青のフラット

04.思い出は紫煙とともに

 人を傷つけた日は、誰かを愛していたかった。そんな夜は決まって、女を食事に誘った。会社の上司の愚痴を聞き、残業時の寂しさに頷いて、先輩にミスをなすり付けられたことに憤り、自分へのご褒美で買ったというピアスを褒めてやる。そうしていると、雪のように降り積もった暴力の残滓が融けていくようだった。
 腕の中でまどろむ女は限りなく幸せに満ちていた。サカキは尋ねた。ならず者とは馴染まないんだろうと。女は今さらな質問だねと目を細めて、だってサカキさんはあの人と違って、人と一緒に生きられる人だから、と抱きしめる腕に力を込めて答えた。
 中央会の役員をもてなしてから半月ほどが経った頃、初老の男が店を訪れた。中央会会長を務める男だった。偶然店にいたサカキは彼をもてなし、補佐役がアキで決まりだという内示を聞いた。男は店が気に入ったから、しばらく懇意にさせてもらうよと言い置いて上機嫌で帰っていった。
 店を出て駐車場へ向かうと、車のそばには人影があった。
「ハセさん」
「よお、ご苦労さん」
 ハセベはぶ厚い手をあげて、硬い笑みを浮かべた。
「どうしたんすか、こんな寒い所で。店まで来てくれたらいいのに」
「まあ、なんだ、お前と話がしたくてな」
「なんすか。俺、怒られるようなことしてないっすよ」
 ハセベに話と言われて思い当たるものは、一つしかなかった。サカキは悟られないようにへらへらと笑いながら運転席の扉を開けた。ハセベはそれをじっと見つめて動かない。
「良かったらメシでも行きます?」
「いや」
「じゃあ、ご自宅まで送りますよ」
「ああ」
 ハセベが助手席に乗り込むのを待って、車は走り出した。深夜にもかかわらず、繁華街は客を待つタクシーや迎えの車で混み合っていた。昼間にはない、どこか無秩序な気配が排気から感じられる。海沿いの道まで走らせると、運転席の窓からは明滅する観覧車が、凍りついた花火のように見えた。
「これはお前のストラップか」
 車の中に置きっ放しになっていた木彫りのお守りをハセベが摘み上げた。
「いや、拾いもんです。いりますか、それお守りなんすよ。俺んとこの」
「そうか。じゃあ、せっかくだし貰っておこうか」
 ハセベはお守りをコートのポケットへ突っ込んだ。
「サカキ、お前もすっかり立派になったな」
「なんすか、いきなり」
「先代が向こうから連れて帰って来た時にはひょろっとして、俺は心配したんだよ。この世界でやっていけるのかと。それが今じゃ、何軒も店を回して、警察と渡り合いながらしのぎの手回しをして。あらためて、先代の先見の明には驚かされる」
「それもこれも全部、先代とハセさんのおかげですよ。言葉も文化も何もわからなかった俺に、根気強く一から教えてくれたじゃないっすか。そうやって手をかけてもらえたからこそ、今ここにデカイ顔して生きていられるんです。じゃなきゃ、北との大抗争のときに鉄砲玉になってあっけなく死んでますよ」
 市街地へ抜けると、すれ違う車の数は一気に減った。
「そうか、まさかそんな風に言ってもらえる日が来るなんてな……。お前のことは、本当の息子みたいに思ってるんだ。うちは娘ばっかりだからな」
「どうしたんすか、そんな恥ずかしい話。ついに耄碌しましたか」
 サカキが軽く笑い飛ばしても、ハセベは腕を組んで黙り込んでいる。
「ハセさん?」
「サカキ、お前……、今の総統にこれからもついていく気があるか」
「どういうことっすか」
 きた、と思いながら、サカキは冗談の続きのように受け流す。ハセベは過ぎ去っていく点滅信号を見つめながら、星のない夜空のように重いため息を吐き出した。
