青のフラット

05.滲むフラット

 整然とした場所は苦手だった。息苦しいばかりで、生きた心地がしない。その点ではこの街も組織も、サカキにとっては居心地がいい。街並みは不揃いで統一感がなく、人や車に溢れ、路地裏にはたくさんの秘密や嘘がうずたかく積まれ、その上でノラ猫が気持ちよさそうに昼寝をする。組織もまた人種や年齢を問わず様々な男たちで構成され、そこには直視できないような過去や傷が数知れずあった。どちらも薄汚れて擦り切れた場所だった。
 サカキは店の裏手にある駐車場に座り込み、買った弁当を猫と分け合った。路地裏を気侭に闊歩する彼らでさえ律儀にも決まったねぐらがあることに気付いてから、生きることに真摯な彼らの姿に感心し、時おりこうして食事をともにしていた。サカキは自宅を持たなかった。毎夜同じ場所に帰ることを想像するだけで、気が滅入りそうになるのだった。
 大きな唐揚げに苦戦する斑の猫を手伝う片手間で、一つ電話を済ませて、ようやく一服に辿り着く。体はすっかり冷えて、ライターを持つ手がかじかんでいた。
 どんよりと曇った夜空は、ネオンを映して赤黒い。今にも降り出しそうな空だと心に呟き、少し前にも同じことを思った気がした。だが、それがいつのことか思い出せないまま、サカキは煙草を吸い終えて車に乗った。
 本部の玄関には巡回の組織員が立っているだけで、他に人影はなかった。彼らに温かいコーヒーを差し入れ、サカキは寝床の一つである事務室へ向かった。
 事務室は深夜ということもあって凍りついてしまったように静まり返っていた。サカキは部屋の奥に据えられたソファに体を横たえ、黄ばんだ天井を眺める。同じ一点を長く見つめていると触れられる距離にあるのではないかと思えて、確かめるように腕を伸ばした。だが指先を掠めたのは、虚空だった。何もない場所に、一切のものが存在する。そんな空間が爪の先に広がっていた。
 この指先は、ずっと何かを探し求めていた。きっとあのレコードを買ったときから続いている。だがそれが何ものであるのか、サカキはまだわからずにいた。
 耳を澄ますと、空調の稼動音に紛れて執務室のレコードの響きがかすかに聞こえてくるようだった。それは段々はっきりと聞こえ、耳鳴りのように実体のない旋律を繰り返した。
 目を閉じて、姿のない鍵盤に心のうちで触れる。やがて波紋が広がるようにして、指先から光沢のあるピアノが生み出された。確かに触れているはずが、その感触は曖昧で遠い。誰もいない荒野に硬質な一音がこだまする。余韻が消えないうちにもう一音続ける。音は重なり、連なり、響き合う。サカキは初めてピアノに触れたときのように夢中になってでたらめに奏でた。いつしかそれは音楽となり、雨となってサカキに降り注ぐ。空は青く晴れ渡っていた。雨雲はない。よく見ると、青空から滴っているのだった。空の雫は青く輝きながら肌を打ち、さらに小さな煌めきになって霧散していく。痛くはないが、痛みの観念が肌に焼き付いて、サカキは声にならない叫びをピアノに叩きつけた。これが泣きたいという気持ちかと思うと、目頭が熱くなった。泣いたかもしれないが、涙は空と混ざってわからなかった。無性に帰りたいと心が唱える。その度にどこへと自問した。帰る場所などどこにもなかった。流されていた。果たして何の曲かわからないまま体が勝手に弾き続けていた。それに疲れて視線を落とすと、黒鍵の一つが青く揺らめいていた。目が離せなくなる。雨はいつしか止んで、ずぶ濡れの体はすっかり乾いていた。青い鍵盤は月明かりが射す水面のようだった。光そのものではないが、臆することなく清澄として佇んでいた。旋律を乱すとわかりながら人差し指で撫でるように青を弾く。計算された美しさに半音届かなかった。たったそれだけのことで、旋律は無残に崩れる。だが何度も何度も繰り返し青を奏でた。痛みはない、寒さもない。それでも青が煌めく度に血がざわつくようだった。
 部屋へ向かってくる足音に気付き、サカキは眠りから覚めた。ややして、ため息とともに扉がひらかれる。夜を透かした黒い窓にはナルオミの姿が写った。回転椅子のしなる音が鳥の鳴き声のように響き、またため息が洩れる。
 サカキはナルオミの様子を耳で窺いながら、先ほど電話越しに聞いたアキのため息を思い返していた。二人の憂鬱が同じところから発するものかどうか、サカキには知るよしもない。ただ、出来れば同じであってほしいと、明日が穏やかな日であるように願う心で思った。
 ナルオミの立ち上がる気配がして、ソファの方へと近付いてきた。寝転がったまま、サカキは頭の向こうへ視線を投げた。そこには頬のやつれた、疲れきった男が立っていた。
「浮かない顔だなあ」
 突然の声に驚くこともなく、ナルオミは平然として振り返った。
「いたのか」
「子守しながらは忙しいだろう。手伝ってやろうか」
