剣先には赤や緑の体液がへばりつき、月明かりに陰影をもって浮かび上がっていた。
彼の神経は研ぎ澄まされていた。隙間から黒い獣が飛び出してきて、彼はとっさにそれを斬り捨てた。白い閃光が迸り、つかのま視力を奪われる。腕には肉の感触が響く。
獣の気配はようやく消えた。彼は長身を折りたたんでしゃがみこむと、事切れた獣の皮で剣の汚れを拭き取る。振り返ると、彼の歩んできた道には屍が累々と積み上げられていた。
彼は乾いた血色の目を細めて、家路を急いだ。
静かな部屋に扉を開く音が響く。差し込む月光が、冷たい眼差しで部屋を濡らしている。彼は腰に下げていた剣を外して、窓辺の寝台へ寄った。そこには金髪の美しい少女が、体を丸くして眠っていた。
「ただいま、ミイ」
彼はそう言って微笑むと、少女にそっと口付けた。
瞼の裏まで焼かれるような強い日差しに、少女は目を覚ました。指に絡みつくものを感じて横を向くと、少女の師匠にあたる男が寝息を立てていた。絡みついていたのは、彼の大きな指だった。師の寝顔は幼く、その愛らしさに少女は胸を躍らせた。
「師匠、朝だよ。起きて」
半身を起こして男の肩を揺するが、彼は構わず眠り続ける。指をほどこうとしたら強く握り返されたので、少女は仕方なく横たわり彼に寄り添った。
「また、たくさん斬ってきたの?」
少女は海のように真っ青な瞳で、彼の顔を覗き込む。反応は一切ない。少女はさすがに腹を立てて、彼の乾いた唇を犬のように舐めた。師は小さく唸って顔を背けた。赤黒い瞳がうっすらと覗く。
「ミイ、早いな」
「遅いのは師匠だよ」
ミイは彼の体の上に寝そべって、じっと彼を睨みつける。男は参ったというように両手を上げた。
「好物のスープを作ってやるから、許してくれ」
「ほんとにっ? 師匠大好きよ」
少女は飛び上がって喜び、彼が起きるのをさらに急かした。渋々といった面持ちで、ようやく彼は寝台から降りる。
見上げる大きな背中には、たくさんの傷跡がある。新しいもの古いもの。大きなもの小さなもの。どれもこれも痛々しくて目を背けたくなる。けれども彼女は魅せられるように見入っていた。その傷の一つ一つまでを含めて初めて彼の全てが成り立つのだと思うと、痛みで切なくなると同時にいとおしくて堪らなくなる。
全ての傷を私があげる。
そして、全ての傷を私が癒してあげる。
小さな胸が、溢れるように高鳴った。
衝動的に、少女は言葉を抑えられなくなる。
「師匠、また……」
「気にするな。お前を守るためだ」
彼は少女が濁した言葉を汲み取って返す。空気を介して肌に触れる彼女の鼓動がか弱くて、彼は放たれそうになる気持ちを必死で殺す。
「怪我とか、してないよね」
少女の喉に不安が絡まり、漏れるような擦音がした。
寝台の上に座って、少女は上目遣いに彼を窺う。額を軽く小突かれた。
「俺を誰だと思ってるんだ」
そう言って笑った師は、少女の青い瞳にとても儚げに映った。だから少女はとびきりの笑顔を彼に捧ぐ。
「大魔法師、ユアン・リンブルよ」
ミイの目の前には萎れた花が一輪置かれていた。彼女は眉間に皺を寄せて、その小花に手を翳している。
机の反対側では、ユアンが煙草をくゆらせ様子を見ていた。
「主よ、我が名において、この者の傷を癒したまえ。生命漲る光を我に与えん」
鈴のような声で唱えると、少女の手にみるみる光が集まり始めた。白や黄色の濃淡を帯び、光はさらに色調を深めていく。
「再び、輝かん」
光は一気に花へと流れ込む。神々しく満たされていく花は、茎の端から花びらの突端まで、輝きを湛える。
ユアンがため息をついて煙を吐いた。
