白と黒のロンド

04.斑の雪(2)

 玄関前にはすでに車が待っており、半開きになった扉から冷たい風が吹きこんでいた。
「総統、おはようございます」
 外の寒さに頬を染め、ハセベが中へ入ってきた。
「おはよう。今日はずいぶんと冷える」
「ええ。とうとう降ってきましたよ」
「そうか。雪は、初めてなんだ」
 アキは声を弾ませ、扉に手をかけた。ナルオミもそれに続こうとしたが、横からハセベにとめられる。
「ナルオミ、本当に本気なのか。いいのか」
「一体、何の話です」
「まさか考えていないだろうな。その、復讐――」
「ハセベさん。それは総統に対する不敬だ」
 ナルオミは人間味のない鋭い目でハセベを睨みつけた。視界の隅に、空を見上げるアキを捉える。早くそばに行かなければ、いや行きたい。
 ハセベはそんなナルオミの気持ちを知らずに、ゆっくりと話した。
「だが、お前のカイトへの忠誠は、簡単に消えるものではないだろうに。何か取引をしたのか。先代から託されたものでもあるのか。いい加減、皆にわかるようにせんと、中から崩れてしまうぞ」
 皺だらけになった両手をこすり合わせて、ハセベは白い息を吹きかける。
「周りにはお前の心変りが理解できんよ」
「俺は何も変わらない。強いものに従う。理由ならそれで十分では」
「人ってのはな、人の心ってのは、そうはいかないもんなんだ。まあ、お前には難しいかもしらんな」
 瞼のくぼんだハセベの目に、悲哀が浮かぶ。肩を落としてため息をつき、ナルオミの肩をたたいた。
「みんなわかってるさ。お前にとってカイトを喪うとは、どういうことなのか。お前はおふくろさんをあんなふうに亡くしてる。カイトのことで迷いが出たとしても、今なら誰も責めはせん」
「母のことは関係ない」
 肩に触れるハセベの手を払いのけ、ナルオミは持っていた資料に目を落とした。タイピングされた無機質な文字が、蛇のようにずるりと蠢く。揺らいで、霞んで、肌をかすめる寒さが暑さにすり替わる。
『定められた運命には逆らえない。それが運命。だからこそ運命。決して覆らないのよ』
 母はそう言ってナルオミの首に手をかけた。息苦しさにもがいて、母の手を引っ掻きまわした。やめてと何度も叫んだが、母がその手を弛めることはなかった。やがてナルオミは気を失い、次に目覚めたときには血の海の中にいた。
 喪失感などという言葉さえ知らなかった。だが喉の奥にへばりつくような臭いと、耐え難い孤独ははっきりとナルオミの体に刻み込まれた。
 誰よりも失うことを怖れるようになった。せめてひとりきりで立つことができれば良かったが、孤独の心細さにも耐えられなかった。誰かと一緒にいることを選べばいつか失ってしまうかもしれないとわかりながら、人と関わることをやめられなかった。
 カイトは強かった。血筋と、力と、優しさを持っていた。カイトと出会い、ナルオミは神を信じた。彼ならば、ナルオミの喪失の運命を変えられると思った。ついに救われたのだと天を仰いだ。
 耳にはまだ夜明け前の、カイトを奪った銃声がこだましている。枯れ木を踏むような味気ない音をしていたのに、ぬるりとした生々しい感触が消えない。それは、何度も味わってきた失いの手触りだ。
 繰り返し、鳴り響く。正午を知らせる鐘のように、無遠慮に無感動に打ち鳴らされる。
 そう、銃声が。今も。
 今……?
