白と黒のロンド

02.ロザリオ(2)

 終わることに怖れはない。はじめから、ここには何もないのだ。せめてカイトの銃で逝けるなら、思い残すことはない。
 ああ。ゆく先にカイトはいるだろうか。
 否、カイトでなくてもいい。誰でもいい。いつまでもナルオミをそこへ縛りつけてくれる誰か、所有してくれる誰かはいるだろうか。
 運命は定められたもの、逆らうことはできない。かつてそう言った女の声が思い出されて、ナルオミはささやかな希望すら奪われる。
 失い続けるよう、定められた運命なのだろうか。だとしたら、ナルオミはあちらへ行ったとしても、またそこでカイトを失うことになるのだろう。カイトだけではない。これまで失ってきたものを、またはじめから失っていくのだろう。
 ただ、必要とされていたいだけなのだ。ここにいるための赦しが欲しいだけで、他に望みなどありはしないのに。
 銃を介してアキの鼓動が伝わってくる。乱れのない、永遠を感じさせるリズムだった。ナルオミは薄ぼんやりとした暗闇の中で、魂を委ねた。
 もし、彼のために生きられたなら……。
 不意にアキがため息をつき、規則的だった鼓動が途切れた。目を開けると、もうそこに銃はなかった。
「なぜ……」
「殺すつもりなら、とうにしている」
「そうか。そうだな」
 ナルオミは苦笑をもらした。安堵とも落胆ともつかない倦怠感が首筋に残る。余韻を感じる暇もなく、押さえられていた背中が軽くなった。血の滞った上半身を、古くなった蝶番のように軋ませながら起こす。
「ナルオミ、僕の右腕になれ」
 あまりにも唐突な命令に、ナルオミは返す言葉を持たなかった。
 銃を持ったままアキが快活に笑った。途端に少年らしい。
「そこまで驚かなくてもいいだろう。使えるものは何だって使う主義なんだ。それがたとえ、跡目争いをした男の片腕だとしてもな」
「俺がカイトの仇討ちをするとは考えないのか」
「考えないわけじゃない。だが、させない」
 手の中の銃を撫でて、アキは囁くように言い添えた。
「お前の絶望は、僕が払う」
 一片の曇りもない。臆するところもない。力強く、澄んだ声だった。だが、だからこそ現実感に欠けた。
 理想はいつだって美しいものだった。美しいからこそ憧れるが、長じるにつれて理想がいかに罪深いものであるかを思い知ることになる。
 アキの囁きは理想だ。たとえそれがアキの本心でも、ナルオミはその美しさに目が眩むほど無垢ではなかった。
 ナルオミは小さく首を振って、目にかかる前髪を嫌った。
「あなたに何がわかる」
「わかるさ。置いていかれる者の孤独は」
 慰めるでもなく、知った振りをするでもなく、アキはただ静かに微笑む。少年にしては長い睫毛が、眼差しに深い影を落とす。ささやかな、だが確かな拒絶だった。ナルオミにはわかる。それは彼の傷なのだと。
 この状況で思わず目を伏せるような傷とは、何であろうか。何もかもを手にしているはずの彼の喪失とは、一体何であろうか。ナルオミの胸に湧いた疑問は、すぐに興味へと変わった。
「逆らえば、ここで死ぬだけでしょう?」
「カイトに合わせる顔がないと言うなら、無理強いはしない」
 アキはナルオミに銃を差し出した。
 理想を掲げる無邪気さはない。一人で生きるほどの強さもない。だが、そうしようとする人を支える力なら、ここにある。
 求められれば、無敵になれる。
「わかりました。アキさん、あなたに従いましょう」
 ナルオミの答えにアキは一瞬驚いたようだったが、すぐに目を細めた。
「ありがとう、ナルオミ」
 場違いなほど爽やかな笑顔も、アキならば許された。彼は殺伐とした世界に落ちた、ひとしずくの色彩だ。
 光を従え、闇を呑みこむ白い色彩。それがアキだった。
 なるほど呑みこまれるはずだ、ナルオミは心の中で呟いた。
 ハセベがアキの目顔を受けて、ナルオミの手枷を解いた。ようやく自由になった腕を動かそうにも、ままならない。体の横にぶら下がった腕を見おろして苦笑する。目に見えるだけで自分の体である感触がない。血の気の失せた指先は、くすんだ象牙のようだった。
「よろしいですかね、総統」
 末席にいた若い男が、静まり返っていた部屋に声を投げた。名を、サカキといった。若いが有能な男だ。ナルオミにとって、アキが現れる前はもっとも注意すべき人物だった。
 彼は両手を服に突っ込んで、首をかしげるようにして立っていた。
「どうした」
「総統、これはあまりにも危険じゃないですか。ナルオミにとってカイトは育て親も同然。こいつは組織や先代に仕えていたんじゃない、カイトに仕えていたんですよ。それを生かして、ましてやそばに置いておくなどと。さすがに酔狂が過ぎます」
