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 兄の死からひと月が経った。
 生家の最寄駅に降り立つと、並木の桜はなかば散りかけて閑散としていた。薄曇りの空の下、ぼくは祭りの後のような寂寥感に襲われる。なにもかもが自分を置いて過ぎていってしまう孤独と、やがて自分はその時間の流れのなかに帰っていくのだろうという予感が汽水のように混在した。
 死の意味を理解できないほど幼いころに事故で両親を喪った。ひとまわり以上年の離れた兄は、中学を卒業すると昼も夜もなく働いて家計を支えた。親代わり、いや親同然であった。そんな状況でも、学歴は必要だからと大学まで行かせてもらった。家族内奨学金だ、卒業したら返してもらうからなと笑っていた兄が鮮明に記憶に残っている。仕事の都合で入学式には行けなかったからと、兄は卒業式の半年も前からスーツを新調して楽しみにしていた。だがそのスーツに兄が袖を通すことはなかった。
 葬儀では喪主の義姉を支えた。兄夫婦は結婚して日が浅い。弟として、親族の応対を率先して行った。供花の取りまとめや挨拶など雑事は多い。通夜でも式でも悲しみを感じる余裕はなかった。そのつけは、剥き出しの喪失感となって後から回ってきた。兄の死が悪い夢のように思えたり、はじめから兄などいなかったような錯覚にも陥った。空しさが日に日に重さを増して錨のように心の底に沈み込み、ときおり夢と現のきわが曖昧になった。
 生家を訪れるのは葬儀以来となった。忙しさを理由に先延ばしにしていたことは否めない。弟の自分ですら持て余す悲しみに、はたしてねえさんはどう向き合っているのか。それを知るのが怖かった。
 呼び鈴に応答はない。玄関に鍵がかかっていたので裏手の庭へまわると、遅咲きの八重桜が重たげに花を広げていた。その真下に薄紅を撫でる義姉、麻子さんの姿があった。
 ねえさんと呼ぼうとした声が喉の奥で潰れる。この家で初めて彼女に会った日のことが目の前の景色に重なって見えた。あの日、鳥のいたずらでほどけないまま落ちた花を、水を張った浅い皿に浮かべた。ねえさんは、ふわふわと漂う花の舵を優しく切る。ぼくはその指先をずっと見ていた。音もなく水の上を滑る花は遊園地のコーヒーカップのようだった。けたたましい鵯の鳴き声が、ざわざわとした花吹雪のなかに響いていた。
 視線に気づいたねえさんが振り返る。
「りっちゃん、おかえり」
 屈託のない笑みを向けられては、戸惑う余地もない。ぼくはねえさんの笑みを澱みなく真似た。
「ただいま、ねえさん」

 仏壇の手前に小さな白木の台がある。兄が好きだったビールと近所の和菓子屋の饅頭とともに骨壺が置かれていた。その隣に、持ってきた果物を供えて香を立て、手を合わせる。骨壺はつやつやとして骨を想像させない。そっと蓋を開けると灰色の影がのぞく。浜辺に打ち上げられた貝殻や砕けた流木のようだった。
 遺影と骨壺を交互に見やる。それらはたしかに兄の笑顔で兄の骨であるにもかかわらず、どれももはや兄ではなく、どこにも兄の面影は見いだせなかった。それよりも仏間の縁側や居間のソファにごろりと転がる兄の背中がいまにも見えて、律おかえりと起き上がりそうだった。鴨居にかかるジャケット、電話台の横に無造作に置かれた車の鍵、食卓の湯呑み、愛読の雑誌。そこかしこに兄の息遣いが感じられる。
 本当に兄は死んだのか。ここにいるとわからなくなる。
「お茶入ったよ」
 盆に載せてきた湯呑みを置いて、ねえさんは膝を抱えて座り込んだ。
 庭に面した仏間からは八重桜がよく見える。
「どう、社会人一年目は」
「想像以上にきついかな。最初は給料日が遠いし」
「見た感じは元気そうだけど、ちゃんと食べてる?」
「まあまあ。寮にいたときのようにはいかないけど」
「うちに食べに来たらいいのに」
 一人分増えるくらい手間はおなじだと言う。
「まさか。いつまでも甘えるわけにはいかないよ」
 そつなく返事をしながら、変わりないねえさんの様子に安堵したような拍子抜けしたような気持ちになる。
「ねえさんこそ、元気みたいでよかった」
 花びらが風に吹かれて舞い込んでくる。薄紅の破片はしっとりとして、つまみ取ると指の腹に張りついた。やわらかく、春のインクを垂らしたようなあたたかみのある色をしているが、見た目に反して薄荷飴のように冷たい。
 ねえさんは障子にもたれかかりながら目を伏せて微笑んだ。
「わたし、元気そうに見える?」
 あまりにも静かな問いかけが魚の小骨のように引っ掻いていく。思わず黙り込んでしまいそうになり、ごまかすように声に出して笑った。
「自分で元気そうってなんだよ」
「保くんと約束したの、離れ離れになってもちゃんとそれから先の日々を歩いていくって」
「兄貴は心配だったんだと思うよ、ねえさんのことが」
「りっちゃんのこともね」
 すかさず付け足し、ねえさんはいたずらっぽく笑って歯を見せた。それがあまりにも演技じみていて次はもう笑い飛ばすことができない。
 手のなかに軽く握っていた花びらが風に掠め取られていった。その行方は曇り空に重なってすぐに追えなくなる。
 意識のほんの隅っこで、花が散っている。房からこぼれた途端、花びらは灰になって崩れていく。降り積もっていく灰の底に何があるのか、ぼくは薄々感じていた。
 いまならば目を閉ざして、なかったことにできるだろうか。

