夜とダイヤモンド

「ねえ」
 裏口を掃除していると、すぐ近くから呼ばれて半袖のシャツを引かれた。
「ねえ、少年」
 七色(なないろ)が振り返った先には小夜子がいた。黒々とした睫毛まではっきり見てとれる近さに、七色は思わず一歩あとずさる。小夜子は少女のように首をかしげて七色を覗きこんだ。
「堂園んとこのコかな」
「あ、はい、店のほうの」
 制服のベストをかるく引っ張ってみせるが、小夜子はじっと七色の顔に見入っていた。七色は小夜子の黒く大きな瞳を見つめ返すわけにもいかず、かといって雑居ビルに挟まれた路地で見るべきものなどなく、しかたなく裏口の扉を見張った。こんなところを誰かに見られでもしたら面倒なことになる。
 小夜子は七色の心配など素知らぬ様子でひとりごとのように呟く。
「どこかで会ったことある気がする」
「店……じゃないですかね」
 そうしてはじめて小夜子は七色の制服を見やった。上から下までを二往復して、何かさまざまなことを考えているような妙な間のあと、何も考えていなかったように微笑む。
「きみ、ミッションいける?」
「はい、まあ。え、なんで……」
「動かしてほしいの」
 小夜子が指さす先には七色にも見覚えのあるスポーツカーが停まっていた。
「オーナーの車を、ですか」
「下にリップ落としちゃって。わたしミッション無理だから」
 言うやいなや小夜子は七色の腕を掴み、黒いワンピースの裾をひるがえして車へずんずん向かった。小夜子の細い指の感触に華やいだり戸惑ったりする暇もない。
 堂園と小夜子の接客は常にマネージャーが担当していた。店に入って二カ月の七色は言葉を交わすことはおろか、そばに立ったことすらない。いつも遠くから眺めるだけだった。
 それがいま、肩越しに小夜子が振り返り、目元だけでかすかに笑う。小夜子からは香水とも体臭とも異なる冷たい香りがした。待ってくださいと言いかけた七色は黙らざるをえなかった。
 排気ガスや室外機の吐き出す熱が、蒸れた街をいっそう不快にする。銀色の車体はよく磨かれネオンに濡れていた。一見しただけで大切にされているとわかる。それでなくとも教習所でしか運転したことのない七色にとって、あまりにもハードルの高い車だった。
 堂園は、大物政治家の庶子であるとか、裏社会の人物と盃を交わした仲であるとか、その証拠に背中には龍虎の刺青があるなどと噂されていた。その真偽は七色にはわからないが、すくなくともスタッフに対して声を荒げたり暴力を振るったりするような男ではなかった。ときおり静かな笑みを浮かべるくらいだ。だがそういうとき、マネージャーはひどく怯えて頭を下げるのだった。
 七色は渡されたキーを手に立ち尽くす。
「オーナーは知ってるんですか」
 問いに、小夜子はにこにことするだけだ。
「おれ、やっぱりオーナー呼んできます」
 ビルのほうへ走り出そうとすると、どこか楽しげな小夜子に行く手を阻まれる。
「わざわざ言うことでもないよ。ちょっと動かすだけなんだから」
 車まで連れ戻され、運転席に無理やり押し込まれた。座ったこともないようなやわらかな革のシートに包まれて居心地の悪さが増す。窓の外では小夜子がひらひらと手を振っていた。七色は諦めてエンジンをかけた。
 シートを介してなめらかな振動が伝わってくる。足元に沈んでいた煙草の残り香が羽根のように舞いあがる。試験以来の運転だったが、もたつくことなく車一台分前へ滑らせた。
 ひときわ明るいネオンサインがフロントガラスいっぱいに広がった。ハンドルを握る七色の手もオレンジ色に染まる。ふと、地元を出てきた日のことが思い出された。運転免許証を受け取った帰り道だった。駅のホームは夕日の海に沈んでいた。たまらず目を細めたが、眩しさからではなかった。そのとき七色は光にも圧力があるのだと知った。気がつくと、家とは反対方向へ向かう電車に揺られていた。
 勢いよくドアが開く音で七色は我に返った。小夜子が助手席に乗り込んでくる。