「わっ!」
ミイは悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちた。それでもすぐに起き上がってくると、机の端から花を覗き込む。
花は無残に枯れていた。
「またやっちゃった」
「何度言えばわかる。物事には加減ってものがあるんだ。それをしっかりわきまえろ。花一輪にそんなにも魔力が必要になるはずもないだろう」
今までに何度もされた指摘を受け、ミイは目に明らかなほど落ち込んだ。
「だって」
本当は花なんかに治癒法を使いたくない。いくら練習だとわかっていても、本番を想像して術を行使してしまう。
だがそれを彼に言うわけにはいかなかった。拒否されるのが怖かったのだ。自分の存在意義を見失ってしまう。
彼に救われた命だから、彼のために使いたい。
ユアンは黒く翳った赤い瞳でミイを貫く。
「過ぎたるは及ばざるがごとしだ。調整のできないお前は半人前以下だ」
どんなに力があっても。
ユアンは言葉を呑み込んだ。
「そこまで言わなくても……」
ミイは机上の花を両手で掬い、師匠の前に差し出した。
「ちゃんと逝かせてあげて」
淡く紅をひいた唇が、儚く揺らぐ。ユアンはミイの痛みを嗅ぎ取り、何も言わずに手を翳した。花は褐色に褪せ、焼き菓子のように崩れて消えた。
「私も、師匠みたいに優しくなりたい」
その言葉に、ユアンは刹那の夢を見た。
二人が暮らすようになって、数え切れないほどの年月が過ぎた。幼子だったミイの体は、今ではもう大人の女と変わらない。
成り行きで魔法を教えることにはなったが、彼女がなぜ治癒法に拘るのか、ユアンには理解できなかった。
彼女ほどの力の持ち主なら、どんな術でも操れるようになるだろう。それが師としての率直な感想だった。誰もが修得できるような治癒法では、彼女には役不足なのだ。
いつかは、俺を救ってくれるのだろうか。
ユアンは何度も夢を見る。それが二人にとって破滅的なものであっても、ただの彼のエゴであっても。
彼女を一人ぼっちにしてしまうことになっても。
しかし。今は、まだ。
その気持ちだけで、彼は己の夢を食い散らす。捌け口のように、寄せる獣に殺生を繰り返す。泣き叫ぶように、彼女を抱く。
全ての根源は禁忌の底にあった。
『ユアン、お願い。逝かせてちょうだい』
過去の残響が彼を惑わせる。
ユアンは己から目を逸らすように、禍々しい瞳を閉じた。
日が暮れ始めると、ユアンはミイを残して出かけていく。小屋には強力な結界が張り巡らされており、ミイ一人では外出できないようになっている。もちろん、外から何者かが侵入することもできない。自由に行き来ができるのは、ユアンだけだった。
ミイは師の背中を見送ると、夕焼けに赤く染まった部屋を見回す。二人でいれば狭い部屋も、この時だけは凍えるほどに広い。少女は海原の瞳を伏せて、とぼとぼ歩き回る。
『半人前以下だ』
師の辛辣な言葉を思い出し、ミイは唇を噛む。
「私だって」
彼を癒せる魔法を。
彼女は本棚の前に立つと、手当たり次第に魔法書を読み漁る。今まで習得した魔法は全て、師から直に習っていた。しかしそれでは、いつまで経っても師に認めてもらうことはできなかった。ミイは彼を驚かせたい一心で、難解な専門書に目を通す。
辺りが闇に包まれても、ミイは諦めようとはしなかった。ランプに火を灯して、目的の魔法を探す。炎の光が彼女の手元を黄色く照らし、月の光が彼女の頬を青く染める。
ミイは本を繰る手を止めた。
「あった……」
それが二人の最後の夜になった。
