胸を掻き毟るように鍵盤を叩く。
どんなに美しい旋律もわずか半音で不協和音になる。
その瞬間が何より愛しい。
求めるのはフラット。
その歪みだけがいつも、行き場のない血潮を慰めてくれた。

青のフラット

01.スナイパー

 雑居ビルの外壁に凭れ、サカキは口元からのぼる紫煙を追って夜明けの空を眺めていた。夜の間ネオンを際立たせるように深く黒く沈んでいた空が、日の出とともに薄く青く凍りついていく。停止するように朝は静かにおりてきた。
「さむ……」
 身を切るような風がすり抜けて、サカキは首をすくめた。
 夜の粒子が残る青い路地裏に、男の控えめな罵声が響く。ウェイター姿の男が二人、白い息を吐きながら足元の黒い影を蹴りつけていた。サカキは腕時計で時間を確認した。もうかれこれ三十分は経つ。
 アスファルトには半分に折られた携帯電話が、さらに踏まれて粉々になっていた。サカキはそこに結わえられた木彫りのストラップを拾いあげ、持ち主である影へと近寄った。
 ウェイターのうちの一人が気付いて、影の上へ踏み出そうとしていた足を慌てて引いた。もう一人も息を切らしながら、一歩下がる。サカキは煙草をくわえたまま、顎を動かした。
「顔」
「あ、はい」
 二人のうち一人が、うずくまっている影の髪を掴みあげた。ただ黒いばかりだった影に、ぼうっと靄のような顔が現れる。まだ若い二十歳前後の男だった。いつ息をしているのかわからないほど呼吸は浅い。サカキは男の顔の前にストラップを垂らした。
「お守りか。ヒットマンも神様に頼るんだな」
 サカキの皮肉に、男が唇を動かした。驚いたようにも、笑ったようにも見えた。サカキはしゃがみ込み、男と視線を合わせた。
「いい加減、話してくれないかな。俺もう寒いわ」
 男が何か呟いたが、それは声というよりももはや息だった。
「はあ? 聞こえない」
 痰のからんだ声で男が嘲笑する。サカキは興味なさげな薄笑いでぞんざいに頷いた。
「あー、うんうん、そういうのいいから。新総統の襲撃は誰の指示だ、誰に雇われた。中央会か、東部連合か。それともうちの人間か」
 問いかけながら、サカキはじっと男の顔の動きを見つめる。しかし血と砂埃で汚れた顔は岩のようにでこぼこになり、わずかな表情の変化を覆い隠してしまっていた。
 二週間前、組織本部が襲われた。その日、予定ではサカキが車で本部に向かい、総統であるアキを中央会との食事会へ送り届けるはずだった。だが直前になってハセベが運転を代わってほしいと申し出たのだ。普段ハセベは眼鏡がつらいからと言って運転を嫌う。珍しいっすねとサカキが笑うと、ハセベはどこか寂しげに目を伏せ、総統に話したいことがあるのだと囁いた。その一時間後、本部襲撃の知らせを受けてサカキが真っ先に思い浮かべたのは、ハセベの奇妙な儚さだった。
 あれから本部周辺の警戒はいっそう厳しくなり、アキは負った怪我の治療もあって建物外へ出なくなった。代わりにナルオミが仕事をこなしている。一方ハセベには特に変わったところはなく、今は組織が買い上げたマンションの一室で、捕らえた狙撃手を尋問していた。
 サカキは目の前の男を見据えながら、マンションで尋問を受けている男の姿を脳裏に思い浮かべていた。逞しい体躯の男で青い眼光は鋭く、飲み水の銘柄を指定するような図太さと厚かましさがあった。彼が狙撃手であることをサカキは否定しない。だが男が狙撃場所に選んだビルの非常階段に立ったときから、サカキはかすかな引っかかりを感じていた。確かにそこからなら銃撃は容易い。だが本部との距離が近く、逃走経路を塞がれやすい。まるで捕まえてくれと言わんばかりの場所だった。その後アキの治療をしたという医者を探し、掠めていった弾の軌道を聞き出して、その引っかかりは確かな違和感へと変わった。
 狙撃手は二人いる。それがサカキの立てた仮説だった。
 ある情報が入ってきたのは、碧眼の男を捕らえた直後のことだった。サカキの馴染みの女が人気の少ない昼間の風俗街でハセベを見かけた。面識のある彼女は素通りするのも失礼に思い声をかけたところ、ハセベは珍しく怖い顔をして振り返り、はじめは言葉もなかったという。すぐに平静を取り戻した彼は久し振りだねと人懐っこく笑ったが、女はいっそう不審に感じた。こんな時間に一人でどうしたんですかという女の問いに、ハセベは卒なく敵情調査だよと微笑み、人差し指を口の前に立てた。
 話を聞いたサカキはすぐに子飼いの弟分をその場所へ向かわせた。周辺は敵対勢力である東部連合が仕切る店が多いため、敵情調査が行われることは確かにある。ハセベは女が事情に明るいことを踏まえてそう答えたのだろうが、それが裏目に出た。今月の調査はサカキの担当だった。
