銀のエレジー

 アキが異国の土を踏んで、五年の歳月が流れていた。
 母と叔母が相次いで旅立ち途方に暮れていたところへ、昔ふたりに世話になったという異国の女が声をかけてくれた。
『おねえさんたちに、恩返しをさせてちょうだい』
 アキはただひとつの命綱に思えてその申し出に縋りついた。
 場末で小さなスナックを経営する女は決して裕福ではなかった。暮らしぶりは厳しかった。だがいつも一緒にいた。いいことも悪いことも、ふたりで分け合った。実の母よりも母らしく思える、アキにとってただひとりの家族だった。
 このままともに生きていけたらと何度も夢想し、その夢想が手触りを帯びてきた五度目の夏の盛りだった。アキは客から先代の死を聞き知って、現実に立ち返った。
 ともに暮らした部屋は思い出がそこかしこに垣間見えて、離れがたい。段ボールで作った本棚には、言葉の練習帳が並んでいた。どれも手作りで不格好なものだが、背表紙に触れるだけで涙が溢れるほどいとしかった。それでもアキは密かに貯めていた金と彼女が好きな花を置いて、部屋を出た。ぼろぼろの旅行鞄には生みの母が遺してくれたスーツとレコードだけを詰めた。もう二度と戻ることのない旅立ちだった。
 迷路のような駅に降り立つと、熱気が体にまとわりついた。夏空は虫の標本のようにビルに押し留められていた。息苦しい街だった。アキは人気のないビルを探して、手洗いに入った。掃除は行き届いていたが、染みついた臭いが熱とともに膨張して充満していた。アキはふと笑みをこぼす。自分には似合いの場所だった。
 束ねていた髪をほどき、鏡の前に立つ。そこに映る女の頬を撫で、アキはさよならを心に呟いた。
 取りだした鋏で髪を切り落とす。ためらいなく切り取っていく。女の自分を殺していく。着ていたワンピースを脱ぎ捨ててスーツに着替えると、やがて鏡の中には痩せっぽちの少年が現れた。少年はアキを睨みつけていた。お前にできるのか。その覚悟は本物かと問う。
「当たり前だ」
 涼やかな声でアキは答える。
「壊してやる。何もかも」
 そのために僕は何もかも捨ててきたんだと、アキは少年とともに微笑んだ。
 タクシーに乗り、行き先を告げる。真夏の陽光を受けるビルの外壁は濡れたように照り、銀色に輝いていた。路面は熱で揺らぎ、炎天下の歩道に人の姿はない。等間隔で走る車は葬列のようだった。
 目的地が近づくにつれて、黒い服を着た男たちがぽつりぽつりと増えてきた。ハンドルを握る運転手の手がにわかに緊張する。アキはここでいいと言って車を降りた。道先には白と黒に塗り分けられた葬儀場の入口が見えた。
 渦巻く熱風を胸に吸いこむ。アキは生と死が隣りあう世界へ、はじめの一歩を踏み出した。