 サカキがにやりと笑うと、ナルオミは小さく目の下を痙攣させた。
「遠慮しておく」
 グラスとウイスキーをテーブルへ置き、ナルオミは部屋の隅にある冷蔵庫から氷を出した。しかし彼は自分のグラスにだけ氷を入れてウイスキーを注いでしまう。
「なんだ」
 サカキは仕方なく起き上がり、乱暴にロックを作った。
「ま、一応」
 そう断ってから、互いに渋々グラスを合わせる。
「中央会のじじいが来て、機嫌よく帰っていったぜ。総統によろしく言ってな」
 世間話のように喋ると、ナルオミはサカキの本当に言いたいことを見抜いて眉を片方上げた。
「補佐役をいただいた。先代も望んでいた役職だ」
 ナルオミは顔色一つ変えずにさらりと明かして、水のように酒を呷る。上下する喉元に、苛立ちが見え隠れした。
「どんな根回しをしたんだ」
「根回し? 総統の力に決まってる」
 壊れたロボットのように総統の力だと繰り返すナルオミの一途さが、サカキには惨めに思えた。そして二人のため息が異なるものだったことにぼんやりと思い至り、たまらず鼻で笑った。
「しゃあしゃあとよく言う。誰も坊ちゃんの手腕だなんて思ってないぜ。なあ、影の総統さんよ」
 煙草に火をつけて顔をあげると、鋭い目でもって睨みつけられていた。そう睨むなよ、と笑い飛ばして灰皿に煙草を叩きつけた。
 サカキにはアキの目的が未だわからずにいた。先代の葬式に突然現れたかと思うと、あっという間にカイトを死に追い込んで総統の椅子に座った。補佐役は先代も望んでいたものではあるが、そのやり方は誰が見ても無理が過ぎる。先代の遺志を継ぐというより、彼女自身が死に急いでいるように思えてならないのだった。ハセベのこともある。アキの置かれた立場は危うく、日に日にその度合いは増している。
 アキの語った夢が、月光を宿した水面のように時おり揺らめいた。
「俺ぁ、あんたのことは嫌いだが、あんたの能力は買ってるんだ」
「そうか。俺もお前のことは嫌いだが、能力は認めている」
「気が合うねえ。なんならここをぶっ壊して、新しく組織を作ってもいい。そうすりゃ養子縁組を道具にはしないぜ。俺とあんたが組めば、そんじょそこらの組織には負けない、どこの派閥にも屈しない、独立組織が作れる」
 話しながらサカキは、なぜこんなことを言うのかと不思議に思っていた。これはサカキの思考ではない。アキの夢だ。わかりながらも、言葉は次から次へと口をついて出た。
「ハセさんの動きが怪しい。こないだの襲撃についても、あんまり追及したくない、いや、されたくないみたいだし。実際あの人が狙撃手と絡んでから、なあなあになっちまった」
 二人目の狙撃手のことも、その雇い主がハセベであることも隠しつつ、サカキは続けた。
「ハセさんがただ抜けるだけならまだしも、あのおっさんは多分それだけじゃ済まさない。あとのことを考えて、取り込めなかった人間は生かしておかないだろう。やるなら、あの人が行動を起こす前にどうにかしねえと、無駄死にすることになる。どのみち、ここは長くないぜ」
 一気に酒を飲み干すと、喉が焼けるようだった。サカキはその熱をごまかすように立ち上がり、煙草を大きく吸い込んだ。
 ナルオミは首を傾げてサカキを見上げていた。
「なぜハセベさんにつかない。乳臭い総統につこうとする。そこまで言うからには、お前のところに声はかかっているんだろう」
 なぜだろうなと答える代わりにサカキはにやりと笑った。立ち去ろうとして一歩足を出したものの、ふと気まぐれに口をひらいた。
「ああ、そういえば、坊やに伝えといてくれよ。夜は音量に気をつけろってな」
「え」
 ナルオミの顔が今夜初めて凍りついた。想像以上に素直な反応に、むしろサカキの方が恥ずかしくなる。
「あのレコード、いい加減聴き飽きてきたからな」
「レコードか。わかった、伝えておく」
 ほっとしたのか、珍しく淡い笑みを浮かべてナルオミは頷いた。それがあまりに幸せそうなので、サカキは一言付け足しておく。
「よろしく頼むぜ。離れだからって、何も聞こえないわけじゃないんだからさ」
 本部の玄関を出ると、雪まじりの風が吹きつけた。サカキは首をすくめながら駐車場へ向かう。凍みるような寒さを感じれば感じるほど、内を行き交う血の熱さに胸が震えた。吐き出した息は雪を掻き消すほど白かったが、サカキは笑い損なったように頬を歪めるだけで、煙草に火をつけて車に乗り込んだ。

 それから二週間後の早朝、浅い眠りに落ちかけていたサカキは携帯電話の振動で目を覚ました。女を起こさないようベランダへ出て電話を受ける。電話口の向こうは騒然としていて、要領を得ない。サカキはすぐに本部へ向かうと告げて通話を切った。
 ビルの隙間から白い朝日がのぼる。いつもと変わらない景色が不思議と厳然としたものに感じられて、サカキは景色を切り取るようにゆっくりと瞬きをした。