 サカキの意見を受けて、何人かが頷いた。そうでない者も、彼の言葉を否定するには至らない。
 アキはわかっていたのか、別段慌てる様子はなかった。
「では、どうすればお前たちは納得する」
「そりゃまあ、ナルオミを殺すのがいちばんいい。あなたへの忠誠と信頼は確固たるものになるでしょう」
「それはできない。ナルオミはもう僕の部下だ」
 頑として譲らないアキを見て、サカキは口元を緩めた。
「ならば、そいつに誓いを立てさせてください」
「誓い?」
「ええ。俺もね、先代に従うときにさせてもらいました。親から受け継いだもの、俺は指輪でしたけど、それを総統へ忠誠の証しとして納めてもらうんです。聞けば短剣や、家族を証しにした者もいるそうですよ」
「そうなのか」
 アキの問いにハセベが頷いた。
「先々代から続いている、まあ形式ですな」
「くだらない」
 総統の椅子に再び腰をおろして、アキはナルオミを見おろした。
「どう思う、ナルオミ」
「誓い、ですか」
「お前の考えを聞かせろ」
 言外にアキが無視をしろと言っているのはわかった。だがそれはこれからのアキの立場を考えると、あまりよい判断とはいえない。できれば目に見える形で誓いは立てたかった。
 肩越しにサカキを振り返る。目が合った瞬間に、彼は浅黒い顔を歪めて笑った。口元が、さあと促す。サカキはわかっている。ナルオミが形式に則った誓いを立てることができないと。
 なぜなら、ナルオミには何もないからだ。
 もしもここでナルオミが出来ないと言えば、二心ありと疑われ、それをかばうアキまで信頼を失ってしまう。それだけはどうしても避けたい。
「誓いを立てることに、異存はありません。むしろ俺もそうしたい。ですが、俺には――」
 そこまで口にして、ナルオミは痺れの残る冷たい両手を見つめた。
 証しなら、ここにある。
「ハセベさん、さっきのナイフを借りてもいいですか」
「これか」
 ハセベはホルダーに納めようとしていたナイフを目の高さにあげる。ナルオミは頷いた。
「お借りします」
「こんなもので、一体何をするつもりだ」
 ハセベの問いに答えず、ナルオミはナイフを受け取る。ざわめきの中から、ひときわ大きな声がした。
「おいおい、あんたもしかしてハセさんのナイフを証しにする気か。俺ぁ、確かに誓いを立てろと言ったが……」
 サカキは笑いを挟んで続ける。
「借り物の誓いなんて、意味ないぜ」
「わかっている」
 ナルオミは居住まいを正してアキに向き合った。
「俺には、俺しかありません」
 ひじ掛けにもたれていたアキは片目を眇めて体を起こした。動きに合わせて、アキの白い首筋に細い鎖が揺れる。クロスのネックレスのようだった。
「俺の命をあなたに預けると言っても、それは見えない。見える形で預けてしまえば、俺はあなたのために働けない。ならば腕や足を切り落とせばいいのでしょうが、それでは全力であなたを支えられない。形式軽視だと言われれば、返す言葉もありません。それでも俺は……」
 ナルオミはよれた襟に手をかけて、自らのシャツを破った。
「俺しか持たない」
 言い終わらないうちに、ナルオミはナイフの先を鎖骨の間に押し当て、皮膚を裂いた。胸まで縦におろすと、続いて垂直に交わる短い傷をつけた。
 皮膚を割っていったナイフが、絶望的な冷たさでナルオミを嘲笑った。つるりとした刃先はまるで歯だ。肌には鮮烈さを持って、にやついた歯茎が浮き上がった。
 昨日までナルオミはカイトの盾だった。外敵からカイトを守り、どんなに傷ついても破られない盾だった。だが、最後の敵が盾の内側にいた。それを防ぐすべは、盾であるナルオミにはなかった。
 守るばかりでは、いつか何も守れなくなる。
 今度こそ、喪うわけにはいかない。
 もしなれるならば、アキの剣になりたい。彼を守り、彼を害するすべてのものを貫く剣になりたい。
 惜しまない、ためらわない。越えよう。自分の空っぽの殻を越えて、アキの爪の先にまで満ちていきたい。
 血がナイフを伝い、床の上に落ちた。きっと、カイトの欠片だ。
 部屋の中は静まり返り、物音ひとつすらなかった。
「……誓いを」
 掠れた声が、はたしてアキに届いているのか不安になる。息を吸うと、胸が凍みた。
「誓いの証しを、受け取ってくれますか」
 ナルオミの首にかけられた十字架は、流れる血で原形を失いかけていた。アキは胸元のシンボルを手のひらに握りこむ。
「ペアか。悪くない」
 そこには確かに情愛があった。ナルオミは慣れない笑みを頬に浮かべた。