「俺はな、サカキ、先代と契りの盃を交わした時から、この人のために死ぬと決めて生きてきた。親を捨て、家族を顧みず、身を粉にしてやってきた。それがどうだ、驚くほどあっさりと先代は逝っちまって、俺の方がこの世に残されちまった。先代が作り上げた組織は先代の魂そのものと思ったからこそ、うんざりするような後継者争いにも必死になった。まさか若が自殺するとは思わなかったが、まあそれも若の器だったんだろうよ」
 住宅街はすっかり寝静まり、山は黒よりも暗く、空にぽっかり開いた穴となって坂の向こうに待ち受けていた。
「アキさんに文句があるわけじゃあないんだ。ただ、あの人のやり方じゃ、そのうち誰もついていかなくなる気がしてな。それが心配なんだよ……」
「ナルオミの重用ですか」
「ああ。老婆心なんて、何の役にも立たないとわかってるはずなんだがな。どうにもじっとしていられなくなる」
「ありがたいことっすよ」
「俺は古い人間だ。若い奴らの考えてることが、どうにもわからん。アキさんのことだって、今の若いのはああいうのがいいのかもしれないと、ふと思ったりもする。だからな、サカキ、お前がどう思ってるのか聞いてみたかったんだ」
「そういうことでしたか」
 サカキはハセベの矛盾に気付き、穏やかな微笑みを浮かべた。
 アキに文句があるわけではないと言いながら、アキのやり方では誰もついていかなくなるとも言う。ハセベは故意に嘘をついているのではない。総統に対して不満を持つなどありえないという信念と、しかしその総統の椅子に座っているのが先代ではないという事実との齟齬の狭間で、ハセベは的確な判断力を失いかけているようだった。
 こんな人じゃなかった、とサカキの胸に落胆が広がる。襲撃のこともそうだった。サカキの知るハセベはきっと、先代とともに死んだのだ。
「やり方ってのは、補佐役の件ですか」
「まあな、それについてもいささか強引な気はしている。確かに補佐役は先代もずっと狙っていたものだ。その宿願をアキさんが引き継いで叶えてくれるのは嬉しいんだが、素直に喜べない。なにか、良くないことを引き起こしそうで。総統に力があって、その力でもって組織をぐいぐいと引っ張ってくれるならいいんだが、あれはほとんど、ナルオミの小賢しい入れ知恵だろう」
「それもまた総統の力じゃないんすか。先代だって――」
「あの方とアキさんは違う!」
 車はハセベの自宅前でゆるゆると停車し、エンジン音に気付いた番犬が吠えた。車内にはハザードランプの点滅音だけが響いていた。
「ハセさん、俺は海の向こうで先代のもとに辿り着いた木屑みたいなもんです。何がいいとか悪いとか、木屑にあれこれ選ぶ権利なんかありません。これからも流されるだけです」
「そう、か。いかにもお前らしいな」
 ハセベは呆れたように笑みともため息ともつかない息を吐いた。サカキは煙草に火をつける。
「俺も一つ訊いていいっすか」
「なんだ」
「あの青い眼の狙撃手は雇い主を吐きましたか」
「いいや。だがここだけの話、もしかしたら組織内に裏切り者がいるかもしれん」
「まさか」
「俺もそう思っているさ。だがな、どう見ても怪しいのがいてな」
「誰です」
「ナルオミだよ」
 家の中へ消えていくハセベの背中を見送りながら、サカキは誰の手駒にもなれる今、果たして誰のもとに辿り着きたいだろうかとぼんやり考えていた。アキは先代の血を引く正統だ。一方ハセベには育ててもらった恩義や情がある。どちらを選んだとしても、無傷ではいられないだろう。救いは、木屑であるサカキには選ぶ権利がないということだった。
 タイヤをしならせUターンをした時、アキの語った夢をふと思い出したが、掴み取ろうとすると白い煙とともに薄く開けた窓の隙間から逃げていった。