白と黒のロンド

03.斑の雪(1)

 寒さに呼ばれて窓の外を見ると、雪がちらついていた。
 ナルオミは資料を揃えてアキの部屋へ向かった。自分の足音を他人事のように聞きながら、人の殻に覆われた空っぽだった部分に、やわらかな土が堆積していることを確認する。満たされている。
 扉を叩こうとすると、思いがけず中から開いた。
「あ」
 アキはナルオミの顔を見上げて、むっと顔を曇らせた。
「なんだ、もう時間か」
「はい。どちらへ」
「便所くらいいいだろう」
「では先に出発の用意を。車へ乗るまでにお願いします」
「はいはい」
 渋々部屋へ戻り、アキは大仰にため息をついた。
「たった五分すら大目に見てくれないなんて、思いもしなかった」
「ならば、今から俺を斬り捨てますか」
 淡いマーブル模様のファーコートに袖を通していたアキは、動きをとめてナルオミを睨みつけた。
「冗談は冗談らしく言え」
「まあ、冗談であればそうしましょう」
「だったらなおさら、そんなことは言うな」
 コートの前を寄せ、長い襟足を払う。細くつやのある黒髪を白雪の指がすべるさまは、少女のようなしなやかさに彩られていた。
 思わず、アキの指先を見つめる。視線が吸いついて離れなくなる。
「なあ、ナルオミ」
 ナルオミの胸元に、アキの拳が押しつけられた。
「この誓いは、僕の取るに足りない我儘にも劣るのか」
「俺にとっては、あなたの命令がすべてです。優劣などと」
「違うよ、ナルオミ。それじゃお前は繰り返すだけだ」
「え」
「お前は優秀だ。だがこれでは、お前はいつまでも無力なままだ」
 拳の下には、ナルオミの十字架がある。それを服の上からなぞるようにして、アキは力なく笑った。
「切ないね、お前は」
「総統……」
「すまない。行こうか」
 一片の未練もなく離れていくアキの手を、扉の向こうに消えていくまで見送って、ナルオミもまた部屋を出た。
 廊下を歩くアキの背中を目で追い、ナルオミは胸の十字架に手を当てる。少し冷えた胸元は、泥のような疲労感に静まり返っていた。
 カイトを喪い、アキの元についてから半月ほどが経っていた。その間、ほとんどの時間をアキと過ごしている。これまで組織と関わりのなかったアキには知らなければならないことが山のようにあった。懇意の組織へのあいさつ回りも連日続いていた。出来る限りアキには負担のないよう進めていたが、少なくともナルオミに休んでいる時間はなかった。
 しかしナルオミはそれを苦としない。むしろ心地よいくらいだった。
 アキは勉強らしいことをしたことがないと言ったが、物覚えはよく、一度言ったことはすぐに理解した。また、若いが立ち居振る舞いに臆するところはなく、総統としての風格があり堂々としていた。それは努力で補えるものではない。これこそ血筋、アキが先代から受け継いだものに違いなかった。
 先代は骨太で、獅子のような顔つきをしていた。それに比べてアキはとても線が細い。目鼻立ちも父子かと疑うほどかけ離れている。実際、組織内ではアキの出自を疑う幹部もいた。
 しかし噂などいずれ消える。それはナルオミの観察と感性に基づく確信だ。
 アキは時折、先代にとてもよく似ていた。穏やかで慈悲深い眼差しのなかに、冷たさすら感じさせない氷が宿る。相反するはずの二つの温度が、共鳴してひとつのうねりになる。先代は何かを決断する時に、必ずそういう目をした。アキもまた折に触れてそうだった。
 そう、ついさっきも。
『切ないね、お前は』
 愁いというには乾いていて、虚無というには美しすぎた。
 あの視線の先にいるのだと思うと、誇らしさで気が狂いそうになる。
 ナルオミは足取りを速めてアキのすぐ後ろを添うように歩いた。振り返らずに、アキが言った。
「今日はどんな予定だ」
「はい。先日お会いになった中央会の会長と昼食を。そのあとは夜まで時間がありますので、関係施設を見て回りましょう」
「まだ何とか人間的な生活を送れそうだな」
「そうですね。総統に何か希望があれば――」
「ナルオミ」
 突然立ち止まったアキを見おろして、ナルオミは眉をひそめた。
「歩いてください、総統。遅れます」
「それ、やめてくれないか」
「は」
「だから、僕のことは総統と呼ばないでくれ」
「そう言われましても……」
 ナルオミはアキの背中を押して歩くよう促した。だがアキは一歩たりとも動こうとしない。
「カイトのことを呼び捨てていただろう」
「それが?」
 押すのを諦めたナルオミは、アキの腕を掴んで引っ張った。毛皮に包まれた腕は細く、思わずためらった。