「ありましたか、リップ」
「出して」
「え?」
「いいから車を出して」
「出すってどこ―」
 車の外で怒鳴り声があがる。ミラーを覗くと堂園の取り巻きや店のガードマンが鬼の形相で車に飛びかかろうとしていた。
「はやく!」
 小夜子の大声に驚いて、七色は反射的にアクセルを踏み込んだ。走り出しの手応えに一瞬ひやりとしたが、車はすんなり前へ出た。駐車車両で狭くなった道をどうにかこうにか走り抜ける。横切ろうとする歩行者をクラクションで蹴散らし、小夜子の望むままさらにスピードをあげた。どこへとも、なぜとも訊ねる余裕はなかった。小夜子の指示に従い道を折れる。繁華街をあとにして、車は国道へ向かった。
 うしろを振り返っていた小夜子が声に出して笑いながらシートに座りなおす。
「あはは、すっとした」
 追ってくる車はすでにない。
「あの、どこに停めれば」
「とまらない。まだずっと走って」
 小夜子は抑揚なく言い放った。何かを必死にこらえて押し殺したような平板さだった。
「とりあえずまっすぐ。まっすぐ行けるところまで」
 ピンヒールを脱ぎ捨てて膝を抱える。街灯や店の明かりが車内に差し込むたび、七色の視界の端で小さな足の小ぶりな指がちかちかと光った。
 港湾エリアには大きなクレーンが並び、高速道路のジャンクションはジェットコースターのように渦を巻き、途切れることない車の列は光の川となって高層ビルの壁面を流れた。
 子どものころに見た古いSF映画のようだった。車は道から数十センチ浮き上がって氷の上を滑るように走り、主人公は車に搭載された人工知能とやりとりをしながら、さまざまに光るスイッチを操っていた。
「よく知ってるね」
 小夜子に突然話しかけられ、七色はいつしか自分が映画のテーマ曲を口ずさんでいたことに気づいた。恥ずかしさのあまりハンドルがぶれる。
「子どものころ劇場で」
「そんな年? いまいくつ」
「十八です。商店街の小さな映画館がいつも古い映画ばっかやってて」
「そっか、そだよね。わたしだってテレビでしか観たことない」
 さきほど七色が口ずさんでいたフレーズを小夜子が繰り返す。
「いいよね。わたしも好き」
 そう言ったきり、小夜子はじっと黙りこんでしまった。ときおり思い出したように歌うので、寝ているわけではないらしい。ただじっと背後へ流れていく景色を見つめていた。
 車は道が続くまま、流れに乗って走っていた。都市部からベッドタウンを過ぎると車線は半分になり、前後を走るのはトラックばかりになった。溢れ返るようだった明かりも疎らになり、ヘッドライトの外側は黒く塗り潰された。そちらにばかり気を取られていると、足元まで満ちた夜に溺れそうになる。
「おなかすいたね」
 抱えた膝に額を押しつけていた小夜子が、のそりと顔をあげた。窓をあけ、鞄から取り出したスマートフォンをおもむろに投げ捨てる。
 びょうびょうと風が唸り、エアコンの効いた車内に重たげな外気がどろりと流れこんだ。昼のあいだに焼けたアスファルト、路傍でしなびた雑草の青さ、土との境界を失いつつあるいつかの枯葉、そういったものが夏の熱気に煮詰められ、陽炎のように揺らめいていた。
「どっかお店ないかな」
 風にかき消されそうな呟きだった。小夜子は頬づえをついて外を眺めていた。そうしているとやはり小夜子からはあの冷たい香りがする。七色は小さいころ祖母からもらったハッカ飴を思い出した。甘いのか、冷たいのか、それとも何も味がしないのか。すっかり舐め終えてしまっても答えは出ないままで、しわしわになった頬の内側を舌先で撫でると血の味がした。あのときの喪失感に、七色はいまもまだ名前をつけられそうにない。
 道の先にぽつんと明かりがあった。ラーメンの文字が見える。小夜子は何も言わないが、それを見ているという確信が七色にはあった。断りもせず砂利を敷いた駐車場へ入った。
 車から降りると思いがけずよろめいた。たしかに地面に立っているはずなのに、雲の上にでもいるかのように錯覚する。七色は砂利を踏みにじるようにしてようやく、膝が震えていることに気づいた。
