白と黒のロンド

08.「狂気のための愛と死」(4)

 サカキから忠告を受け、ナルオミはハセベの動向を調べた。確かに不穏の芽はある。だがそれをハセベの芽として摘み取るには、まだ決め手に欠けた。限りなく黒に近いとしか、今のナルオミには言えなかった。
 もしハセベが事を構えるなら、年が明けて補佐役の任を与えられた後になるだろう。先代が望んでいた地位をやっと手に入れることができるのだ。先代へ忠義を尽くしていたハセベなら、必ずそこにこだわるはずだった。補佐役は組織に与えられるものだ。たとえ総統がアキでなくなっても、任が解かれることはない。
 補佐役という肩書きには、アキもこだわっていた。彼女に仕えて最初に訊かれたことが、先代の思い残したことについてだった。
 なぜアキが先代の遺志に固執したのか、その意図は定かではない。だが誰もが、先代の遺志を継ぐアキの心持ちを褒めた。それだけでナルオミには収穫だった。補佐役は必ず勝ち取らねばならない、これからのアキを左右する試練になった。
 そのために多くの時間を費やし、先日ようやく会長を根負けさせた。中央会の会長にとって、アキは孫のような年頃だ。見た目を裏切らない聡明さも武器になった。歳を取ると、若者の輝きに目が眩むらしい。
 だがこの抜擢は、他組織への宣戦布告にも近い。今こそ組織は団結すべきときで、身内でもめている場合ではない。
 ナルオミが各店舗への定時連絡を終えたときには、すでに日付が変わっていた。もう休んでいるかもしれないと思いつつ、報告書を持ってアキの部屋を訪れた。ノックをして、返事を待たずに扉を開ける。執務室にいないことはわかっていた。だが寝室にも彼女の姿はなかった。
 もう一度、時計を見る。針は一時を差していた。
 ナルオミは冷えたベッドに腰かけて、手元の報告書を見るともなく見た。不備がないことをざっと確認して、息をつく。
 腹の底で、渦巻いている感情がある。頭の奥で、浮かび上がる疑問がある。胸の十字架がきりきりと痛んだ。
 この苛立ちは、なんだ。
 五分経ち、十分が経つ。部屋に響く秒針を数える。ナルオミは知らず奥歯を噛みしめていた。
 ひたひたと運命の足音が聞こえる。また失うのか。もう、アキのいない明日など考えられないというのに。今さら失えというのか。繰り返し失い続けていても、慣れることはおろか、傷は深くなっていくばかりだ。
 廊下から聞き知った笑い声が響いた。ハセベの声だ。ナルオミは報告書をベッドに投げ置いて、寝室の入り口に立ち尽くした。
 執務室の扉がひらき、笑顔を浮かべたアキが入ってくる。その背後にはハセベの顔があった。
 二人の笑顔は、佇むナルオミを捉えて消えた。
「では総統、今夜はこれで失礼しますよ」
「ああ、また頼む」
「はい」
 軽く頭を下げたハセベはちらりとナルオミを見遣って、笑みともつかない歪みを口元に浮かべて立ち去った。扉が閉まる重い音で、ナルオミは我に返る。
 アキは厚みのあるコートを脱ぎ、ナルオミを一瞥することなく横をすり抜けようとした。ナルオミはその細い腕を、思わず掴んで引き止めた。
「今までどこへ」
「どこでもいい」
「どこでも? 何かあったらどう――」
「だからハセベがいただろう。何もこの組織にはお前しかいないわけじゃない。お前にはお前の仕事がある」
 アキはナルオミを睨みつけた。ナルオミは彼女の鋭さをゆるくかわす。
「しかし俺は総統付きです」
「僕だって、お前に秘密にしたいことの一つや二つはある。そういう話だよ」
 アキはさらに鋭くナルオミを見上げた。
「お前は縛りつけられたいと言いながら、僕を縛りつけていたいんだろう」
 ナルオミには返す言葉がなかった。
「どけ」
 アキはナルオミから顔を逸らして、絞り出すように言った。ナルオミは素直にさがって、アキを通した。手のひらには彼女の体温がまだ残っている。ぬくもりが悲しかった。
 背を向けたまま、アキは服を脱ぎ始めた。何もかもを脱ぎ捨てて、裸のままレコードの前に立つ。優雅な手つきで針を置き、繰り返される旋律に目を閉じる。
 ナルオミは脱ぎ散らかされた服を拾ってベッドに置き、着ていた上着をアキの肩にかけた。
「風邪をひく」
 アキはかけられた上着の襟に掠めるように触っただけで、前をかきあわせようともしなかった。どこかぼんやりとして、地に足がついていない。
 首の後ろに絡みつくようなヴァイオリンの悲鳴を聴きながら、アキは片手でピアノを弾く真似をした。
「狂気のための愛と死……。本当はどちらが始まりなんだろう」
 いつにも増してアキの声は澄み切っていた。その清涼が、狂気を語る。ナルオミにはそれこそが狂気に思えた。
「僕は思うんだ。愛だから歪むのか、歪むから愛なのか」
 アキは答えを求めているようではなかったし、そもそもナルオミは問いに対する答えを持ち合わせていない。愛を、知らない。
「そちらの報告書に目を通しておいてください」
 一歩さがって頭をさげ、ナルオミは部屋をあとにした。