白と黒のロンド

05.「狂気のための愛と死」(1)

 襲撃から二十日が経った。
 狙撃手を確保したまではよかったが、依頼主についてはわからないままだった。本当に依頼主を知らないのでは、という意見も聞く。知っていていつまでも耐えられるような締め上げ方ではない。それほど固い絆など幻想と、誰もが笑った。
 アキの怪我は、出血こそ多かったものの大事には至らなかった。しばらくは利き腕が満足に使えない不自由な生活だったが、それも数日で終わり、今は後遺症もない。
 アキの馴染みの医者は免許を持たない闇医者だったが、腕は確かだった。提案されたのは、開発中の人工皮膚だ。そちらのほうが完治は早いと言うが、わけのわからない実験にアキを使うなど、ナルオミには到底受け入れられるものではなかった。だがアキはこれまでにも実験台になったことがあるからと快諾した。
 闇医者が用いた人工皮膚のおかげで、アキの傷口は目に見えて快方に向かった。他に目立った不調もない。人工皮膚はアキの体質にあっていたようだ。何より、総統になってから慌しかった生活に、ささやかながら余裕ができた。
 組まれていた予定を、襲撃と無関係であることが確かな相手に絞り込むことで半分に減らした。先方からの見舞いを断るなど、ナルオミのやり方は強引だったが、総統の体に障るといえば誰も反対しなかった。
 執務室の前まで来ると、中からレコードの音色が聴こえた。強弱をもって途切れながら、扉の隙間から音が染み出てくる。ナルオミはノックしようと上げた手を、しばしそのままにした。
 レコードに重なって、かすかに歌が聴こえる。アキの声だった。
 ナルオミは目を閉じて耳を澄ました。涼やかで媚びるところのない、静かな声だ。重なり合った雪の囁きにも似ている。清かで、気高い。
 廊下の角から足音があった。曲がってきたのはサカキだ。ナルオミは上げたままだった手で扉を叩き、返事を待たずに部屋へ入った。
 執務室にアキの姿はない。ナルオミは持っていた書簡の束を机に置き、隔たりなく続いている寝室へ向かった。レコードは寝室の窓辺にあるはずだった。
 寝室の壁は暗く、たったひとつの窓から差し込む冬の陽が四角く浮き上がっていた。スクリーンのように白く抜き取られた窓には、十字に組まれた桟が黒く濃く映っていた。
 窓際にはアキの姿があった。スクリーンに寄り添って佇む影は、音のない映画のワンシーンのように、実体を感じさせない。もし手を伸ばして触れようものなら、指先には冷たい絹目がかすめるだろう。こちら側の薄暗い世界に染まらず、逆光で翳る首筋は幾千光年を越えてナルオミの時をとめた。
 美しさに、見とれた。
 姿かたちの美しさだけではない。存在そのものの美しさだった。神でさえ、これほど美しく在ることは不可能だろう、そう思えた。
 なぜなら、神はこちらを振り向かないから。
「アキさん」
 呼びかけに、美しい人が振り返る。
「なんだ」
「歌、聴こえていましたよ」
「誰かいたのか?」
「サカキが」
「心配するな、誰も僕の声だなんて思わない。レコードの中の女だと勝手に都合してくれるさ」
「楽観的ですね」
「そう思うのは、ナルオミ、お前が僕のことを知ってるからだよ」
 白い光の中にいるアキの笑顔は、暗がりのナルオミには眩しすぎて見えない。アキは再び窓の外へ視線を投げると、異国の歌を口ずさみ始めた。
 アキが女だということは、二人の間の秘密になった。
 そもそも、アキが先代の跡継ぎ候補として組織へやってきたときから、ナルオミには瓶の底にへばりついたジャムのように、拭いきれないひとつの疑問があった。
 なぜ、先代はアキの名を口に出さなかったのか。
 先日の襲撃のように、いつ命を落とすかわからない世界にいる。跡継ぎ候補がカイト一人では、あまりにもリスクが大きい。たとえ側妾の子でも、男子がいるなら先代の手で、先代が存命のうちに組織へ連れてくるべきだった。ナルオミが知る先代は、そのような失態をする男ではない。つまり、連れてくる必要がなかったということになる。
 それは、アキが女だからだ。
 アキは先代の生前から幹部を知っていたというが、実際に面識があったのはアキの母親なのだろう。もしくは、アキが相当幼いときのはずだ。でなければ、騙せるはずがない。