「そういえば、まだ名前聞いてない」
 小夜子が車を挟んで立っていた。すぐそこにいて七色を見つめている。
 先輩スタッフらとつるんで、いつも遠くから眺めるだけだった。猫のように上がった目尻も、高すぎない澄んだ声も、不思議な冷たい香りも、足の指の小ささも、ついさきほどまで知らなかった。
 これから自分がどうなってしまうのか、漠然とした不安がある。おそれだろうかと七色は胸のうちに問いかけた。だが、おそれと呼ぶにはあまりにも甘い憂いだった。
 七色は凍みるような興奮を押し殺して口をひらく。
「七色。隅谷七色。七つの色で七色です」
「すみたに、なないろ……」
 小夜子の唇が七色の名をなぞる。そうして、うっとりと目を細めて微笑んだ。
「ダイヤモンドみたい」

 七色と小夜子のほかに客はいなかった。カウンターは翌日の仕込み作業に使われていたので、四角く赤いテーブルに向かい合って座る。
 こんなにも明るい場所で小夜子を見るのははじめてだった。小夜子は朝焼けに取り残された夜の静けさをまとっていた。それはそばに誰がいても癒されることのない孤独の気配だった。
 時計を見ようとして、七色ははたと何も持っていないことに気がついた。仕事中だったのだ。スマートフォンはもちろん、財布も運転免許証もロッカーの中だ。店の時計は午前一時を指していた。
「ねえ、ここ県内一度は食べてみたい餃子、十二位なんだって」
 クリアファイルにまとめられたタウン誌の特集記事を指さし、小夜子はカウンターに向かってビールと餃子を注文した。店主に目で催促され、七色は店名のついたラーメンを頼む。やがて運ばれてきたのは見た目も味も普通の醤油ラーメンで、小ぶりの餃子にいたってはやや焦げていた。ただ、ビールとグラスはよく冷えていて、細かくきれいな泡が立った。
「食べる?」
 小夜子は餃子を食べながらしみじみと猫のように目を細めた。七色はなかば冷めかけた餃子にかぶりつく。うまいとも不味いとも言い切れない、微妙な味がした。
「十二位感すごくない?」
 そのとおりすぎて、思わず吹きだしそうになる。小夜子も体を小さくして笑っているようだった。店主に睨まれる気配を感じ、顔を見合わせて笑った。
 それから小夜子は何本もビール瓶をあけた。七色がやんわりやめさせようとしても聞かず、しまいにはひとりで歩けないほど酔って、トイレまで行くのも七色が肩を貸すはめになった。
 小夜子を連れてテーブルへ戻ると、待っていたように店主から閉店を告げられた。
「小夜子さん、おれ手持ちが」
 七色が切り出すと小夜子はしばらく考えたのち、ああとこぼして理解した。
「ここから払っといて」
 鞄ごと渡され仕方なく開くも、七色は反射的にすぐ閉じてしまう。
「お客さん、はやくしてくれる」
「あ、はい」
 あらためて小さく開いて財布をたぐり寄せる。支払いを済ませて、小夜子を車まで運んだ。鞄は彼女の膝の上に置いた。
「驚いた?」
 七色が運転席に戻ると、小夜子は鞄を開きながら小さく笑った。
「驚くよね」
 財布やポーチを取り出して脇に置き、スカートの上で鞄を逆さにする。ざざざ、という音とともに、夜をものともしない輝きがこぼれ出た。
「きみの名前だよ、七色」
 小夜子はチョコレートでもあげるような仕草で七色の手のひらにひとつ置いた。ブリリアントカットが施されたダイヤモンドだった。ひとつひとつは小粒だが両手に余るほどある。
「本物だって堂園は言ってた」
 夜空に翳してみても、七色にはガラスとダイヤモンドの区別はつかない。
「確認のために教えてほしいんですけど、このことオーナーは……」
「うん、知らない」
「帰ったほうがよくないですか」
 七色はダイヤモンドを小夜子に返し、ためらいがちに言った。
「まだそんなに時間もたってません。酔ってたことにして謝れば、きっとオーナーだって―」
「七色殺されちゃうよ?」
