出口が近いので、ランプを持たずとも目が利いた。少年は汚染臭が気にかかり、落ち着かない様子で鼻を鳴らした。特に目の前に立つ男から、漂ってくるようだった。長く上にいると汚染臭が体に染み込み、気にならなくなるという。少年は眉をひそめて男を見上げた。男は肩に担いでいたものを地面におろして、少年の目線になるようにしゃがみ込んだ。少年の黒い丸い目に、男の笑顔が奇異に映った。
「そんな勝手なこと、できるわけないだろ」
そう言って少年は顔を背ける。男は朗らかに微笑んだ。困っているのか考えているのか、男は大きな手で顎をさする。伸びた無精髭が、砂利を踏むように音を立てた。
「やってもみないで、そんなことを言うなよ」
男は細い目をさらに細めて、少年の頭を撫でる。
「子ども扱いするな」
少年は男の太い腕を払いのけようとするが、掴んでも叩いてもびくともしない。諦めて舌打ちをすると、男は歯を見せて笑った。
「だったらお前、俺との約束くらい守ってみないか。お前が信念をもって自分の思った通りに選択するだけでいい。損になることは何もないだろう」
「だけど、大人たちの命令には逆らえないよ」
少年は男が肩から下ろしたものを見る。それは人の姿をしている。顔は少年や男とそう変わらない。少年はこれと男の立場が逆であっても、見分けがつかないと思った。けれどもこれは自分たちにとっては好ましくない存在のものだった。
「どこも違わないだろう」
男は静かな声で呟いた。手の甲で、身じろぎ一つしないそれの肌をこすった。日焼けした肌には、くすんだ赤色をした血がこびり付いていた。少年は男の横顔を盗み見る。先ほどまで見せていた温厚な笑みが嘘のように、石のような冷たい目をしていた。それは少年には怒りと映った。少年は心を決めかねて俯いた。自分の正直な気持ちを貫きたい衝動が込み上げるが、頭の隅に大人たちの顔が浮かんだ。
男は鞄の中から水筒を出すと、少量の水をそれの顔にかけた。血や泥がふやける。男は袖で汚れを拭った。少年にはそれの表情が心なしか和らいだように見えた。
「頼りにしちゃいけないか。俺はこいつを死なせたくない」
だったら自分でどうにかしろ、とは言えない迫力が男にはあった。
怖くはなかった。ただ、経験したことのない機密性と、そこから生まれる緊張感が少年の体を固くした。少年は上目遣いに男を見上げ、額に巻いた布の位置を直した。頼られる優越感で、頭が痺れた。
「やってやらなくもないよ」
「本当か」
「うん。だけど約束して」
少年は口を引き締めて、唾を飲んだ。男の顔に笑みはない。少年は男の目に大人らしからぬ輝きを見た。
「全部、任せてくれるのか」
「好きにするがいい。俺の気持ちなんて無視して構わないよ。お前の判断がこいつの全てを決めるんだ」
男の言葉を聞いて、少年の顔には笑顔が滲み出た。責任感と興奮から、頬が紅潮する。少年は大きく頷いた。男は目尻を下げて、少年に拳を突き出した。
「頼むよ、戦士」
少年は男の大きな拳に自分の拳を押し当てた。殻のようにかたい拳だった。
* * *
目の前には真っ赤な池が揺れている。辺りは暗い。月の明りもたびたび雲に途切れた。それでも池の赤みは、闇を凌いで浮き立ち映えた。キリヤはほとりに佇み、首を傾げた。池には岩のような陰がいくつも浮かんでいる。水面にあわせて細くなびくものもあった。千切れた水草のようにゆらゆらと揺れた。彼は池に足を踏み入れた。池の水は見た目よりも粘り気があった。服の隙間から染みる水は、キリヤの肌にゆっくりと寄り添った。不快ではなかった。むしろ彼には恋しかった。重く感じる水を、押しのけるように掻き分けて進む。底は長く留まると崩れていく。キリヤは雲の上をもがくように進んだ。黒い陰に手をかけて、足を池底から離す。心許ない浮遊感が、急に彼の不安を急きたてた。キリヤは陰にのぼる。一刻も早く赤い水から逃れようと、体を外へ引き抜いた。服は黒ずみ、水を吸って重くなっていた。