青のフラット

03.深海のピアノ

 かつて女に言われたことがある。
 サカキさんって、どこかこの世にいない人みたいね、と。
 反応を確かめるように間を置いて、さらに彼女は、だって何にもこだわってないでしょう、自分が生きることだって、と続けた。さすがにまだ死にたくないから生きるよと返したものの、あながち外れてもいない彼女の指摘にサカキは苦笑するしかなかった。
 中央会の次期補佐役選出が迫っていた。正式には全国私立学校中央会といい、私立学校同士の連携を高めるために作られた財団法人だが、ある政党の影の後援会として政界に太いパイプを持っていた。補佐役という役職は正式には存在しないもので、表沙汰にはできない事案を処理するために、組織の男から選ばれてきた。次期補佐役は前任からの指名でほぼ決まりかけていたが、アキが殴りこみをかけたことで界隈は騒然としていた。
 明け方、雪が雨へ変わるのを見届けてからサカキは眠りについた。浅い眠りだった。夢を見た。真っ青に晴れ渡った空の下、一面に廃墟が広がっていた。色の枯れてしまった世界だった。ただ空だけが青く、水を湛えたように澄みきっている。夢の中のサカキは、これを降りだしそうな空と言うのかと納得していた。舗装のめくれあがった道を歩いていると、大きな黒い椅子が転がっていた。サカキはどうしてもそれを起こさねばならないように思うが、重くてとても持ち上げられない。誰かを呼ぼうとしても、声が出ない。その椅子を元に戻せないことが悔しく、その椅子が空っぽであることが悲しく、サカキは椅子に凭れかかりながら、か細く名前を呼んだ。そこで女に起こされた。うなされていたと、出勤の身支度を終えた彼女は顔を覗かせた。サカキは彼女が出かけるのを見送り、再びベッドに潜りこんだが、もう眠りは訪れなかった。
 冷蔵庫に用意されていた朝食を、煙草を吸いながら胃に押し込む。半熟のゆで卵から溢れた鮮やかな黄身を見て、サカキは安心した。
 一度事務所へ立ち寄ってメールや電話の返信を終えてから、中央会役員をもてなすためサカキは自身が受け持っている店へ向かった。アキとナルオミはまだ来ておらず、サカキはスタッフらのミーティングを客席のソファから見るともなく見ていた。
 照明を落とした店内は、深海のように青く沈んでいた。片側の壁にはバーカウンターがあり、棚に並んだ色とりどりの酒瓶は珊瑚礁を泳ぐ熱帯魚のようだった。店の奥にはグランドピアノが沈没船のようにどっしりと据えられて、海底を支配していた。
 ミーティングが終わり、スタッフはそれぞれの持ち場に散った。モップを持った若い男がソファへ向かって歩いてくる。サカキはくわえていた煙草をもみ消して、ピアノのそばに立った。故郷を出てから十年、もうずっと弾いていなかった。
 指紋一つない蓋を押しあげ、実体のある鍵盤の上へ指をのせた。冷たい。そう感じているのは体ではなく、心のほうだった。濡れた手で氷に触れたときのように、皮膚が張りついて氷に取り込まれそうになる。サカキは思いがけず涌きあがった愛しさに怯え、奏でないまま手をおろした。
「弾かないのか」
 突然背後から問いかけられ、サカキは肩を震わせた。振り返ると、アキがいた。
「脅かさないでくださいよ」
「悪い」
 アキは羽織っていたコートを脱いでサカキの隣に並んだ。店の隅ではナルオミとスタッフが座席や料理の確認をしている。
「すみません、総統。いらっしゃったのに気付きませんで」
「いいんだ。それより弾かないのか」
 椅子の端に寄って座り、アキはあいたところを軽く叩いた。
「俺が弾けるって決めうちなんすね。ただなんとなく立ってただけかもしれませんよ」
「それは違うな」
 雪のように冷たいアキの指が、サカキの手を掴む。
「ピアノに愛される指をしてる。嘘をついて逃げようったって、僕の目はごまかせない」
 少年らしい悪戯な笑みを浮かべて、アキは掴んだ手を鍵盤の上へ置いた。サカキは肩をすくめて観念する。
「そこまで言われちゃ、しょうがないっすね」
 椅子に腰掛け、脚を伸ばす。
「なんでもいいっすか。それともリクエストなんぞあります?」
「お前の好きな曲を弾いてくれ」
「好きな曲、ですか……」
 とっさに浮かんだのは、狂気のための愛と死だった。あの曲をここで弾けばアキはどんな顔をするだろう。サカキはその思い付きから離れられなくなった。
 冷えた手指をこすりあわせてから、息を浅いところでとめて羽根のように軽やかに手を置いた。そこにはやわらかな膜がある。目には見えない、冷たい膜がある。サカキはそれをそっと押し破るようにして、音色を響かせた。
 鍵盤の程よい重さが、ピアノから離れていた時間を一瞬で埋めた。まるで昨日も弾いていたかのように、懐かしさは感じられなかった。当然のように指先は鍵盤に吸い付き、溶け出した互いの熱で音色はますます滑らかになる。自分の体ではないように、指が音に導かれていく。不自由でありながら、どこまでも自由だった。
「狂気のための愛と死……」