 ナルオミは顔をあげ、外を見遣った。続く銃声が、寒さで張り詰めた空気を強引に引き裂いた。
 誰かが叫びをあげた。
「敵襲だ!」
 記憶の風船が弾けて、ナルオミは我に返った。総統と呼ぼうとして、言葉に詰まった。アキが嫌がるかもしれないと思うと、踏み出す足も一歩遅れた。
 ひときわ乾いた音がして、アキの頼りない体が後ろへ流れた。
「総統!」
 ナルオミは持っていた資料を投げ出してアキの元へ駆け寄った。
 車の運転手や、警備で立っていたものの多くが銃弾を受けて倒れていた。玄関の外ではあるが、車が停まっているのはまだ敷地のうちだ。狙撃手は周囲のどこか高い場所から撃っている。こちらには不利な状況だった。応戦するより、逃げるほうが先だ。頭ではそうわかっているものの、腕の中にぐったりとしたアキを抱きとめて、ナルオミは一瞬で理性を失った。
 もう、奪わせない。
 アキの背中に回していた手を離し、上着の内側から銃を抜く。銃声の響きとアキが倒れた方向を頼りに、狙撃手の位置を推測する。視線の先には、半年前に閉鎖された雑居ビルがあった。ナルオミの中に拠り所のない確信が芽吹いた。腕を伸ばし、引き金に指をかける。
 だが引き金を引ききる前に、アキが足元にしがみついてきた。
「やめろ。ナルオミ」
 騒ぎを聞きつけた組織員たちが、次々と玄関先へ出てくる。敷地内は一気に殺気立った。
 ナルオミはビルに背を向けて、アキの前に膝を折った。
「総統」
「少し掠っただけだ。いいから下がれ。皆も下がらせろ。誰一人、死なせるな」
「しかし」
「これは命令だ。下がらせろ」
 整った顔を痛みに歪めて、アキはナルオミを睨みつけた。ナルオミは私情にまみれた反論を呑みこみ、門を出ていこうとする組織員を呼びとめた。
「先に怪我人を収容する」
「だが、ナルオミ」
「これは総統命令だ。銃撃はとっくに止んでいる。追っても無意味だ」
「くそっ」
 準幹部の男は周りにいた組織員に指示を出すと、外回りの仲間に電話をかけ、調べるよう告げていた。
 ナルオミはアキの元へ戻り、毛皮から滲みだす血に目を瞠った。
「何が掠っただけだ」
 引いたはずの恐怖が再び顔をのぞかせる。
「見せてください」
 ナルオミは肩を押さえるアキの手を取った。毛皮は裂け、そこからアキの体の内側が見えた。確かに掠っただけのようだったが、毛皮を着ていなければ銃弾は確実にアキを貫いていただろう。
「離せ。大した怪我じゃない」
 アキは手を振り払おうとしたが、ナルオミは意に介さず、アキの手を掴んだまま手近な男を呼びつけた。
「医者だ。総統に医者を」
「はい!」
「勝手なことをするな。いらない、そんなもの不要だ」
「……え、あ、はい」
「いいや、呼べ」
「あ、あのぉ……」
「僕の命令が上位だ。わかったら戻れ」
「は、はい」
 男は二人の顔を見比べたあと、足早にその場を去っていった。ナルオミはその背中に見切りをつけると、眉を寄せてアキを一瞥した。
「強情な人だ。ひとまず部屋へ」
 ナルオミは座り込んでいたアキの背中に手をまわして立ち上がると、膝の裏にも腕を差し入れて一気に抱えあげた。
「お、おい、ナルオミ!」
 軽々と抱えられ、アキは高い声を上げた。ナルオミはため息を隠そうとはしなかった。
「我儘ならもう伺いました。次は俺の我儘です」
「違う、さっきのは命令だ。我儘などと――」
「警戒を怠るな。警察にはうまく説明しておけ」
 ナルオミは準幹部の男に指示を残し、アキの抗議を無視したまま屋敷へ戻る。アキはナルオミの腕から逃れようと足をばたつかせたが、体を捻るたびに傷口が痛んで、すぐに大人しくなった。
 部屋へ戻り、執務室から続く寝室へアキを運ぶ。アキの体は想像していたとおり軽く、羽毛を抱えている心地だった。厚手の毛皮の感触が、さらにそう思わせる。
 ナルオミはアキをベッドにおろし、邪魔な上着を脱ぎ、肩からかけていた銃のホルダーを外した。
「傷を見せてください」
「いい。手当てくらい自分でできる」
「利き腕の肩をですか。いいから脱いで」