座り込んで、呼吸を整える。陰に手をつき、空を見上げる。汁が零れ落ちそうな闇だった。青みがかった雲は素知らぬ顔で流れていった。キリヤは深い息を空に吐いた。白くなって召されていく息を目で追っていると、指先に痒みを感じた。痒みはささやかな痛みに変わる。キリヤは怪訝に思い、陰から手を離した。見ると、右手の小指がなくなっていた。痛みが内側から沸き起こり、キリヤを襲う。キリヤは手を押さえて声を上げた。足元から笑い声がおこる。背後からも低い笑い声がした。キリヤは汗を浮かべて背後を確認するが、誰の姿もなかった。だが笑声はやまない。
「全部お前が殺したんだ」
低い声が言った。注意深く耳をそばだてると、声は陰から聞こえていた。キリヤは怒りに任せて陰を殴った。陰はやわらかく、拳はめり込んだ。
「そしてまた殺すんだ」
声は涼やかに諦念をこぼす。キリヤの腕は陰に刺さったまま抜けない。声の言葉を否定しながら、キリヤは懸命に自分の腕を掴んだ。手首に鈍い衝撃が走った。腕は手首から先を失って陰から離れた。
「そしてお前も死ぬんだ」
キリヤの失われた手首から、濁流のように血が溢れる。小さな川を作り、血は池に混ざり合った。方々の陰から奇声が上がる。キリヤは耳を押さえてうずくまった。声を出して遮ろうとしても、喉はひゅうと風が通るだけで、音にはならない。
「殺して生きて、殺して生きて、生きて死ぬんだ」
陰たちは声を張り上げ、口々に喚いた。池が沸き立ち揺れる。空からは黒い雨が降った。キリヤの体は下半身が陰に呑み込まれた。彼に抵抗する力はもはやなかった。うな垂れて、呑まれて混ざるのを待つ。
遠く、女の声がした。若い声だった。キリヤの腹が陰に食いちぎられる。キリヤは蠢き悦ぶ陰を見つめて、女の声を聞いていた。それは懸命に叫んでいた。繰り返し何かを叫んでいた。キリヤはそれを聞きたいとぼんやり思った。顔を上げて、池の向こうを見遣る。黒い雨が視界に網目模様を編んだ。その向こうで動くものがあった。キリヤは女が自分を呼んでいるような気がした。無性に女の顔を見たくなった。キリヤは腕を陰に押し付け、体を引き抜こうと力を入れた。女の呼び声は続く。キリヤ、キリヤ、そう呼んでいるようだった。気持ちが逸り、ぬらぬらした陰の表面を腕が滑る。キリヤは苛立ち、陰を殴った。何度も、何度も殴った。なぜかもう陰の中に拳がめり込むことはなかった。手首から先を失った腕も、拳があるように陰を叩いた。
キリヤは女の名を叫んだ。
息苦しさに目を覚まし、キリヤは荒い呼吸を繰り返した。横たわった体は金縛りにあったように痺れている。首筋はじっとりと汗で濡れていた。背中からは服越しに冷たい湿り気が感じられた。指を地面に這わせる。爪に目の粗い布が引っかかる。そこを抜けると指先に懐かしい触りがあった。キリヤは土の静けさに安堵した。陰のぬめりは欠片もなかった。埃と混じった土の匂いが、頬に触れる湿気が、やわらかい。
キリヤは首を巡らせた。ただ延々と黒ずんだ土壁に囲まれている。道はずっと向こうへ続いていた。そちらから、温もりが流れてくる。風が通っていた。キリヤの体が警戒心に応じて急速に目覚めていく。だが彼がすぐさま起き上がることはなかった。どこに監視の目があるか、見極めてからにしたかった。見上げた天井は黒く高かった。隅には篝火が蛇の舌先のように動く。真上には丸く白い月のようなものが浮かんでいた。穴が開いているようだった。すぐそばにはそこから落ちた光が土を照らしていた。土に含まれたガラスの成分が星のように瞬く。小さい、しかし確かな輝きだった。
キリヤは長い息を吐いた。耳の奥に爆発音がこだまする。記憶の淵から這い上がってくる音だった。目を閉じれば、崩れていく建物の姿が鮮明に甦った。朝陽を浴び、壁は色を失い散った。掴みきれなかった手がかりを思い出し、キリヤは両腕で目を覆った。そして、なぜ自分が生きているのか、ふと疑問に思った。額に触れる自分の腕は、汗ばんで脈打っていた。