 小夜子は三本の指でダイヤモンドをつまんだり落としたりしながら、鈴が鳴るような声で笑った。
「まじめに聞いてください」
「堂園を怒らせたらもう次はないって、みんな言ってる」
「だとしても小夜子さんは別なんじゃないんですか」
「ああ、わたしが七色の命乞いをするのね」
「それはありがたいですけど、おれが言ってるのは小夜子さん自身の話です」
「うん……、まあ、そうかもね」
 小夜子は優しく微笑みながら小さく首を振った。
「でも、だからこそ怒るかもしれないよ」
 ただ軽やかに、小夜子はスカートにちりばめた星屑をすくって華やぐ。確信があるようでも、諦めているようでもない。七色には小夜子が許されたくないと言っているように聞こえた。
 ラーメン屋の看板から明かりが消える。いつまでもここにはいられない。小夜子に逆らって街へ戻ることも考えた。だが小夜子なら走っている車からだって飛び降りかねない。
 小夜子が、ねえと呼びかける。
「海にいこう、七色」
「そう言われても」
 車には大仰なオーディオが搭載されていたが、カーナビは見当たらない。
「ナビならないよ。堂園は使わないから」
「なしでどうやって運転するんです」
「これは移動するための車じゃなくて、走るための車なんだって」
「……まあ、わかんなくもないですけど」
 七色は思案しかねてハンドルにもたれかかった。フロントガラスから空を仰いでも、雲に覆われて星はほとんど見えない。ガラスに映りこんだダイヤモンドだけが光のない世界で静かに輝いていた。
 怒るべきなのだろう。その権利が自分にはあると七色は思った。だが不思議と腹立たしさはない。むしろ小夜子に振り回されるのを待っている自分がいた。
 あ、と小夜子が外を指さす。
「あれサーフボードじゃない?」
 暗がりに目を凝らしてみると、店の外壁にそれらしいシルエットがうっすらと浮かんでいた。
「きっと近いんだよ、海。ね、行ってみようよ」
 肩で切りそろえた黒髪がカーディガンの上で静かにワルツを踊る。七色もつられて笑みをこぼした。
「いいですよ。でも、たどり着けなくても知りませんよ」
「うん、そのときはナビ買ってあげる」
「こんな時間、どこも開いてないですし」
「だったらお店が見つかるまで走る」
「目的地変わってるじゃないですか」
 声をあげて笑うと気にかかっていたことがすべて吹き飛んだ。七色はいっそ清々しい気持ちでエンジンをかけた。

 窓をあけてしばらく走ると、土埃の他に潮が香った。七色は内陸の町で生まれ育ち、海を知らない。それでも潮のにおいに触れると懐かしさを覚え、感傷的になった。はやく、すこしでもはやく海が見たくてたまらなくなる。人類の祖先は太古の昔、海から陸へあがってきたという。その記憶が海を恋しくさせるのなら、あまりにも勝手な話だと思う。そんなことなら、海から離れなければよかったのに。
 カーブを曲がると落とし穴のように暗い海が広がっていた。道路脇に未舗装の道があることに気づいてそちらへハンドルを切る。ヘッドライトが轍を照らす。なぞるようにゆっくり進んで藪を抜けると目の前には砂浜があらわれた。
 小夜子が静かに息をのむ。見やれば、人形のように表情を失くしていた。血を感じさせない肌をして、暗い、底の見えない目をしている。車内の計器が発する白い光にほのかに照らされながら、小夜子自身の内側から明かりが染み出しているようでもあった。七色はその横顔にどうしようもなく目を奪われた。美しいと言ってしまうにはあまりにも苛烈な、いのちをすり減らすような静止だった。
 かすかな声を残して、小夜子が車を降りていく。言葉であったように聞こえたが、単なる感嘆であったかもしれない。ただ七色に向かって告げられたものでないことだけが明らかだった。車内には冷たい香りの残滓が漂っている。なだらかに下っている砂浜を、小夜子はおぼつかない足取りで歩いていく。七色も小夜子を追って車から出た。
