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 改札を出て、バスロータリーへ向かう。八系統の乗り口には、制服姿の少年少女で溢れ返っていた。保護者が同伴している者もいた。あるのかないのかわからない列に並ぶ。
 耳には、去年好きだった曲が聞こえる。前に並ぶ女が振り返った。音漏れしてるんだろうな。女は上から下まで服を眺めて、妙な笑いを浮かべて前を向いた。ブランドのジーンズ、カーキのジャケット、白地のシャツ、去年買ったグレーのパーカ、色褪せたキャップ。明らかにここでは異質の存在だ。女は横にいた友人と喋り始める。口の動きしかわからない。
 変なの、どうして制服じゃないの、着られる機会もうないんだし、思い出に着ればいいのに。
 淡いピンクの唇に言葉を重ねる。俯いてキャップのつばで顔を隠し、苛立って笑う。やっぱり、何もないよ、この先には。
 バスのステップの銀色がかっこいい。奥に詰めることも出来たが、そこに陣取る。ブザーは無遠慮に音楽を乱した。段差を上がって、扉が閉まる。すぐにステップに降りて、窓から外を覗く。アナウンスの女の声があまりにも無感動で、欲情した。バスの窓は低い。首を傾げなければ、アスファルトしか見えない。各停しかとまらないような小さな駅前の商店街は無声映画のように流れていく。買い物袋を自転車のハンドルに下げて茶髪の主婦が坂を立ち漕ぎする。ランドセルに物差しを突き立てて小学生が走っていく。老婆が手押し車を頼りに亀のように歩く。サラリーマンが手帳を片手に汗を拭く。
 なんだこれ。いてもいなくても同じだよ、君たち。世界は何も変わりはしない。無意味、むしろ害悪だ。
 この曲、聞き飽きた。
 曲を変える間、雑音は無法状態になる。混ざりたくない。この音に掻き乱されたくない。同じ場所にいたくないんだ。
 揺れると、誰かの服が手の甲にこすれる。気持ち悪かった。これがこれから三年間も続くかと思うと、吐き気がした。
 バスが終点に着く。バス停には、晴れやかなばかりの制服の集団が、行儀よく待っていた。親鳥の餌を待つ雛鳥のように無防備で無知で無秩序だ。
 バス停から坂を見上げる。正門までの坂がいちばんきつい。まだ三月だというのに、陽射しは容赦なく、背中はじっとりと汗ばんだ。爽快などとは程遠い不快だ。自然と、オフ白の革靴が目に入った。これも去年買った。修学旅行先で、仲間と値切って買った。
 戻りたい。こんな坂、のぼりたくない。
 坂の上から吹き降ろす風は、熱くもなく、冷たくもなく、ただ目の粗い布のように乾いていた。両耳へ流れる音は、静かに夜を歌う。目を閉じると、月明かりに照らされた帰り道が浮かんだ。
 不躾な歓喜の声に目を開ける。校舎の壁に大きな紙が貼り付けられていた。イエスキリストを見るように、胸の前で手を組んで見上げる女、彼の罪に湧き立ち腕を振り上げる男。滑稽に見えるのはいつも、必死になっている奴らばかりだ。
 ベルト通しに下げた小さな鞄から、折りたたんだ紙を取り出す。開いて、証明写真と目が合う。笑ってやがる。
 受験番号、二五八。
 数字で管理される気分は、悪くなかった。紙とキリストを照らし合わせる。ちょうど胸の辺りに、あった。
 二五七はなかった。ブレザーに七本の皺があった背中を思い出す。見渡したが、それらしい姿はない。もし居たとしても、わからない。居たなら交換したのに。
 気付くと人はまばらになっていた。玄関脇の書類交付所で、受験票を渡す。教室から引っ張ってきた机に、封筒が山積みになっていた。ジャージを着た男性教師が、受験票を沿えて封筒を手渡す。口がおめでとうと動いたが、声は聞こえなかった。
 封筒は大きく、とても腰から下げた鞄に入る大きさではなかった。仕方なく小脇に抱えて、受験票をジーンズに押し込んだ。歩くたびに、無作為に折れた紙の角が、脚を刺した。
 坂は自分だけのものだった。振り返っても、誰も来ない。
 道に沿って植えられた木は、桜だ。蕾はまだ固く、咲くには早い。ずっと、下のバス停まで続いている。咲けば、きっときれいだろう。春の淡い空に浮かぶ、桜の消えそうな色彩は、実は祝福の場面に似合わない。桜は死地に向かう境遇にこそ、最も美しく映えた。立ち消えてしまう華やかさが相応しいのだ。
 僕たちは、ここで、一体どれだけのものを奪われるのだろう。
 時刻表を見ると、次のバスは四十分後だった。方角を確かめて、駅を目指して歩き出す。
 住宅街の中、下り坂が延々続いていた。歩道の黒いアスファルトは煌めいて、封筒を持つ掌には汗が滲んだ。オレンジ色の派手やかな封筒は、その部分だけ毛羽立ってよれた。
 耳に注がれていた音楽が千切れるようにとまった。見ると、もう充電がなかった。イヤホンを外さずに歩く。風音と血潮がイヤホン越しに共鳴する。革靴の地面を蹴り上げる音が、ドラムのように響く。
 今世界が終わっても、惜しいものなど何もない。
 全て、昨日に置いてきた。
 昂ぶりをかき鳴らす。エンジン音は歓声だ。興奮に途切れる息を張り上げる。
 爪先がひび割れた舗装に躓いた。
 とっさに手をついて転がる。掌にはアスファルトの粉が光り、血が滲んだ。振り返ると、黒いアスファルトが盛り上がっていた。落ちた封筒を拾って、亀裂を覗く。そこには世界の深淵があるかもしれない。新しい世界への扉が開くかもしれない。ここが偽りの世界だったと、教えてくれる賢者が棲むかもしれない。
 隙間からは、溢れるように、木の根が今にも起き上がろうとしていた。

―おわり―