの胸もとをさす。
「おまえの体はほんとうに傷だらけだね」
 ナルオミは胸を裂いた十字架に触れた。
「これ以外は、どれも些末なものです」
「そうかな、ぼくはおまえの手首は好きだよ」
 アキはナルオミへ手を差し出す。ナルオミは首をかしげながら手を重ねた。
「もう片方も」
 乞われて両手を揃えてアキへ向ける。アキは指先で火傷のあとをなぞり、ゆっくりと目を細めた。
「だって手枷みたいだ。おまえらしくて、いとしいよ」
 そう囁くアキのほうがずっと、ずっと、この世界のどんなものよりも美しく愛されるべきものだった。

 食べるものに気をつかうほうではない。口に入れてよいものなら、なんでも食べた。思い入れも好き嫌いもない。けれどアキが手枷だといった手首を見つめていると、スパイスのきいたチキンカレーの味が思いがけず舌によみがえった。
 夜の十時を過ぎていた。時間ができたのでナルオミはふらりと本部を出て、車で海岸沿いの道を走った。この先を曲がった住宅街の一角に、数年前ミムロが店を出したのは知っていた。けれどナルオミは自分の生業から近づくことはしていなかった。
 もしほかの客がいなかったら、店へ入ろう。そう思って店からすこし離れたところに車を停める。店には明かりがついていたが、扉にはクローズドと書かれたプレートがかかっていた。
 ナルオミは車からおりて店を見つめた。和洋食アンダンテ。古民家を改装した趣あるカフェで、ランチには近隣以外からも訪れる客があるという。建物から漂う年月の重みか、庭に植えられた桜の樹の大きな枝ぶりのためか、そこにはすこしゆっくりとした時間が流れているようだった。ミムロの、眼鏡の奥の穏やかな眼差しを思い出す。そこにはおそらくアキが縁遠いといった暮らしがあった。
 ふうっと、ため息とも笑いともつかない息をもらす。
 店の明かりが消えるのを横目に、ナルオミは車へ乗り込んだ。ミムロらしき男が従業員とともに店から出てくる。戸締りをしながらかすかに聞こえてくる話し声はエンジン音でかき消した。
 アクセルを踏み込んだときにはもう、店の名前も、その風景も忘れてしまった。
 ナルオミがあの日のカレーを思い出すことはもうなかった。

―おわり―