ユアンは体の奥にしこりを感じながら、毎夜のように剣を振るい、魔法を発動させていた。歪みが息を潜めている。
ついに終わるのか。永劫の命も、ようやく絶えるのか。
彼は逸るように、術を放つ。ユアンの血の匂いに魅せられた獣たちは、警戒心すらも脱ぎ捨てて本能を剥き出しに襲い掛かってくる。
我も永劫を手に入れんがため。
野望は強大な力の前に無残にも散りゆく。
血飛沫が舞い、生命は肉塊と化す。その中心ではユアンが神のように振舞う。断罪は全て自分の腕に委ねられている。瞳に潜む血色が輝きを増す。まるで悪魔に乗っ取られた神のようだ。
「くれてやるというのに」
終わらぬ命など、すでに生命ではない。
ユアンの脳裏に、少女の白く細い四肢が浮かぶ。握れば消えてしまうような儚い存在だが、そこには生命が漲っていた。
彼女を守るためなら。
獣の鳴き声が四方からあがる。
辺りは異様なほどの殺気に包まれる。
神を捨て、鬼にも夜叉にもなろう。
彼は剣を握る手に力を込めた。途端に、内腑から体液がせり上がってくる。
『ユアン、お願い』
背中に鋭い痛みを感じた。ユアンは顔を歪めて血を吐いた。
「くそっ……!」
糸引く血を剣先に吹きかけ、彼は呪文を唱えた。
『私も、師匠みたいに優しくなりたい』
お前は今のままでいいんだ。
「失せろ、卑しい者どもめ」
解放された力の前に、獣は木っ端微塵に吹き飛んだ。
ユアンの剣はその衝撃に砕かれた。
力が暴走している。
ひずみは速度を上げて、彼の体を蝕んでいた。擦り切れた生命が、行き場がないと悲鳴を上げる。
「ミイ……」
見上げると、月が嘲笑した。
少女の期待は風船のようにすぐにしぼんだ。ようやく見つけた魔法だったが、詳細の書かれた箇所が人為的に破られていたのだ。切り目を見ると、かなり古かった。
それでも、その術が使えないわけではない。呪文そのものは難を逃れて残っていたし、説明文も読めるほどにはあった。ミイはその言葉を何度も頭の中で繰り返す。声に出して言いたかったが、魔力を察知されて師匠に見つかりでもすれば、驚かせるどころか怒られてしまう。
そして果たしてこの魔法が本物なのかどうかもわからない。もし戯れの魔法ならば、術返しを受けることもある。使用するには慎重さを要した。
夜が俄かに騒がしくなる。空気が澱み、ランプの火がしぼむ。
扉が大きな音を立てて開いた。ユアンが帰ってきた。
ミイは花が咲いたように顔を綻ばせ、一つしかない扉を振り返る。
「師匠、お帰りなさい」
飛び跳ねるように師のもとまで駆け寄り、抱きついた。
「ああ。まだ起きていたのか」
ユアンは額に浮いた汗を知られまいと、慣れない笑みを作る。それが逆に、ミイを不審に思わせた。背中に回した手に嫌な感触を覚えて、少女は整った眉を寄せる。
腕を解いて手のひらを見ると、それは薄明かりの中に黒く照り映えた。纏わりつく粘着質な触感とともに、血の生臭さが少女の小さな体を包んだ。とっさに息を吸うような悲鳴を上げた。
「すごい、血……」
ミイは乾いた唇を何度も舐めて、掌の血糊に慄く。突然、強く抱きすくめられた。上から師の苦しげな息遣いがする。
「早く、手当てしないと!」
「いや、いい」
「でも師匠」
そう言いながら、ミイは身動き一つできない状況下にあった。さきほどの呪文を頭の中で反芻する。言葉はユアンの唇で塞がれた。
隙間から微かな声が漏れる。ミイは戸惑いを隠せないまま、ユアンの動きに身を任せた。彼の艶やかな黒髪を両手で掴み、必死になって応えた。涙が零れた。
そのままの状態で抱え上げられ、寝台まで運ばれる。溢れる涙に果てはない。ミイは声も上げずに泣いた。次第にそれも鳴き声に変わる。
