青のフラット

02.「狂気のための愛と死」

 いつからか、目に映る世界をテレビのように平面に感じていた。
 サカキは資産家の長男として生まれ、何不自由なく育ち、人望は厚く、成績は優秀で、将来を嘱望される少年だった。だが十七の冬、それらは青く凍りついて砕けた。何か特別なことが起こったわけではない。胸にくすぶる苛立ちや焦燥感があったわけでもない。ただ、自分の吐いた息の思いがけない白さに驚いたのだ。それほどの寒さを感じられないでいた自分に、サカキは思わず失笑した。その日サカキは寮へは帰らず、南へ向かう列車に乗った。そして辿り着いた街で先代に拾われた。サカキという名は先代がつけたもので、元の名前はもうずっと昔に忘れてしまった。
 同郷の狙撃手を親しい刑事に引き渡し、サカキは自ら運転する車で本部へと向かっていた。煙草を取り出そうとしてポケットに手を突っ込むと、指先にお守りが触れた。
 男は近々本国へ送還されることになった。この国から早々に出て行ってもらうためサカキが根回ししたものだが、そのことに恩義を感じたのか、今度はあんたが守ってもらいなと別れ際に押し付けられた。窓の外へ投げ捨てようかとも思ったが、そのままにして煙草に火をつけた。
 本部の門前に車をつけて鍵を預け、玄関そばの休憩室を覗く。
「おい、総統はどこにいる」
「サカキ兄さん、お疲れさまっす。総統なら離れの執務室にいらっしゃるはずっす」
「あ、そ。そうだ、お前らこれで鍋でも用意しろ。寒くて死にそうだわ」
 財布から取り出した紙幣を手近にいた若い男に押し付ける。
「あざーっす! でもそんなに寒いっすか」
「俺ぁもう、お前らみたいに若くねえんだよ、ばか」
 立ち去りながら手を振って、サカキは屋敷の奥へ向かった。すぐにも酒で体を温めたかったが、アキにだけは狙撃手が二人いたことを報告しなければならない。
 奥へ進めば進むほど人の気配は薄くなる。以前は廊下にも監視カメラが設置され、常に何者かの視線を感じていたが、アキが総統になってすぐそれらは玄関前を残して全て撤去された。身内を信用しているから監視などする必要はない、というのがアキの考えだったが、サカキには耳触りがいいだけの理想論に聞こえた。
 先代が逝ってしまった今、サカキは今後の身の振り方について考えるべき時を迎えていた。先代のいない組織に命を懸ける気はないが、まだわずかばかりの未練はある。組織を去るのはそれが感じられなくなってからでも、遅くはない。周囲からは、急速に先代の気配が失われつつある。また組織内の統率も以前ほど厳格なものではなく、それぞれロープが切れた浮標のように波に揺られて漂っていた。新総統の求心力は弱い。アキとナルオミがどんなに力を尽くしても、先代に及ぶことはない。自分が組織を抜けるのが先か、組織が自滅するのが先か。そう考えているのはおそらくサカキだけではない。
 脳裏に、今朝男に見せた写真がよぎる。俯きがちに微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべたハセベは、焦燥感を露わにしていたカイトや他の幹部よりもずっと純粋な悲しみの淵にいた。
 ハセベの狙いがどこにあるのか、まだ明確にはわからない。だがアキを先代のように支えていくつもりがないことだけは間違いなかった。ハセベはサカキにとって師のような存在だ。組織のことはもちろん、言葉や文化や日常のいたるところまで世話になった。感謝はしている。しかし襲撃を命じたのがハセベだと知っても、憤りや寂しさは涌いてこなかった。
 廊下の角を曲がると、執務室へ入ろうとするナルオミと目があった。サカキは思わず立ち止まった。