 柱時計が五時を告げた。
 二階の勉強部屋に押し込まれた荷物を整理していたら、いつのまにか部屋が薄暗くなっていたことに気づいて顔を上げた。壁や天井が夕日に染まっている。
 ここへ帰れば悲しみは増すばかりと思っていた。しかし兄のにおいや思い出が濃く染みついた物をひとつひとつ片づけていると、むしろ過敏になっていた傷口は癒されていった。乱暴に積み上げられていた感情があるべき場所に収められていく。心中は駅に降り立ったときよりずっと穏やかに凪いでいた。兄のいない日々が日常になることを、五感が受け入れはじめていた。きっと葬儀の直後では無理だっただろう。このひと月は無駄ではなかった。
 ならば、ねえさんは整理をつけたのだろうか。ふと考えると同時に、居間や仏間に残された兄の手垢を思い返した。たまらず夕日を見やる。錆びついたような赤い光は毒々しく、眩しさより痛みが眼に突き刺さった。
 階下から夕飯の香りが漂ってくる。作業の手をとめて下へ降りた。
「なにか手伝うことある?」
 台所に顔を出す。ねえさんは背中を向けたまま、じゃあ配膳をお願いと言った。一度手を洗いに離れて、戻ると食器棚から茶碗や箸を出して並べた。ガスコンロの脇には焼き網が用意されている。
「今夜は魚?」
「そう。お皿は前に保くんが買ってきてくれたの出してくれる」
「え」
「もう忘れたの、ついこのあいだのこと……」
 ねえさんはそこまで言ったところで持っていた包丁を取り落とした。さいわい足の上には落ちず、怪我はなかった。そのままその場に座り込んでしまう。ぼくは包丁を安全な場所によけて隣にしゃがんだ。
「ごめん、わたし……」
「気にしなくていいよ。ほら親が子どもの名前をあべこべに呼ぶとか、そういうことでしょ。だから謝らないで。それより、ねえさんこそ無理しないほうがいい。きつくなるばっかりだよ」
 ねえさんはぼくの言葉に大きく首を振る。
「ちがう、ちがうの」
 細い指がシャツを掴んでくる。
「りっちゃんと保くんって見た目も性格も全然似てないのに、ふとしたときの言葉遣いとか、眼差しとか、佇まいとか……、そういうのが生き写しみたいにそっくりなことがあって……」
 うずくまって丸くなった背中を、ぼくはただ眺めるしかできない。ここに兄がいたなら、ねえさんの悲しみも苦しみも寂しさもすべて取り除いてあげられるのにと、その不在が恨めしい。
 泣いていると思わせる震えが、ねえさんの体を包んでいた。
「保くんがいるときは、そういうところを見つけるのが楽しかったんだけど……、だけど、いまは……」
 言葉の続きが知りたかった。けれどもねえさんの口からは聞きたくなかった。
 シャツを掴まれながら、生地を通り越して肌を、さらには深く食い込んで心臓をきつく掴まれているようだった。それはぼくが扼した、かつての自分の心臓だ。
 春を燃して生まれた灰の底から埋み火のように熱を発している。触れれば火傷してしまいそうに熱い。熱くて苦しくて、目を逸らすことはとてもできそうにない。そうしていま、ひとつ大きく脈を打った。
 ねえさんは声を殺して静かに泣いていた。いつかの、水に浮かべた花のようだった。ぼくもまたおなじように水面を漂っているのだろうか。ねえさんの苦しみが自分のことのように感じられた。
 死んだと思っていた、死体のような感情に耳を傾ける。どくん、どくんと音がする。振り返るとテーブルのそばに置かれた写真立てから兄がこちらを見つめていた。ねえさんと腕を組み、ぼくの肩を抱いて笑っている。ねえさんも笑っている。ぼくは……、ぼくはどんな顔をしていただろう。
 照明が反射して、自分の顔だけが見えない。ぼくは積もった灰に息を吹きかけるように、ねえさんの冷たい指を握りしめた。

―おわり―