こすれる肌に彼の熱を感じ、名を呼ぶ声から痛みが伝染する。切れ切れに聞こえるユアンのうめき声に、ミイは彼を強く掻き抱いた。
「ミイ、すまない」
ユアンは苦痛と悦楽の狭間をたゆたいながら、少女の美しさに繋ぎとめられる。
永遠を求めるときほど、短い瞬間はなかった。
彼の目はすでに霞み、月明かりに浮かぶミイの体さえ輪郭を失って見えた。目を閉じると、記憶の中の彼女が鮮明に映る。彼の頬に春風のような笑顔が舞い降りた。
汗を介して彼女に伝わってくる師の存在は、ゆっくりとだが確かにひずみ始めていた。
愛しさが消える。
ミイの中にある唯一の大切なものが、いま目の前で消え行こうとしている。
彼が薄まっていく悲しさは激しさを生み、また穏やかな風も連れてきた。繋がった部位に快楽の余裕はない。
「師匠、師匠」
もがれそうな心でミイは彼を撫でる。ユアンは動きをとめて、少女の肩に顔を押し付けた。
「ミイ、結界の抜け方を教えてやる。逃げろ」
「え」
胸に響く声はひどく掠れていて、少女の気持ちを頑ななものにする。ミイは必死に首を振る。膝が震えた。死の薫りが背筋を這う。
「お前を守りたいんだ」
「私、守られてるよ。ここに来たときからずっと、師匠に」
「これが最後。次はないんだ」
言い終えるとともに、ユアンは激しく咳き込んだ。ミイの肩に生温かい液体が流れる。そのときミイは理解した。
神を赦さなければ、と。
大切なのは、ユアンの存在だけだった。ミイにとって自分がどうなろうとも、ましてや世界がどうなろうとも知ったことではなかった。
ユアンは己に課せられた使命に逆らえず、ミイの腹に爪を立てる。少女から彼の顔は窺えなかったが、苦痛と苦悩にまみれた唇は官能を誘った。
「いいよ、師匠。私が助けてあげる」
腹に食い込もうとする彼の手を上からそっと包み込み、ミイは静かに目を閉じた。
ユアンの視界の隅に、一冊の魔法書が映る。彼は数百年前の自分を思い出した。目印に残した名前が蘇る。
『神殺し』
予感を得て、ユアンが軋む体を起こす。
「やめろ、ミイ……」
「師匠が私を守りたいのと同じように、私だって」
「お前が背負うことはないんだ」
少女の口を押さえようとユアンは手を伸ばすが、そのそばから体が腐り始める。ミイの瞳は青く澄んで、慈しむように師を見つめる。ユアンは闇を切り裂くような悲鳴を上げた。
ミイはおもむろに口を開く。
「主よ、その役目負いし日を捨て、自由にならん」
二人の体が淡い光に包まれる。ミイは恍惚として天を仰いだ。
「汝にかわり、我、主にならん」
光の中で、ユアンが一筋の涙を落とした。揺らぐ瞳は闇を映して黒く染まる。声にならない声が少女の体に響く。彼の涙が少女の頬を濡らした。
麗らかな光芒が失せ、傷ひとつないユアンの体がミイの上に崩れ落ちた。
「きれいな体になったよ、師匠」
ミイは最後の涙を流す。ユアンは微動だにしない。肩口に残るぬめりが、彼の生を証明する。まだ温かい体を、腕いっぱい伸ばして抱きしめた。
ああ、消えていく。
しかし彼女に寂しさはなく、満たされていた。
「私も優しくなれたかな」
呼びかける相手から返事はない。それでも彼女は微笑んで鼻先を彼に押し付けた。彼の匂いがした。
ミイ、ミイと、彼の声が聞こえる。爪先に彼の指を感じる。体の奥に彼の生命が蘇る。
頬を撫でる光に、ミイは瞼を上げた。
四角い窓から覗く空は、太陽の侵食を受け濃淡を描く。昇る山際は迫る力を許し、浅く光る。もろく境界線が浮かび上がる。春霞のような淡い紫が染み渡った。
少女の瞳が空を映して揺らめいた。
―おわり―