 抵抗するアキをおさえて、マーブル模様の毛皮を剥ぐ。途端に一回り小さくなったアキの右肩からは、まだ血がこぼれていた。白いシャツは半身が血で染まり、斑になっている。思っていたより出血が多い。小柄なアキにとっては命取りにもなりかねない。
「本当に医者を呼ばないつもりですか。何か情報が漏れるのを怖れてですか」
「まあ、そんなところだ。いいからお前も部屋を出ろ」
「は?」
「は、じゃない。出ろと言っている」
 アキはシーツを手繰り寄せて端を咥えると、片手で器用に裂いた。
「お前には僕の命令がすべてじゃないのか」
「ですが」
「知り合いの医者がいる。そこへ行く」
「どうやって。今の状況で外へ出るのは危険すぎる」
「折を見て行くさ。作業着でも着て裏口から出れば、僕とはわからない」
 裂いた布を腋にはさみ、肩に巻いていく。手慣れてはいたが、痛みのため何度も動きが止まった。
 アキを手伝うつもりはなかったが、ナルオミはもどかしさに耐えられなくなった。彼の手を取って、巻きかけの布をはぎ取る。
「これでは傷口が汚れます。ひとまず消毒を。それから清潔な服に着替えてください。あなたの命令は俺には絶対だ。でもそれはあなたが在ってこそです」
 続いてシャツの襟に手を伸ばすと、アキが必死で拒んだ。ナルオミは片眉を上げてアキを見おろす。
「なんですか」
「ま、待て」
「待ちません。あなたの我儘ばかり聞いていたら、俺はあなたを……」
 喪ってしまうかもしれない。そう口にすることは憚られた。口に出してしまうと、運命がそちらへ傾いてしまうような気がした。
 胸のうちに生じた悪夢を振り払うように、ナルオミはアキの体をベッドへ押しつけて、シャツの襟を開いた。
 だがナルオミはそこで凍りついたように動きをとめた。
「総統……、これは」
 それだけ言うのがやっとだった。
 斑に染まったシャツの下にはきつく晒布が巻かれ、仄かな膨らみを覆っていた。ナルオミはアキの胸元を見おろして、呆けたように呟いた。
「女……」
 目を上げてアキの顔を見ると、彼――否、彼女は白磁の肌を淡く染めて視線を逸らした。
 目眩がして、ベッドに両手をつく。その隙にアキはシャツの前をかきあわせた。ナルオミはそのままの体勢で顔を上げ、あらためてアキを見つめる。
 白くなめらかな肌を濡れたような黒髪が縁取り、長めの前髪からは宝玉の息遣いを宿す黒い眼差しが覗いた。頬には朝焼けが差し、かたく結んだ唇は春を待つ蕾のようだ。か細い首も、腕も、足も、生命からは程遠く、まるで人形そのものだった。
 女だとわかったところで、アキに変わるところはない。変わってしまうのは、こちら側の見る目だ。
「医者を呼びたくない理由は、それですか」
「そうだ」
「他に知っているのは誰です」
「いない。お前だけだ」
 アキがベッドを下りようとするので、ナルオミは大きく息をはいて、わかりましたとうな垂れた。
「あなたの我儘をききましょう。馴染みの医者がいるなら、そこまで俺が送ります。それが組織にとって最良の選択だ」
「だったらお前も部屋を――」
「出ません」
「ナルオミ」
「俺に処置をさせてください。とてもあなたには任せられない。晒布はそのままで結構です。なるべく触れないようにしますから」
 懇願するナルオミに、アキは素直に頷いた。ナルオミは胸を撫で下ろして、小さく礼を言った。
 つい先ほどためらいなく開いた襟に、今度は遠慮がちに触れる。アキは息をとめて大人しくしていた。
「よく、泣きませんでしたね」
「女のほうが痛みに強いって言うだろう」
「そんな次元の話」
 傷口にはりついたシャツをゆっくり剥がし、ナルオミは失笑した。皮膚が引っ張られてアキは顔こそ歪めたが、声を洩らしはしなかった。
 血は少しずつ止まりかけていた。ナルオミはアキをそのままにして、執務室に置いてある清潔な包帯を取りに立ち上がる。
「ナルオミ」
 これまで聞いたことのない心細い声だった。
「さっき僕を守ってくれたのは、お前だけだったな」
 振り返ると、アキは自らをあたためるように、そして小さく壊れ易い自身を恥じるように腕を抱いていた。
 だがその脆さは、ナルオミをいっそう強くする。
「それが俺の命ですから」