青のフラット

06.青の血潮

 仮住まいのホテルから一歩出て、サカキは巻き付けていたマフラーを外した。つい先日まで薄氷のように透徹としていた夜明けも、気付けばいつしか霞がかかったようにぼやけている。もうそこまで春がきていた。
 サカキはホテルから十分ほど歩いた場所にある駐車場へ向かった。まだ薄暗さを残した街は、夢と現の狭間に現れた幻想のようだった。街灯は夜明けを知らぬように灯り続け、行き交う人はほとんどなく、クラクションやエンジン音は遠く、雑然としているはずの街はどこか粛々として、目に映る世界と立っている場所との間には半音のずれが生じていた。
 持て余していたマフラーを道端で眠る老人にかけてやり、金と引き換えに車の鍵を受け取る。老人は皺の間から目を覗かせサカキを上から下まで眺めると、マフラーを口元まで引き寄せて再び眠りについた。
 ビルに挟まれた駐車場は薄暗く、十台ほどのスペースは車で埋まっていた。入口付近でドアを開錠すると、奥に停まっていた黒い車のヘッドライトがゆっくりと瞬いた。
 車に乗り込み、頼んでいたものが揃っているか確かめる。ダッシュボードを開けると密封できる空の菓子袋が入っていた。一見するとただのゴミだが、内側には汚れがなく表面に書かれた商品名も実際には存在しないものだった。
 サカキはポケットの中身を助手席に並べて、煙草を一本と、同じ箱からやや大きめのライターを取り出した。煙草に火をつけ、ライターを袋に放り込む。中には少量の油と、サカキが組織で管理していた倉庫や金庫の情報を留めた記憶媒体が入っていた。もし組織員に知られれば、すぐにもリーク元が判明するような情報だった。だがサカキは構わなかった。使えるものは何でも使った。組織に対する罪悪感はなかった。かつてわずかばかり残っていた未練は、雪が融けてしまうようにすっかりなくなっていた。
『総統とハセベさんが死んだんすよ、サカキさん!』
 早朝の電話で本部へ向かうと、玄関前は救急車やパトカーでごった返していた。誰かが、来たぞと声をあげる。振り返ると、脚を負傷したナルオミが出てくるところだった。救急隊員や警官がしきりに担架に乗るよう促すが、ナルオミは聞く耳を持たず淡々とした様子で救急車へ向かって歩いていた。その様子に、それまで騒然としていた周囲が言葉を忘れたように黙り込んでしまった。サカキもまた唖然として立ち尽くした。ナルオミは片脚を引きずりながらも、常と変わらぬ不敵な目をして、獲物を捕らえた獣のように堂々としていた。サカキはナルオミが二人を殺したのだと直観し、晴れやかな表情で連行される罪びとに戦慄した。血がざわめいて吐息になり、たまらず笑いが洩れた。その声が聞こえたのか、ナルオミもまたサカキを見て笑みを浮かべた。穏やかで満ち足りた眼差しだった。その後ナルオミは治療のため入院し、重要参考人として警察の監視下に置かれた。
 総統と幹部を失った組織は、空中分解のただなかにあった。ハセベを慕っていた組織員はナルオミを私刑にかけると息巻き、幹部のうち数人はそれぞれ弟分を引き連れて他の組織へ吸収されていき、一カ月ほどの間にすでに半数以上が組織を離れていた。サカキもそのうちの一人だった。
 エンジンをかけて、のろのろと精算機に横付けする。駐車料金を支払い、脇に置かれたゴミ箱へ菓子袋を捨てる。駐車場から出てアクセルを踏み込むと、視界の隅で作業着を着た人物とすれ違った。
 大通りから脇道へ逸れて、大きく白い建物の裏口で車を停める。門の両脇には警官が立ち、コンクリート塀の上からは監視カメラがサカキの車を狙っていた。
 息苦しさを覚えて窓を開ける。流れ込んできた風は、かさぶたのような寒さを孕んでいた。
 門のひらく、重い音がした。見遣るとそこにはまだ冬のさなかに取り残されたままのナルオミが突っ立っていた。ともに出てきた男に促され、車の方へ近付いてくる。サカキは全開にした窓に肘を置き、じっと待った。しばらく見ないうちに、ナルオミはまた痩せたようだった。眼差しはさらに鋭く、頬に落ちる影は濃く、唇は死びとのように乾いていた。
 道の半ばでナルオミがふと立ち止まる。彼は手のひらを前へ差し出し、空を見上げた。つられてサカキもフロントガラスから空を覗くが、何も見えなかった。
「おい、ナルオミ」
 呼びかけに応えて、ナルオミがサカキを捉える。
「お前か」
「感謝しろよ」
「頼んだ覚えはないが」
 ナルオミは運転席の真横に立ちサカキを見下ろした。サカキはへらへらと笑いながら、煙を吐く。
「あれだけ辻褄合わせした現場を残しておいてよく言う」
 事実がどうであったかをサカキは知らない。知っているのは、ハセベがアキを殺し、ナルオミは脚を撃たれたことで身の危険を感じ威嚇射撃をしたが、それが運悪くハセベに当たってしまったというストーリーだった。サカキはナルオミが入院してからずっと、そのストーリーの穴を埋めるべく奔走していた。
 助手席にナルオミが乗り込む。サカキは煙草の箱を向けた。
「いるか」
 ナルオミは黙ったまま煙草を抜き取り、サカキが差し出した火に顔を寄せた。清浄な森の中で深呼吸をするように煙草を吸い込んで、晴れ晴れとしながら鼻で笑う。
「うまいな」
 葉のない枝が、施設の壁を乗り越えはみ出していた。先には赤い蕾を結び、恥らうように、また誇るように、風の誘いに揺らいでいる。枝を透かして見える空は、海中から仰ぐ太陽のように遠く輝かしい存在だった。
 短くなった煙草を灰皿へ押し付け、サカキはハンドルに凭れかかった。
「しばらくこの街から離れた方がいい」
 視線の先に見えるカーブミラーに、黒い点のような影がよぎる。ナルオミもバックミラーで同じものを見ていたようだった。ただ鋭いばかりだったナルオミの目に、鈍い光が戻る。
「離れて、どこへ」
「海の向こうはどうだ」
 サカキは日差し避けに挟んであったパスポートをナルオミの膝へ投げる。中をひらいて出来を確認すると、ナルオミは浅く頷いた。
「いいだろう。ただし俺は飛行機が嫌いだ」
「船で行けってのか。おいおい遊びに行くんじゃねえんだぞ」
 文句を言いながらサカキは、先代に連れられてこの国へ来たときも船だったことを思い出していた。
「でもまあ、そんなもんか」
 シートベルトを差し込みながら、サカキは肩をすくめる。これまでに色々な遊びをしてきたが、生きる以上に本気になれる遊びなどどこにもなかった。
 サイドミラーで後方を確認して、一気に車を発進させる。タイヤを甲高く鳴らして、大通りへ向かった。
 ハンドルを持つ手の甲に、青い影が落ちる。雲の間から大きな太陽が光を注いでいた。
 脳裏に真っ青な雫がよぎる。いつのことか、夢か現実かも定かではない。だがそれは確かにサカキが求め続けていた青、この身に絶え間なく流れ続ける、青い血潮だった。

―おわり―