白と黒のロンド

09.ラストコール

 照り返した太陽より、夜へ侵食する朝靄のほうが、いっそう白い。
 船のない夜の海より、強い日差しに縫いつけられた影のほうが、いっそう黒い。
 白と黒。朝と夜。表と裏。光と影。
 それらはいつだって寄り添いながらも、絶対に染まらない関係にあった。たとえば白のあるところには黒が、黒のあるところには必ず白がある。しかし繋がりの強さとは裏腹に、どこまでも相容れない運命だ。それらは永遠に手を取りあうことのない、背中あわせの存在だった。
 ナルオミは闇を深めていく東の空を眺めて、なぜ夜が更けて朝が訪れることを繰り返すのか考えた。何度越えても越えられない境界で、どうしていつまでもせめぎあうことができるのかと。
 ただ繰り返すしかできないのではない。これは諦めの繰り返しではなく、手探りの繰り返しなのだ。でなければ、その繰り返しはあまりに悲しい。
 背中あわせの二人は、本当はいつか混ざりあう日を待っている。欲しがりあって奪いあったその末に、二つの運命が溶けあう日を待っているのだ。だから、繰り返す。
 だがはじめは互いの喉元に刃を向けるような激しさも、やがて繰り返しの中で輝きを失っていく。
 もし、いつまでも鮮烈に繰り返すことができるなら、繰り返しは繰り返しでなくなるだろうか。繰り返しのひとつひとつが永遠になれるだろうか。
 空には夜が濃く染み出して、闇が深まり始めた。月の輝きは奔放で、見る者の羞恥心を煽る。
 ナルオミは黒く澄み切った空に、白い息を吐き出した。

 中央会補佐役の就任式が、一カ月後に迫っていた。会場の確保、警備の配置、警察への計らい、招待状の配送など、ナルオミに課せられた業務は多く、片付く日が来るのかと疑問に思うほどだった。
 式次第はすべて前例を踏まえる必要がある。組織にとって式の形式は何より重んじられるものだ。違えるわけにはいかない。寝る間を惜しんで、膨大な量の資料に向かい合う。かろうじて食事はとっていたが、それもいつどんなものを食べたか思い出せない有様だった。
 疲労感の頂を何度も通り越すと、どこか吹っ切れた気持ちになって、ナルオミは作業の手を一時とめた。とっくに日付は変わり、屋敷内は静まり返っていた。そばで資料を並べていた若い男に今日はもう休むよう声をかけ、ナルオミはひとり風呂へ向かった。
 狭いユニットバスはすぐに湯気でけむり、壁のタイルは水滴に覆われた。熱いシャワーを頭から浴び、体中にこびりついた疲れの泥を洗い流す。だが流せば流すほど疲れが増し、ナルオミは濡れたタイルに手をついた。
 アキにはもうずっと会っていなかった。遠目には何度も目があっているし、報告のために部屋も訪れている。だが以前のように肌を重ねることは、もうなかった。就任式の準備で忙しいナルオミを気遣うように見せながら、完全に避けられていた。
 不満がないわけではない。だがそれがアキの選ぶ道ならば、仕方がないと思えた。それよりもナルオミが気にしているのは、むしろアキのあのひび割れそうな孤独だ。アキが望み、アキが選んだことであっても、それがすべてアキのためになるとは限らない。アキを傷つけてしまうことは往々にしてある。ナルオミはそれを怖れていた。
 あの夜の、アキの涙を思い出す。
『大好きだから。お前だけだから。それは、変わらないから』
 声を殺して泣きながら、彼女は懸命にナルオミとの繋がりを求めた。たどたどしい腰つきを、ゆかしい恥じらいを、果てない渇望を、ナルオミは今でもはっきりと思い返すことができる。胸に落ちた彼女の汗と涙は、このシャワーよりずっと熱かった。
 雲の上に立つような浮遊感に、シャワーをとめる。壁に手をついたまま、しばらく動けそうになかった。
 白くくもった鏡に自分の姿を見つける。手で表面を撫でると、船の軌跡のように水滴が後を引いた。
『僕の、僕だけの十字架だ』
 胸元の十字架が滲んで、すぐにまたくもった。
 おそらくアキには何か目的がある。それはアキがここにいる理由、アキが男と偽ってまで総統になった理由にも通じるはずだ。
 いくつもの言葉や思考が、とりとめなくナルオミを掠めて過ぎ去っていく。しかしどれも形にはならず、不揃いなまま、一秒前の過去に散らばっていった。答えは、すでにこの破片のなかにあるのだろう。組み合わせれば、アキに近づくことができるのだろう。それでも答えを出すことを、ナルオミは怖れた。
 導き出した答えがアキになってしまうことを、嫌ったのだ。