 ハセベはおそらく、彼女がサカキと繋がっているとは思っていなかったのだろう。それもそのはずで、彼女はかつてナルオミの女だった。アウトローに馴染めず堅気の世界へと戻ったが、その時に部屋や職探しの手伝いをしたサカキとはずっと連絡を取り合っていた。組織内でのナルオミとサカキの関係を知るハセベだからこそ、その接点には気付かない。
 女が話しかけたときに、ハセベが何者かと会っていたことを突き止めたサカキは、それから今日までその人物を秘密裏に探し続けていた。そしてつい先ほど、風俗店から出てくるところをようやく取り押さえたのだった。
 目の前の男は小柄で、鍛えているようだったが暴力に慣れた様子がない。細く黒い眼差しは鋭さより哀愁を感じさせ、人込みのなかで埋もれてしまうような淡さだった。とても人を殺せるような男には見えない。だが、虫も殺さぬような顔をして人を殺める人間を、サカキは何人も知っている。
「オマモ、リ」
 言葉を覚えたばかりの子どものように、たどたどしい口振りで男が呟いた。
「は?」
「オマモリ……。こっちではお守りのことをそう言うらしいな。店の女に教えてもらった」
 掠れた声で、男がようやく話し出す。だが発せられたのは異国の言葉だった。男を押さえつけている両側の二人が、ふざけるなと言って殴りかかろうとするのを、サカキは手をあげてとめた。
 男は血の唾を吐き捨てて顔を歪める。
「やっぱりあんたには通じるか。俺と同郷なんだろ」
「ああ、そうか。これはこっちじゃただのストラップか」
 サカキは持っていたお守りを目の高さに掲げて目を細めた。
「留学生か」
 男と同じ言葉でサカキは問いかける。男は小さく頷いた。
「スポーツ特待生でこの国に来た。だけど大会で成績が出なくなって退学したよ……。だから留学生だったっていうのが正しい」
「依頼を請けたのは、金か」
「そうだ。学校を辞めたことを親はまだ知らない。俺の生活は全て学校の補助で間に合ってることになってる。どんなに金がなくなっても、親に無心するわけにはいかない」
「いくら貰った」
 短くなった煙草をアスファルトでもみ消して、続けて新しい煙草に火をつける。それをくわえたまま携帯電話を取り出して、サカキは電話をかけた。すぐに相手が出て、電話口を手で覆いながら小声でやりとりを交わす。
「いくらなんだよ」
 なかなか答えようとしない男の顔を正面から鷲掴みにして、サカキは急かした。細く節くれだった指が男の両頬に食い込んで、男の言葉はくぐもった。
「さ、三十だ」
 男の返答に、サカキはうっすらと笑みを浮かべた。短く電話口に囁いて通話を切る。
「倍の六十出してやる」
「え」
「ただし条件は二つ。誰に雇われたか話すこと。そして俺に会ったことを誰にも言わないこと」
「誰がそんな条件……。こんなにされてまで聞くと思うのか」
「まあ、それもそうか」
 お守りに刻まれた模様を指の腹で撫で、サカキは肩をすくめた。それを見て、男は歯を剥き出して笑った。
「二百まで出してくれるなら考えるぜ、兄弟」
「二百ねえ」
「出せねえってんならそれまでだ。俺は警察に自首する。この国の警察は優しいって映画で見たよ。あんたらに追われてるって言えば、外国人で犯罪者の俺のことだって守ってくれるんだろ」
「自首、ねえ」
 サカキは煙草の灰を落とす振りをして、先端を男の眼球へ向けた。男はとっさに目を閉じようとしたが、事情を察したウェイターの手が伸びて、無理やり目をこじ開けた。
「なめたこと言ってんじゃねえぞ。兄弟だって? ふざけんな、お前のお袋なんざしゃぶらせてくれって金積まれても願い下げだ」
「や、やめろ……」
「六十だ。それ以上はない」
 サカキはじりじりと小さな炎を近付けていく。灰になった部分がふと睫毛に触れて、雪のようにこぼれた。男は悲鳴をあげた。
「金はいらない、お前に会ったことも誰にも言わねえよ。だからもうやめてくれ!」
 瞬きができないからか、灰が目に入ったからか、男の目からは大粒の涙が止め処なく落ちた。
「お願いだ……お願いだよ……」
「じゃあ話せ」
 なおも男は渋ろうとしたが、剥き出しになった火をさらに近付けられて、寒さとも恐怖ともつかない震えで歯を鳴らしながら口をひらいた。
「な、名前は知らない。連絡はメールで、アドレスはフリメだった。変な言い回しが多かったから、翻訳サイトでも使ってたんじゃないか」
「会ったんだろ」
 携帯電話をいじりながら、サカキは煙草を吹かす。
「ああ、金の受け渡しで。メールと同一人物かどうか知らねえけど、来たのは白髪まじりのおっさんだ。人のよさそうな、わりと普通の……」
「そいつはこの中にいるか」
 サカキは携帯電話の画面を向けた。男は充血した目でじっくり画面を見て、それからゆっくりと頷いた。
「左端の男がよく似てる。そんな気がする」
 それは先代の葬儀の折、サカキが密かに撮影したもので、カイト、ナルオミ、そして左端には数人の幹部とともにハセベが写っていた。