 長めに伸ばした前髪から、アキの黒い双眸が覗く。見つめていると、自分の立っている場所すら不安になるような、どろりとした感情を呼び起こされた。真っ直ぐで、奥行きを感じさせないほど深い、混じり気のない眼差しだった。
「僕はカイトを越えたい。越えなければならない。でなければ奴に勝って、組織を継いだことにはならない。お前の中でカイトよりも大きな存在になりたいんだ」
 この人は、一体何を言っているのだろう。ナルオミはアキの腕を掴んだまま呆然とした。
 アキはここに、ナルオミのそばにいて命令をくれる。ただそれだけで、すでにカイトよりずっと大きな存在であるというのに。
「意味が、わからないのですが。そもそも、カイトは総統という立場ではなかった」
「僕は確かな手応えが欲しい」
「くだらない。そんなことが理由ですか。だったら呑めません」
 ナルオミの答えに、アキは唇を噛んで顔を逸らした。その横顔にナルオミは嘘を見抜く。
「本当はどうなんです」
「僕が嘘をついていると」
「もし本当にカイトを越えたいと言うのなら、あなたは今すぐここから去るべきだ。現状を理解できない総統など、害悪です」
「なんだと」
「俺を失望させないで」
 腕を掴む手に力がこもる。壊してしまいそうで、怖い。だが怖れの奥に強い期待が息を潜めて待っている。ナルオミはあえて力を弛めることはしなかった。
 アキは腕に張りついたナルオミの手に自分の手を重ねて、不器用に爪を立てた。溺れそうな泳者のように、大きく息を吸う。
「……僕が」
「はい」
「僕が僕であることを、ずっと教えていてくれ」
 アキの体は震えていた。小さな体には大きすぎる不安が、はちきれそうになっている。
「総統と呼ばれ続けたら、僕はいつかアキではなく、総統という生き物になってしまいそうだ。僕という個性はなくなって、あの椅子も僕の体の一部になってしまって、最後には人ですらなくなってしまう」
「今は時間に余裕がなく、そういうことも感じるでしょう。ですが、しばらくすれば余暇を確保します。あともう少し我慢をしてください」
「忙しさを責めているんじゃない。むしろお前のほうがずっと忙しいことも休んでいないことも知っている。そうじゃない、違うんだ。総統という立場なら僕は背負おう。どんなにつらい責務もこなそう。だが僕は、せめて最後のところは僕でいたいんだ」
 冷たく湿った指先が、握りしめて白くなる。
「僕にはもう、家族がない。ここしかない。だから、ただのアキにはなれない」
『わかるさ。置いていかれる者の孤独は』
 ナルオミはそう言ったアキを思い出す。
 先代だけではない。アキは母親も病気で亡くしていた。
 手の甲に食い込むアキの細い指から、不安が流れ込んでくる。その不安の正体を、ナルオミも知っている。自分に家族という背景がない心細さは、現状を変えるため前へ踏み出そうとする歩みさえ引きとめる。
「だがお前がずっと僕の名を、僕をアキと呼んでいてくれたなら、僕は僕を生きられる。そんな気がする」
 ひび割れてしまいそうな叫びを、そっと水に浮かべるように吐き出したアキは、もう震えてはいなかった。
 なんと脆い強さだろう。たかがそれだけのことで折れてしまう心と、たかがそれだけのことで戦える心とが、同じところに存在している。あの眼差しの正体がここにある。ナルオミは戦慄した。
 突き立てられた指を掴み返して、ナルオミは振り払うように手を離した。
「組織内の規律もあります。俺があなたを呼び捨てては、他へ示しがつかない」
「わかっている」
「使い分けろと?」
「そうだ」
 透き通るような白い肌が、苛立ちと恥じらいでわずかに染まる。
「わかりました」
 ナルオミは短く息をはいた。表情を変えずに続ける。
「ですが、呼び捨てるのは、もう少し親しくなってからにさせてください。二人でいるときに総統とは呼ばない、それだけは守りましょう」
「親しくってなんだ。気持ち悪い」
「お互いにもっと言葉を交わしてから、ということですよ」
 再びナルオミがアキの背中を押すと、今度はすんなり歩き出した。アキは押されながらナルオミを振り返る。
「妙な男だな、お前は」
「でしょうね」
「自分で認める奴がいるか」
 眉をひそめて笑う仕草が、いつになく幼く見えた。こうやって、いくつもの表情を重ねていけば、いつか家族になれる気がした。そうすれば、彼をひとりきりにしないで済む。アキがそれを望むなら、ナルオミも望む。それだけのことだった。