 自分の中で、自分のイメージでアキを作り出してはいけない。意図を汲むことと、深読みすることは根本的に違う。ましてや、先回りして望みを叶えるなど、自己満足でしかない。傲慢で独りよがりな情交と同じだ。
 アキのためにナルオミができることは、ただひとつ。彼女が望んだことを何があっても必ず叶えるだけだ。たとえそれがナルオミの意に沿わなくとも。
 ぽたぽたと水の落ちる音が気になって、きつく栓を閉める。すっかり冷えた水滴が前髪から垂れ、足の指で弾けた。
 体を拭いて服に手を伸ばすと、そこには見慣れたネックレスがあった。アキの鎖骨でいつも煌めいていたものだ。扉を開けて辺りを窺うが、アキの姿はない。仕方なく服を着る。
 上着にくるんであったホルダーを手に取ると、いつもと重さが違った。見ると、自分の銃ではなかった。弾倉に弾丸が入っているのを確認して、ホルダーに戻す。ナルオミはすぐにアキの部屋へ向かった。
 夕刻から位置を変えた月が、暗い空に光の波紋を描いていた。空がもし大河ならば、月は川面に浮かべられた灯籠だ。
 扉の前に立って、手の中の十字架を見つめる。金属特有の冷たさに、アキの肌を思う。ナルオミは、ノックもせずに扉を開けた。
 執務室の扉を開けると、正面に厚みのある机が据えられている。背後の窓からは白い月明かりが舞い込み、大げさな背もたれの椅子を真っ黒に塗り潰した。
「――では、頼みます」
 そう言ったあと、受話器を置く音がした。ナルオミは後ろ手に扉を閉めて、黒く影になった椅子を見つめた。ぼんやりと、アキには真昼の光より月明かりが似合うように思った。
「待ってたよ、ナルオミ」
 アキの涼やかな声が、体に染み入る。ナルオミは机のそばまで歩み寄り、持っていたネックレスをそっと置いた。
「お呼びで」
 机を挟んで向かい合う。近づいてみると、椅子に包まれるようにして座るアキの眼差しが、はっきりと見えた。月明かりによって色濃くなった闇よりも、ずっと深い黒が脈打っていた。
「ひとつ、答えてほしいことがある」
「何でしょう」
「カイトを殺したのはお前か」
 特に張りつめる様子もなく、アキは淡々と問うた。ナルオミは逃げ場所を探して鼻で笑った。
「まさか。あの時の俺の混乱を知ってるくせに」
「だから訊いている」
 アキは戻ってきたネックレスを首にかけ、椅子から立った。窓際に寄って、月明かりに染まる。
 カイトが死んだあの日も、月が眩しい夜だった。狂ったように明るい月の下で徐々に壊れていくカイトを、ナルオミはずっと見ているだけだった。
「正直、わかりません」
 カイトは死を怖れ、死に迷い、それでも死に惹かれていた。ナルオミは、爛れて崩れていくカイトを引きとめなかった。やがて引き金が引かれる瞬間も、芝居の観客のように外側から眺めるだけだった。
 途絶えていくカイトの灯火を少し寂しく思った。だが助けようとは思わなかった。なぜならそうなることを、ナルオミの死んだ母が、否、カイトに捨てられた女が泣きながら望んだからだ。
『許さないわ、結婚しようって言ったのに。あんな男、死んでしまえばいいのよ!』
 ナルオミの脳裏に血の海がよみがえった。
 暑い夏の午後、腐った魚のような臭いと、生々しい命のぬめり。うるさいほどの蝉の鳴き声と、カイトの清々しいまでに取り繕った悔恨。
『すまないことをした。許してくれ、ナルオミ』
 差し伸べられた大きな手。
『おいで、ナルオミ。彼女のためにできることをさせてくれ』
 そして、嘘。
『まったく面倒な女だったが、体だけはよかったよ。ああ、あと使える息子を残してくれて、感謝している』
 耳の奥底には、まだカイトの笑い声が響いている。怒りも悲しみも、すっかり感じなくなってしまった。だがナルオミの中から、その笑い声が消えることはない。
 アキは視線だけをナルオミへ向けた。
「お前はカイトを憎んでいたはずだ。違うか」
「どうでしょう。もう、忘れました」
 包み隠すところのないナルオミの言葉に、アキは微笑んだ。
「ああ……、そうか。うん、わからないでも、ないよ」
 月明かりの微笑みは冷たく、金属よりもずっと冷たく、寒い日に思い切り息を吸った胸のように、しびれた。
「ねえ、ナルオミ。僕がどうして総統になったか、わかる?」
「いいえ」
「ここを、先代が守り続けたこの組織を潰すためだよ」
 底なしの黒い目を細めて、アキは歌うように囁いた。ナルオミは机を回り込んで、アキのそばへ寄り添った。
「そのために、男装を?」
「うん。じゃないと、総統にはなれないだろう」
「そこまでして、なぜ」
「たぶん、憎かったから」