 小さくアキが呟いた。サカキは演奏をやめないままで、横目にアキを窺った。幼い子どものように瞳を輝かせ、サカキの手元を食い入るように見つめている。
「ええ、ご存知でしたか」
「あ、ああ。でもなぜ」
「聞いてませんか。俺ね、向こうの出なんすよ」
 旋律が一周したところでサカキは手をとめた。
「総統こそどうして」
 サカキの問いかけにアキは戸惑い、ややしてから硬い声で答えた。
「これは母の曲なんだ」
「そうでしたか」
 レコードのジャケットに映っていた、青いドレスの女を思い出す。ピアノに抱かれるように凭れかかった姿態は艶かしく、見る者に挑みかかるようなはっきりとした顔立ちはアキにも受け継がれていた。
「先代が惚れこむわけだ」
「どうかな」
「え、先代はご執心だったって話じゃ……」
 サカキがそこまで口にすると、アキは口元に人差し指を立てて、内緒だよと囁いた。
「それはね、母と同じ店にいた女のこと。母は、飼い主に見捨てられた籠の鳥のようだった。とても従順で、そうしていればいつか戻って来てもらえると信じていた」
「なるほど。だから狂気になる」
 再び鍵盤に指を滑らせ、サカキは微笑んだ。ピアノの旋律は静けさを帯びて、とても狂気とは結びつかない。だがその平坦さこそが本当の狂気なのだとサカキは理解していた。神経を逆なでするようなヴァイオリンは狂気の装いにすぎないと。
 聞き流していては気付かない緩やかさで、曲は緊張を孕んでいく。潮が満ちていくようにゆっくりと、そして確かに、旋律は狂気の方へと流されていく。その足跡を奏者として辿る高揚感は格別だった。
 アキは隣で静かに耳を傾けていた。その横顔は青年にはやわらかく、少年のわりには大人びていた。サカキの胸に、違和感の影がよぎる。
「サカキ」
「はい」
 演奏をやめようとすると、アキはそのまま続けてと告げた。
「お前に訊いておきたいことがある」
「何でしょう」
 先日、日を改めて報告した狙撃手のことが頭をよぎる。元学生の男なら、数日前に国へ帰ったという情報を得ていた。
 アキはサカキの思考を察したのか、かすかに首を振った。
「僕が総統になった日のことだ。お前はなぜナルオミに誓いを強いた」
「ああ、そのことっすか」
 サカキは乾いた笑いを洩らした。
「正直なとこ、自分でもよくわかってないんすわ」
「そうなのか。お前はいつも明確な考えのもと行動しているものとばかり思っていた」
「そこまで計算高くないんすよ。ここぞっていうときは、むかつくくらい感覚ですから」
 曲はメゾフォルテからフォルテへと移り、サカキは途切れ途切れに言葉を継いだ。
「あの時もそうでした。……そうだな、あいつを試したかったって言ったら興醒めっすか」
「いや、それはあるだろうと思う。だけど、それだけじゃないように思ったんだ」
「と言いますと?」
「お前はナルオミでバランスを取ったんだ」
 アキの指摘に、サカキの指先が狂う。調子はずれな一音は過去へ流されず、耳の奥で長く残響を重ねた。
 アキはサカキの演奏を受け止めながら、凛然として続けた。
「お前はバランス感覚に優れた男だ。今こうやってピアノを聴いていて、つくづくそう思う。そして一方ではそのバランスを崩したがっている。大局的なバランスを取るためにな。あいつは……、ナルオミは揺らぐことを知らない。それは傾ききっているから。バランスとは対極のところにある男だ」
「随分と面倒な人間ですね、俺も、あいつも」
 苦笑まじりに一度鍵盤から手を浮かす。じっくり余韻を響かせてから、再び静かな旋律を繰り返した。
 先代が死に、悲しむ間もなく後継者争いが始まった。その混乱の中で誰もが奇妙な充足感を得ていたのは間違いなかった。それがあの朝、カイトの自殺により全てがあっけないほど円滑に終わりを告げ、それぞれの胸に、もちろんサカキの胸のうちにも、行き場のない闘争心が燻りながら残った。ナルオミは言わばスケープゴートだった。彼が精神的に、もしくは肉体的に血を流すことで、組織はようやく日常を取り戻すとサカキは直観したのだった。
 アキの言葉はあまりに的を射ており、胸の内側に薄い氷が張るような心地がした。ひどく凍みる。だが不快ではなかった。今ならきっと、どんなに白い息を吐いたとしても笑い飛ばせるだろう。
 花がひらくときのように、音もなくアキが立ち上がる。
「それはお前の武器だ、サカキ」
 澄みきった、洞窟の奥深くに滴り落ちる雫のような声だった。サカキはアキを斜め後ろから見上げて息を飲んだ。
「お前たちは対極だが、よく似ている。僕は時々思うんだ。もしナルオミが先代の実子なら、お前がその片腕となり、きっと組織は強く大きく発展したんだろうって」
「総統……」
 なぜ今まで気付かなかったのかと自問する。指先がもつれて、黒鍵を掠める。
「そういう夢も悪くはないだろう?」
 佇まいはどこまでも儚いが、眼差しには深海まで届きそうな強かさがある。サカキは思いがけず出会った秘密の少女があまりに目映く、たまらず笑みをこぼした。
「俺ぁ、あんまり好きじゃないですけどね」