白と黒のロンド

07.「狂気のための愛と死」(3)

『ナルオミ、ここにいて。僕と一緒に、ここに』
 ただそばに在ることを乞われたのは、初めてだった。それだけで、この生は報われた。
 ナルオミは以前にも増して、自分の体調に執着しなくなった。少しでもアキと共にある時間を増やすため、そのほかの仕事を鬼のようにこなしていた。どんなに疲れていても、どんなに深夜であっても、アキの眠るベッドへもぐりこめば、それだけであらゆる苦しみから解放された。
 アキ、と呼べば見つめてくる黒い瞳を、すぐそばで見つめ返す。そこに映る自分を見遣って、生きていることを強く実感した。
「ここ」に生きているのだと。
 この瞳に映り続けたい。それがナルオミの願いであり、今のすべてだった。
 アキの冷たい手が、ナルオミの髪を撫でる。その手をとって、ナルオミは口元に寄せた。
「きれいな手だ」
「かあさんの手は、もっとやわらかくてきれいだった」
「ピアノのせいでしょう」
「それなら僕もやったのに」
「へえ、意外」
「そう言うと思った」
 アキは眉を寄せ、唇をとがらせた。不意に見せる何気ない仕草には、あどけない少女が住んでいる。
 ナルオミの渇いた時間が、飾らないアキの心で湿りを帯びる。
「ここにピアノを置きますか」
「え」
 驚いた黒い瞳に、都会で見上げる明るい夜空の、星の瞬きほどの喜びが見えた。その素直さに、かえってナルオミが息を呑んだ。これまで接したことのないアキの深部に触れた気がした。
「どんなピアノでも取り寄せます」
 ナルオミの言葉にアキの口が、じゃあ、とひらきかける。だがアキは唇を噛んで小さく首を振った。
「……いや、やっぱりいい。いらない」
 繋いだ手に力を込めて、アキは毛布の中に頭を沈めた。ナルオミはなぜとは問わなかった。
「わかりました」
 手の中に握りこんで束になったアキの指を吸って、指と指の間に舌を差し入れる。手首から肘にかけて痕が残るほど口づけてもまだ足りず、汗が滲む腋を舐めて首筋に咬みついた。舌に広がるアキのにおいを確かめながら、互いの両手を縫い合わせて、潮が満ちていくように徐々に狂わせていく。
 どんなに夜を重ねても、壊れそうなほど体を通わせても、アキはいつだって美しく映えた。泣き出してしまいそうな、溢れそうな瞳で見上げられ、ナルオミは背中が燃えるようだった。
 犯しがたく散ることのない花を咲かせる。彼女はいつまでも失われない処女だ。
 隅に置かれた照明の薄明かりを受けて、アキの白い肢体が愉悦に染まる。わずかに濃く映るのは、ナルオミの痕だった。
「アキ」
 名を呼べば、彼女は必ず目を細めた。それが喜びか悦びか、ナルオミにはわからない。だが、彼女がよろこんでくれるなら、満たされてくれるのなら、それだけでナルオミも救われた。
 少年と少女の間をたゆたいながら、アキの指がナルオミの十字架に触れる。
「ナル、オミ」
 爪が傷のやわらかい部分を引っ掻いた。
「僕の、僕だけの十字架だ」
 引き攣れた皮膚をいとしげに眺め、やがてアキは涙を浮かべた。何度も十字架をなぞっては、声を殺して泣いた。
「ごめ……ね、ナルオミ」
「アキ?」
「大好きだから。お前だけだから。それは、変わらないから」
 アキはナルオミに抱きついて体を入れ替え、馬乗りになった。不慣れながら懸命に実らせようとする姿がいじらしく、ナルオミは体を起こして抱きしめた。
 薄っぺらな背中を反らせ、アキはナルオミの腕の中で咲き誇る。普段は冷たいアキの体温が乱れて、ナルオミは忠義を貫いた。
 達しても離れようとしないで、アキはナルオミの首に抱きついた。額を重ねて、鼻先をすり寄せ、アキは触れるだけの口づけをした。それはアキからの初めての口づけだった。
「だからここにいて。もっと、僕を奪って」
 舌先を縒り合わせて、再び未開の花に還る。ナルオミは繋がりを解かずに、深い夜にもぐった。
 ナルオミにとっての「ここ」はアキだ。だが、アキにとっての「ここ」とは、一体どこを指すのか。
 ときおり睫毛を震わせるアキの寝顔を見つめていると、起こしてまで尋ねることはできなかった。
 ナルオミは残っていた仕事を片付けるため、アキの頬にキスを落として部屋を出た。
 静まり返った敷地内をぐるりと偵察してまわり、表に立つ見張りを労って、資料と机のある事務室へ入る。明かりがついていたが人気はなく、ナルオミは安っぽい回転椅子に腰をおろした。
 机に積み重ねた書類や資料の束を一瞥して、ため息をつく。思考がまとまらず、何から片付けるべきなのかがわからなかった。壁際のボードに置かれたウイスキーが目に留まる。ナルオミは締めたばかりのタイを弛めて、椅子から立った。