 すぐそばで見下ろす笑顔は弱々しく、憎しみを語るには優しすぎた。ナルオミは逡巡の指先でアキの髪を撫でた。アキは眉を寄せて、顔を逸らした。
「憎かった。すごくすごく。本当は僕が殺したいくらい憎かったんだ。だけどあいつはあっけなく死んで、僕にはここしかなくなった」
 憎しみも悲しみも寂しさも、どれも溶けあって、絡まって、境目が見えない。感情がいくつも折り重なって、アキは顔を歪めるしかできなかった。
 髪を撫でるナルオミの手に、アキの白く細い指が触れた。
「ずっと、あいつの大切なものを壊す日を夢見てきたのに、そのためだけに何もかも擲って、ここに、この憎しみに留まり続けたのに、やっとこの時がきたのに……」
 アキはナルオミの手を取って、自らの冷たい頬に寄せる。ナルオミはアキにされるまま、アキの頬を親指で撫でた。肌のこすれる音が内側の深いところまで伝わる。
 アキが一歩、ナルオミに近づいた。
「お前があっけなく僕を解放してくれた」
 冷たい微笑みに、情の炎が灯る。アキはナルオミの十字架に触れた。
「卑屈で完璧なやり方だよ。お前は体の隅々まで従順で、なのに眼差しだけがどこまでも高圧的で。お前は僕に仕えていたんじゃない。僕の片腕になることで、いつか僕になる日を待っていたんだ。違うか」
「あなたがそう言うなら」
 それがナルオミの心中とは異なっても、アキがそう思うならそれがよかった。
「ナルオミ、僕をお前の繰り返しの中に連れて行って」
 懇願とともに、アキはナルオミに抱きついた。寒さに震えるように、上着の中に腕を回す。一瞬、かたんと音がして、ナルオミはとっさにアキを突き放した。だがすでに、肩にあるはずの重みはなかった。
「本当はお前に殺されたかった」
 あるはずの重みは、アキの手の中にあった。
「俺に、あなたを失えと」
 ナルオミは銃を持ったアキを見て、今さら銃の本当の持ち主に思い至った。あれは、ハセベの愛用していた銃だ。
 アキは銃をこめかみに押し当てて、目を細めた。
「僕はこの組織を潰す。機は熟した。あとはお前次第だ」
 ナルオミの頭に散らばっていた言葉や思考が、アキの眼差しをもってようやくひとつの絵になっていく。
 ハセベに向けられた疑惑も、ナルオミが重用されたのちに遠ざけられたのも、強引に補佐役という名誉をもぎ取ったのも、すべて壊すための準備だった。
 もとは完璧だったアキの計画を見抜いて、ナルオミは息をついた。
「こちらから仕掛けるわりには、あまりいい策とは言えませんね」
「ナルオミ、僕はお前を――」
「わかっています。すべては言わないでください」
 ナルオミが総統殺しの裏切り者になるはずだったことなど、明らかだ。できればそれを貫いてほしかったと思う。そうすればアキの憎しみは昇華し、ナルオミもまた、この繰り返すばかりの運命に終止符を打つことができたのだ。だがそうしきれないアキの至らなさが、何よりナルオミを惹きつけた。
 至らない。だがそれが人の極みでもあった。
「この窮地を、お前は切り抜けられるか」
「それがあなたの命令なら」
「だったら切り抜けてみせろ」
 その一言を、待っていた。
「かならず」
 いつしか月明かりは消えて、部屋は一瞬の深淵に落ちていた。
「越えさせない。お前はずっと僕を越えられない。僕は死んで、お前の永遠の支配者になる。ナルオミ、僕以外の誰にも仕えるな。これは命令だ」
「はい」
 不思議と気持ちは落ち着いていた。カイトを失ったときにはなかった、確かにここに在るという安心感だ。
 ここに、白と黒が溶けあう。境界が滲んで、曖昧になって、それでも互いの色を忘れないで尊びあって。
 繋がっている。たとえ彼女の命が絶たれても、それは表面的な断絶に過ぎない。
 窓に白く光が浮き上がる。夜は沸点をこえて、次第に薄く霞んでいく。そして東の空から、今日という新しい白が黒い昨日に染み出していく。
 離れないで、途切れないで、繋がっていく。
 その狭間に、一発の銃声が響いた。
 小さな体が命の軸を失って、絨毯の上に倒れた。溢れだすのは舐めあった傷の欠片だ。肌はいつものように冷たく、アキの生死の境目がわからなくなる。清新な光が窓から部屋に差し込んで、アキが白の中に溶けていく。
「アキ」
 消えてしまう前に、ナルオミはアキの胸元に口づけをして、唇に触れた十字架を引き千切った。指先からこぼれた銃を拾い上げて、立ち上がる。ハセベは今夜、当直室にひとりでいるはずだ。
 結露でゆらめく窓に、空いっぱいの光が弾ける。
 また、白い朝がきた。

―おわり―