 ガソリンと海と、青いにおいがする。吹きつけてくる風は海が吐く息だった。生ぬるくて冷たい。やわらかくて鋭い。背中にはじわりと汗がにじんだが、半袖シャツの両腕は肌寒さに震えていた。
 血潮と海鳴りの境目が曖昧になって、七色は自分が膨張していくような眩暈を覚えた。息づまるほど濃く密に塗り潰された空が水平線をかき消して海となって迫ってくる。海は、黒いうねりであった。焦げつくような潮騒を響かせる。波音に聞き入るほど静寂が耳についた。車道の明かりは雑木に遮られて届かない。そこは深い夜の底だった。真昼の快活さも生命の輝きもない、ぴたりと合わさる貝のように閉じられた場所だった。
 ほんの数歩で革靴に砂が入り込んだ。構わず小夜子のあとをたどった。途中、足跡のように残された靴を片方ずつ拾う。夜に沈んだ砂浜は灰を撒いたようだった。
 小夜子は流れ着いた人のように波打ち際にぐったりと倒れていた。投げだされた小夜子の指を波が舐めていく。七色はそのそばに折れそうに細いヒールを置いた。
「兄なの」
 一切の感情を削ぎ落として小夜子は小さく呟いた。
「十五ではじめて会ったときから大嫌いだった。自信家で、傲慢で、身勝手で、乱暴で。会うたびに最低な男だと思って、なのに別れるたびに次に会う日が待ち遠しくなった。わたし、頭がおかしくなったんだって本気で悩んで。悩んでるうちに腹が立ってきたから、言ってやった。あんたなんか大嫌い、最低な人間だって。だけど笑うの。どんなときよりも優しく笑うの。だからわたし、あの人を傷つけたくて、死にたくなるほどの気持ちを味わわせたくて」
 小夜子は指先に寄せる波のもっと向こうを見つめて、息継ぎをするように、言った。
「あの人が大切にしてるものを、全部壊してやる」
 震えていた。それまでどこか現実感のなかった小夜子の言葉に痛みが宿った。そのとき七色ははじめて小夜子の声を聞いた気がした。
 どこからかサイレンが聞こえて、やがて夜に溶けるように消えていった。七色は音がしたほうを見るともなく見つめて、なかば義務のように口をひらいた。
「どうしておれだったんです」
 七色が小夜子を見下ろすと、小夜子もまた体を起こして七色を見上げた。夜の海を宿した目がまっすぐ注がれる。まばたきするたび魚の鱗のようにゆらゆらと光る。かすかに笑ったようだった。
「潮の香り」
 小夜子は何も聞かなかったように海を見据えて、大きく深呼吸をした。
「七色は知ってる? 海のにおいの正体」
 膝を抱えた小夜子は、首をかしげて花がほころぶように微笑む。
 七色はしばらく迷っていたが、やがて小夜子の隣に腰をおろした。
「いや、知らないです」
 小夜子は星のように瞬く船の明かりに目を細めた。
「わたし、この香りが好き。なまぐさいって嫌う人もいるけど、それはたぶん間違ってないんだけど、でも不思議と懐かしくて。海どころか土のにおいすらしない、アスファルトとスモッグのなかで育ったのに……」
 ひときわ大きな波が寄せる。七色は小夜子の手を引いて立ち上がった。ふたりが座っていた場所を黒い波がさらっていく。
「ありがとう」
「いえ」
 小夜子の手は濡れているとはいえ、ひどく冷たい指をしていた。やわらかなまま凍えて死んでしまったような体温だった。七色はとっさに繋いだその手を離せずにいた。
 ふいに小夜子が辺りを見渡した。
「ねえ七色、わたしの靴は?」
「えっと、さっきそこに……、あっ」
 置いたはずの場所は波にすっかり均されていた。波打ち際に垣間見えた気がして、七色はとっさに海へ駆け込んだ。拾いあげると、海藻のからみついた流木だった。
「すみません……」
「いいよ、七色のせいじゃない」
 七色の手に冷たい感触があった。どちらからともなく指をからませる。ぽつり、ぽつりと点滴のように、七色の胸には静けさが溜まっていく。
 小夜子の細い指はかすかに震えていた。七色にはそれをとめてやることはできない。小夜子は焦りと迷いのなかにあるのだろう。とにかく一歩踏み出さねば収まらない衝動と、そうしたところで何も変わらないという諦念と。それらに小夜子は引き裂かれそうになっているのだ。冷たい香りはいまにも千切れそうな小夜子の悲鳴だった。