 蛍光灯の白けた明かりの中にあっても、脳裏にアキの涙がちらついた。なぜと訊けなかった自分を今さら責める。
「浮かない顔だなあ」
 突然、背後から声が上がり、ナルオミはウイスキーに伸ばしかけていた手をとめた。声はサカキのものだった。
 おもむろに振り返ると、ボードの手前に置かれた対のソファに、サカキが寝転がっていた。
「いたのか」
「子守りをしながらは忙しいだろう。手伝ってやろうか」
「遠慮しておく」
 ナルオミはグラスを二つとって、ソファの間にある卓へ置いた。
「久しぶりに巡回してきたが、どこも盛況だな」
「総統の戦略勝ちだ。堅気の客も増えたと聞いている」
 部屋の角にある年代物の冷蔵庫から氷を出し、ウイスキーとともにグラスの横に並べた。ナルオミは自分のグラスにだけ氷を入れてウイスキーを注ぐ。サカキはなんだとこぼして起き上がり、グラスに氷を投げ込んだ。勢いよくウイスキーをついだせいで、飛沫が周りに散った。一応と断って、グラスを合わせる。
「中央会のじじいが来ていた。随分機嫌よく帰ったぜ。総統によろしく言ってな」
「補佐役をいただいた。先代も望んでいた役職だ」
「どんな根回しをしたんだ」
「根回し? 総統の力に決まってる」
 氷に沿ってゆらゆらとウイスキーの表面に波紋ができる。まるで生きているようにも見える。
 サカキは鼻で笑って、煙草に火をつけた。
「しゃあしゃあとよく言う。誰も坊ちゃんの手腕だなんて思ってないぜ。なあ、影の総統さんよ」
 機嫌よくそう口にしたサカキだったが、ナルオミの顔を見上げて呆れたように苦笑した。
「そう睨むなよ」
 まだほとんど灰のない煙草を灰皿で弾いて、首を鳴らす。
「なんだかな。どうもおままごとみたいでな。あんな乳臭い坊やの指示を、ありがたく聞く気にもなれねえ」
「サカキ、口が過ぎる」
「なあナルオミ、いっそあんたが座ったらどうだ、あの椅子に。血こそ繋がっていないが、あんたは一応親父さんの養子なんだろ」
 それは組織内の誰もが知る禁句だった。ナルオミは目をあげてサカキを一瞥した。
「それがどうした」
「あんたにだって立派に総統の資格があるって話さ」
「養子縁組は先代からの慈悲だ。道具にしていいものじゃない。それに必要なのは血筋だ。見た目の系譜に意味はない」
「どうせカイトに言いくるめられたんだろう。あいつぁ、口だけは達者だったからなあ」
「お前ほどじゃないさ」
 それもそうかと、サカキは膝を叩いた。
「俺ぁ、あんたのことは嫌いだが、あんたの能力は買ってるんだ」
「そうか。俺もお前のことは嫌いだが、能力は認めている」
「気が合うねえ。なんならここをぶっ壊して、新しく組織を作ってもいい。そうすりゃ養子縁組を道具にはしないぜ。俺とあんたが組めば、そんじょそこらの組織には負けない、どこの派閥にも屈しない、独立組織が作れる」
 サカキはへらへらと笑っていたが、目の奥はひどく冷めていた。彼は本気だ。ナルオミはサカキから目を逸らさず、彼の続く言葉を待った。サカキは少し思案する素振りを見せて、身を乗り出した。
「ハセさんの動きが怪しい。こないだの襲撃についても、あんまり追及したくない、いや、されたくないみたいだし。実際あの人が狙撃手と絡んでから、なあなあになっちまった。ハセさんがただ抜けるだけならまだしも、あのおっさんは多分それだけじゃ済まない。あとのことを考えて、取り込めなかった人間は生かしておかない。やるなら、あの人が行動を起こす前にどうにかしねえと、無駄死にすることになる。どのみち、ここは長くないぜ」
 グラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干して、サカキはソファから腰をあげた。最後の一口を大きく吸って、煙草を灰皿に押しつける。
 ナルオミはサカキの口から洩れる煙を見上げて、首をかしげた。
「なぜハセベさんにつかない。乳臭い総統につこうとする。そこまで言うからには、お前のところに声はかかってるんだろう」
 問いに、サカキはにやりと笑うだけだった。それが彼の忠誠ということか。
「ああ、そういえば、坊やに伝えといてくれよ。夜は音量に気をつけろってな」
「え」
 ナルオミは思わず間の抜けた声を出した。サカキは頭を掻いて、ため息をつく。
「あのレコード、いい加減聴き飽きてきたからな」
「レコードか。わかった、伝えておく」
「よろしく頼むぜ。離れだからって、何も聞こえないわけじゃないんだからさ」
 部屋から出ていくサカキの背中に、彼の真意を見出すことはできなかった。
 アキが女であることと、アキとナルオミが関係を持っていること、はたしてどちらの露見が厄介か。
 それは、アキの正体が明るみに出ることだ。
 ナルオミはグラスを揺らして、アキの声に似た氷の音を聞いていた。