 ナルオミは、手負いの獣のような男だった。サカキはカイトが死んだ日のナルオミを思い返す。誓いとして胸を切り裂いた彼はどこか恍惚として、普段は無表情な男の背中が、微笑んでいるようでもあった。それを見たサカキは、寒さに震えるときのように血がざわつくのを感じたのだった。
 ナルオミは鈍い光を湛えた鋭い眼差しでサカキの入室を制し、自身は扉の向こうへ煙のように吸い込まれていった。
 サカキは一旦廊下を戻ろうとしたが、かすかに音楽が聞こえてくるのに気がついて扉の前まで近付いた。息を殺して耳を寄せ、聞こえてきた音に思わず、あっと声をあげた。慌てて口元を押さえて、一気に跳ねあがった鼓動を懸命に飲み込む。
「狂気のための、愛と、死……」
 意識の底の、手が届かないほど深いところに沈んでいた旋律が花吹雪のように舞い上がって、途切れがちに聞こえてくる現実の音色を補う。長い時を隔てた邂逅だった。サカキはたまらず扉を開けた。鮮明になった音楽が体へ響き、ずっと忘れていたはずの記憶が滲んで、サカキはまだ海の向こうで暮らしていた頃の無力な少年を思い出した。
 狂気のための愛と死――それは親に隠れて初めて買ったレコードだった。古典音楽しか認めなかった両親は、その他のものを低俗として聴くことを禁じていた。だが級友の家で聴いた音楽が忘れられずにいたサカキは密かにレコードを買い、親や使用人の目を盗んではごく小さな音量で聴いていた。時おりは自ら鍵盤で奏でることもあった。
 サカキは導かれるように執務室へ踏み入った。そこにアキとナルオミの姿はなく、続く寝室から音が流れてくる。会話の内容は聞きとれないが、そこに二人もいるようだった。机の上には見舞いの書簡や、中央会補佐役についてまとめた書類が積み上げられている。サカキは机に腰掛けて、紙の上に軽く指を置いた。見えない鍵盤をなぞるようにして、かじかんだ指が勝手に動きだす。サカキは不意に溢れた無邪気さを持て余しながら、鳴らない旋律を紡ぎ続けた。
 ぽつぽつと聞こえていた会話の気配が、風に吹かれた蝋燭の炎のように消える。何か軽い物の落ちる音がして、サカキは透明な鍵盤から手を離した。レコードは今もひび割れそうに繰り返されている。足音を忍ばせ、壁に寄り添う。背中越しに寝室の様子を窺い、サカキは眉を寄せた。二人の間に言葉はない。ただ吐息だけがあった。
 サカキはとっさに部屋から出た。音を立てないようにゆっくりと執務室の扉を閉めて、とめていた息を吐き出す。
「まじか……」
 足元に視線を落として、サカキはしゃくりあげるように短く笑った。
 ナルオミは抱えた仕事がいくつもあるなか、短期間でアキを教育し、襲撃で負った傷と日常生活の世話をしていた。その変わり身の早さに首を傾げる者もいたが、サカキには何の不思議でもなかった。
 カイトの右腕だった時から、ナルオミは思考や感情を、人に委ねるところがあった。カイトが親代わりだったからではない。仕えると決めたあるじの言葉なら、彼は尻尾を振って喜ぶのだ。ナルオミ自身の意思などなく、善悪の区別もなく、そうすることによって人からどう見られるかも構わずに何でもする男だった。
 ただ、ナルオミとアキが並んで立っていると近寄りがたく感じられることが度々あり、サカキは蜘蛛の糸が不意に肌に張りつくような気持ちの悪さを感じていた。
 それがまさか、このような形で巣のあるじに会うことになるとは思ってもみなかった。
 総統とその側近が関係を持って、組織が健全でいられるはずがない。巻き込まれる前にすぐにも組織とは縁を切るべきだ。理性はそう判断を下すが、サカキは取り合わない。それがどうしたと一蹴する。
 ふらふらと部屋から離れる。廊下の窓には冬の光が薄氷のように張りついて、じんわり融け出した明るさが足元の絨毯に広がっていた。
 サカキはナルオミが胸を切り裂いたときに覚えた血のざわつきを、今また静かに感じていた。
 それは明確な狂気に対する、ある種の共鳴だった。