 堂園がなぜどんなときよりも優しく微笑んだのか、七色はその理由がわかる気がした。
「小夜子さん」
「うん」
「おれも海のにおい好きですよ。たぶんこれからもずっと」
 七色が微笑むと、小夜子は唇を噛みしめて、七色の襟を力まかせに引き寄せた。小夜子の唇はやわらかなハッカ飴のようだった。
「さっき、店の裏で七色が振り返ったとき思った」
 唇が触れる距離で、小夜子は囁く。
「これが運命ならよかったのに、って」
 抱きしめあうと潮の香りが濃くなった。ふたりは体を寄せ合ったまま、もつれるようにして砂浜に倒れこむ。七色は夜空と小夜子を見上げた。そこには夜が広がっていた。
 この夜は七色の明日をいかほど変えるだろう。できれば運命が書き換えられるほど大きな変化であってほしいと七色は願う。この夜こそ運命になるように。
 頬にぽつりと水滴が落ちる。すぐにさあっと降り出した。長く続く雨とは思えなかった。雨粒は線になり、面になり、みるみるふたりの肌を包んでいった。そうして胸の底にまで染みていった。
 空は黒く濁っていた。かすかな光を含んだ雨滴が地上へばら撒かれる。フロントガラスに映ったダイヤモンドを彷彿とさせた。この深く濃い夜のうちにあってはとても小さく、誰にも気づかれない囁きのようなものだった。
 七色の首すじに小夜子が噛みつく。甘噛みというようなかわいいものではない。七色は思わず息を洩らしたが、突き飛ばすことはしなかった。七色は小夜子のワンピースの下に両手を滑り込ませ、素肌を抱きしめた。押し当てるだけの口づけをすると、小夜子はただやわらかいばかりの生きものになった。へそやくるぶしの形にまで及ぶ息づまるような美しさと、その美しさをこともなげに投げ出す無防備さがあった。やわらかく、頼りなく、いつまでも犯してもいいのだと思わせる体をしていた。細い指先がベルトを外すあいだも、互いの息を奪いあった。小夜子の舌は疼くような熱を孕んでいたが、やはりどこまでも冷たい。それが七色には心地よかった。
 汗や、雨や、潮風でべたついた互いの肌が凍りついていくようにぴったりと吸いつく。雲が流れて、冴え冴えとした月明かりが射す。七色はひどく静かな気持ちでこごりを吐き出す。
 いつしか雨はあがっていた。

 七色はハンドルにもたれかかり、明けていく夜を見つめていた。永遠に続くように思われた深い夜が、まばたきするたび紺へ、青へと、淡くなっていく。
 助手席では小夜子が規則的な寝息を立てて眠っていた。ときおり睫毛が震えるが起きる気配はない。憂いも痛みもない、穏やかな寝顔をしていた。指の背で頬を撫でる。このやわらかさだけが昨日の小夜子とおなじだった。
 七色は眠らなかった。眠ってしまえば昨夜のことが現実でなくなるように思った。小夜子を失いたくないとか、離したくないなどとは思わない。そもそも小夜子と七色のあいだには、互いを繋ぎとめるものなど何もない。だからこそ、たとえ世界の夜が明けてしまっても、この夜だけはいつまでも冷たく息づいていてほしかった。
 海も空も砂浜も、くすんだ青に染まっていく。七色はふいに喉の渇きを覚えた。車を降りて辺りを見渡したが水道のたぐいは見当たらなかった。車道まで出れば自動販売機があるかもしれない。七色は車に戻り、小夜子の鞄を開いた。財布を取り出そうとすると、昨日から閉じ込めてあった輝きが青い朝にこぼれだした。七色は構わず小銭を抜き出す。そのとき小夜子の運転免許証があることに気づいた。森岡小夜子。十二月生まれで七色より六つ年上。写真はいまよりすこしあどけない学生風だ。
 七色は免許証を財布に戻して、鞄をもとあった場所に置いた。
「なないろ……?」
 曖昧な声で小夜子が呼んだ。まだまどろみのなかにある。
「どこいくの」
「ちょっと自販機まで。すぐ戻ります」