 組織の血統は絶対だ。それはつまり、先代の血を引いている男子になら、平等に機会が与えられているということでもある。あとは本人の能力次第だ。
 アキには血統も能力もある。ただ、男ではなかっただけだ。
 瓶底の疑問を無理にこそぎ落とそうとはしなかったが、結果として瓶は割れた。ジャムは少し糖度を増して、ナルオミを満たした。
 しかしそれは、新たな疑問への一歩でもあった。
 なぜそうまでして、アキは総統になったのか、なる必要があったのか。一体、なんのために。
 ぼんやりと薄明るいなかに、レコードの響きは続いている。ひび割れそうなヴァイオリンと非情を奏でるピアノが、旋律の中で出会い、別れていく。音楽に馴染みのないナルオミは、ゆっくりと回り続けるレコードを見つめて終わるのを待った。
 虫が息絶えるときのような雑音を最後に、調べが途切れる。
「冗長、いや、長い曲ですね」
「ロンドっていうんだ」
「曲名ですか」
「いや、形式だ。同じ主題を繰り返す音楽のことをいう」
「はあ」
「あからさまに興味のない顔をするな」
 アキはレコードの針をはじめに戻した。
「これは母の形見なんだ。この曲も、このピアノも、このレコードそのものも」
 レコードを入れる薄い紙箱を抱いて、アキは愛しさに目を細める。片方の頬を光に濡らしたアキは、そのまま光の中に溶け出してしまいそうだった。
 再び流れ始めたピアノの音色に、ナルオミは黒いレコードを振り返った。アキが小さく笑った。
「さっきと同じだろう」
「はい。まるきり繰り返しだ」
「でも序盤は大人しいはず。よく聴いて。少しずつ、少しずつ、たかぶって歪んでいくから」
「歪む?」
「この曲のタイトル。狂気のための愛と死」
 さらりと言って、アキは続けた。
「愛も死も、歪んでいくんだってさ。愛と死のために」
 アキは鼻歌まじりにメロディをなぞる。ナルオミは無言で音楽に耳を傾けた。
 旋律そのものは、ピアノが規則正しいリズムを取って、葬送歌のような静けさを湛えていた。ヴァイオリンは繊細で几帳面なピアノを嘲笑するように弦を震わせ、愛を慈しみ、愛を愛し、愛を悼み、愛に狂っていく。それらが何度も繰り返し奏でられていた。
「ここからだよ」
 絡まる二つの音色は、少しずつ強弱の幅を広げていく。それは表現の幅となり聴く者に深みを感じさせた。だがそれも結局は、繰り返しの渦中なのだ。
 聴いていると、足元がぐらつくようだった。覚束ない。ナルオミは知らず壁に支えを求めていた。
 延々と続く、終わりのない螺旋階段をのぼっているようだ。来た道を振り返っても、行く先を振り仰いでも、ただ階段が伸びているだけで何もない。のぼっても、のぼっても、辿り着くところはなく、のぼっているという意識だけが積み重なり、やがて自分が立っている場所すらわからなくなる。
「追いつめられている、そんな気分になる」
 ナルオミは絞り出すように言った。アキはただナルオミを見つめるだけだった。胸の十字架に、澱がこごる。
「まあ、確かに狂気ですね」
「その言い方、お前は否定しているの? 繰り返すことを」
 他意のないアキの問いに、ナルオミは口ごもった。
 積み重ねるのではない。ただ、繰り返しているだけなのだ。成長は元より、変化すらない。何度も何度も、同じ運命を巡り、失うことを延々繰り返す。そこにどんな価値があるというのか。
「否定している。けれど、諦めています」
「受け入れているのか、自分が否定していることを」
「そうですね。そうせざるを得ませんから」
「悪夢を繰り返すのは確かに僕もつらい。でも、繰り返すことすらできず、ひと所から動けなくなる、そういうこともあると思う」
「繰り返しも、結局は同じ場所へ帰ってくるだけです。意味がない」
「違う。繰り返し続けるお前には、本当に同じ場所なんてないよ、ナルオミ。繰り返すことができるなら、一歩でも動くことができたなら、それはもう違う場所だ」
 いつになく感情的に言い放って、アキは俯いた。腕に抱えた薄い紙箱で顔を隠す。照れや羞恥や後悔などではない。こらえているのだとすぐにわかった。