「……そっか」
 言い終えるときには、ふたたび眠りに落ちていた。七色は小夜子へ伸ばしかけた手をとめて、髪を撫でないまま車を降りた。
 藪を抜けて車道に出る。人の姿は見えない。カーブの先から軽トラックが顔を出した。ゆっくりと朝をかき分けてやってくる。農機具を載せたトラックは自転車並みの速さで目の前を通り過ぎていく。その先に赤い自動販売機を見つけた。
 水は売り切れていたので、しかたなく炭酸水を買った。ペットボトルの蓋をひねる。素早く空気が抜けて泡が立つ。勢いよく喉を鳴らして飲むと、奥のほうが焼けたようにひりひりとした。七色は藪のほうを振り返ることなく、軽トラックが消えていったほうへ歩き出した。それは昨夜たどってきた道のりだった。
 もう夜ではない。だがまだ朝とはいえない。すべての色彩は青に沈み、停止している。この世かあの世かもはっきりとしない、あわいの時間だった。
 靴音がいやに響く。新聞配達のバイクが七色を追い越していく。木立の隙間からはときおり大海原の断片が垣間見える。反対側には田畑が広がっていた。小鳥が飛び立ってそれぞれに囀る。ずっと先には昨夜気づけなかった家電量販店の大きな建物があった。海の底に沈む遺跡を見つけたような驚きがある。電柱や家々に記された町名に覚えがあった。もといた街まで歩いて帰れる距離ではないが、駅まで行けば直通電車がある。
 心のどこかで世界の果てのような場所にいるものだと思っていた。だが実際は車で数時間走っただけにすぎない。そのことを七色はよくわかっていた。だからこそ、現実を突きつけてくる朝が憎らしかった。
 前方から黒いセダン車が走ってくる。ガードレールのない路側帯を歩く七色は、車がみるみる近づいてくることに気づいて脇へよけた。国産車でもハイクラスの車種だ。七色の横を、浮いているかのように音もなく通り過ぎていく。優雅な車体に見とれて目で追うと、信号も交差点もないすぐ後方で停車した。バックで七色のそばまで戻ってくる。運転席の窓が下がって、見慣れた財布が差し出された。
「隅谷七色だね」
 男のやわらかな声に、七色はかすかだが覚えがあった。震える指のあいだからペットボトルの蓋がこぼれ落ちていく。
「きみの財布で間違いないか」
「間違い、ありません」
 七色は財布を受け取り、頭を下げた。
「ありがとうございます、堂園さん」
「スマホも救出できたらよかったんだけど、気づいたときにはもうぐちゃぐちゃで。悪いね」
「とんでもないです」
「部屋のほうは行かないよう釘をさしておいたから無事だと思うよ」
「助かります……」
 ふと、受け取った財布に違和感を覚える。堂園は七色が気づくのを待っていたように口をひらいた。
「すこし足しておいた」
「え」
 あらためて見ると財布は倍ほどの厚みになっていた。
「今月分の給料のついでだから。取っておいてよ」
 前の給料日から十日もたっていないのに、財布が膨れあがるほどの稼ぎがあるはずがない。突き返したところで堂園が受け取らないだろうことは七色にも予想できた。とはいえそのままポケットに押し込むこともできず、七色は手に持ったまま立ち尽くした。
 ドリンクホルダーにはスマートフォンが立てかけられ、白い陸地と水色の海に塗り分けられた地図が表示されていた。その境界線上で赤い丸印が点滅している。
 ハザードランプの音が時を刻む。七色から堂園の顔は見えなかった。サイドミラーにはアイロンの行き届いたシャツを着た男の口もとが映っていた。
「小夜子が迷惑をかけたね。痛かっただろ」
 ミラーのなかの堂園が自分の首すじを指さす。七色はいつまでも疼く歯形をとっさに手で隠した。堂園の口もとはやわらかく朗らかにほころんでいる。しかしそれは正しい笑顔ではなかった。
「ところで小夜子の姿が見当たらないんだけど」
 いっそ怒鳴りつけられたほうがどんなに楽だろう。堂園の声は、言葉は、思わずそう願ってしまうほど優しく冷たい。
「まだ、車にいると思います」
「もしかして置いてきた?」
 七色がうなずくと、堂園はハンドルを叩いて声をあげて笑いだした。
「小夜子はさぞ驚くだろうなあ。あいつはあれでなかなか用心深いから、これまで男にフラれたことなんてないだろうに。しかも置いてくるなんて思い切ったことをするね」
 快活で裏表のない笑い声に七色はあっけにとられた。やがて腹の底から炭酸水の泡のように苛立ちが湧き上がってくる。だって、と言いかけたが声にならない。七色は自分の頬を打って喝をいれた。
「……だって、おれがそばにいたって意味ないですから。小夜子さんはすこしも自分を許せないし、癒せない」
 夜の海で波打ち際に横たわり、小夜子はきっと泣いていたのだろう。兄と言った彼女の声の、そのときの震えるような冷たさを思い返すたび七色の胸は軋んで、錆びた鉄のようにはらはらと剥がれ落ちた。
「堂園さんじゃないと、意味ないんです」
 なぜ胸が痛むのか、七色は不思議に思う。これは小夜子の傷で、七色のものではないはずだった。
「それがわかってるから迎えに来たんじゃないんですか」
「そうだね」
 堂園は静かにうなずいた。
「だけど小夜子は何度だって傷つくよ。おれといるかぎり、生きているかぎり。夕べも粉々に砕けてしまうつもりだったのかもしれないけど……、なあ七色、きみはあいつのわがままをすべて聞き入れたろう」
「おれは、そんなに優しく見えますか」
 七色の投げやりな声に苦笑しながら堂園が窓から顔を覗かせる。
「じゃなきゃ、あいつの夜に付き合えない」
 笑顔を形作りながら、ぞっとするほど翳りに満ちた目をしていた。その翳りは闇とおなじで底がない。
「あれはただ明けるのを待つしかできない夜なんだ。きみは星くずみたいに寄り添ったのかもしれない。……でも、朝はきてしまう」
 七色は返す言葉を持たなかった。
 堂園の車は走り去った。七色は車が視界から消えるまで見送り、ふたたび歩き出した。財布の中身をすべてばら撒いてやろうかと考えたが、体のけだるさに流されそのままポケットに押し込んだ。
 首のうしろに何かじわじわと濡れるような不快感が広がった。それは両手の小指や、シャツから出た肘にまで及んだ。七色は辺りに朝が満ちていたことに気づいた。夜を薄めた青い世界はすっかり白日のもとにあった。振り返ると木々の頭の向こうから赫奕とした太陽の帯が伸びていた。車道を行き交う車は一段と多くなった。ジョギングをする人と玄関を掃除する隣人の挨拶が聞こえてくる。今日という日の幕は突然あがった。七色はその舞台を、居合わせるつもりもなく傍観していた。一度のぼりはじめた太陽はすぐにすべての夜を飲み干した。どこにも、空の端にも遠くの山稜にも夜の名残はない。七色は縋るように炭酸水を口に含んだが、これもまたすっかりぬるくなって鋭さを失ってしまっていた。
 小夜子の冷たい香りが恋しかった。地にあいた暗い穴を覗くように、背中がぞっとするような香りだった。もう二度と、胸の奥の深いところまで凍りついてしまうような夜を過ごすことはないだろう。逝ってしまった夜がかなしい。七色は口に残っていた炭酸水を吐き出して、ペットボトルごと側溝に投げ捨てた。
 足を一歩踏み出すたび、息をひとつ吐くたびに、夜は過去へと遠ざかった。遠ざかるにつれて、それがいまと繋がる時間であるという確からしさは失われていった。そういう夢を見ただけかもしれないと不安になる。夢でもいいとか、いい夢だったとか、そういう慰めはほしくなかった。手触りを知らないものは、すべて不確かなものだった。そんなものはいらない。七色は朝から逃れるように足早に歩いた。
 田畑の向こうの杜から、気ぜわしい蝉の声が聞こえた。自動販売機は当たりが出たらもう一本と狂ったように繰り返す。七色は今度こそ水を買おうと立ち止まり、ポケットに突っ込んだ財布を取り出した。
 そのとき、こぼれ落ちる小さな光があった。
 小さなダイヤモンドはほんの一瞬きらりと光って、それからどこかへ消え失せた。

―おわり―