キリヤはじっと呼吸を繰り返し、今見た夢を思い出していた。雨に遮られてよく見えなかったが、池のほとりに立っていたのは、確かによく見知った女だった。
「ミズキ」
呟きは口の中でくぐもった。キリヤは今ようやく夢の中の彼女に応えるように、何度もその名を呼んだ。奥歯が軋むほど噛み締める。
『キリヤはお兄ちゃんみたいに消えたりしないで。約束だよ』
抱きしめた彼女のやわらかさが胸に広がる。ずっと触れたかった彼女の髪に触れた喜びを思い出す。絹糸のようにしなやかな彼女の黒髪は、キリヤの手の中で無防備に喘いだのだった。指をすり合わせて、記憶の彼女の髪を摘む。
土を踏みしめる、鈍い音がした。
「あ、動いてる」
上から子供の声がした。キリヤは気配に気付かなかった。驚きを隠して、視線を向けた。少年が、大きな目でキリヤを覗き込んでいた。少年は満面に笑みを湛えながら、横たわるキリヤのそばに腰を下ろした。
「あんた、死ぬとこだったんだよ」
少年は黒い髪を短く刈り込み、額には赤い布を巻いていた。言葉にわずかな訛りがあった。それは耳に優しい懐かしい訛りだった。
「純日か」
キリヤの声に少年は笑った。それはその歳にはそぐわない、卑屈な笑みだった。
「敏いね、お兄さん。名前は」
「キリヤ」
「キリヤ、桐谷? やっぱり日系なんだ。顔見て思った」
少年はキリヤの目から遠い方の手を背中に回す。キリヤは見て見ない振りをした。
「ここはどこなんだ。いやに空気がきれいだが」
「地下だよ。向こうに行くほど結構深く掘ってあるんだ」
少年は道の奥を指し、無邪気な微笑を浮かべる。キリヤは大きく息を吸って目を閉じた。
「そうか。それで汚染臭がないのか」
「だけど随分臭うようになったよ。上から染み込んでくるみたいでさ」
キリヤはそう言って口を曲げた少年の、黒い眉をそっと見つめた。純日男子特有の勇ましさが、幼いながらも色濃く漂っていた。頼もしさと切なさがキリヤの胸に去来する。苦しさから、同情よりも残酷な欲望が芽生えた。
「あの日がずっと来なければ、こんな臭いを嗅ぐこともなかったろうにな」
ため息とともにキリヤは呟いた。少年の頬が小刻みに痙攣した。キリヤはそれを無視して続ける。
「空気も水も土も、何もかもが壊れてしまった」
「俺たちが悪いって言うのか」
少年は擦り傷だらけの手で、地面を叩いた。キリヤは動じず首を振った。
「純日だけを責めるのは間違ってる。あの戦争は誰にも避けられなかった。ただ、<カミカゼ>を信じすぎたんだよ」
「やっぱり責めてんじゃねぇか。戦争してなけりゃ、あの地震にも堪えて、今でも日本があったっていうんだろ。そんなの外から入ってくる奴らに都合いいだけの屁理屈だ。あいつらのいう、正義ってやつだよ。罪を犯した純日を救援するために居座るってな。日本の大義名分を踏みにじったあいつらに、日本の何が」
そこまで言って少年は口を噤んだ。
キリヤは苦々しく歪む少年の顔を、慈悲深く見つめた。少年は自分の心を操れるほどすれておらず、だからといって、気持ちの向くままに全てを吐き出せるほど無邪気でも幼くもなかった。キリヤは彼が特別でないことを何度も心に言い聞かせ、強く抱きしめたくなる衝動を押さえた。
少年の歯の隙間から、息が漏れる。少年は肩を落としてうな垂れた。
キリヤは地下から覗く外の光を、小さな穴から眺めた。太陽の眼差しが行き届く世界より、土に覆われたこの暗闇の方が、キリヤには人が住みうる環境に思えた。
「ねぇ、桐谷さん。これは大事な質問だよ」
そう言って少年は固いものをキリヤの脇腹に押し付けた。薄い服を挟んで、鉄の冷たさが肌に沁みた。キリヤは少年を刺激しないよう、目を動かす。少年の手には純日がよく使う、小型の拳銃が握られていた。
「なんだ。俺は何でも答えるよ」
キリヤの顔色は和み、声は落ち着き払っていた。少年の手が俄かに震えた。
「わかってるんだろ」
「何がだ」
キリヤは静かに問い返し、眠るように目を閉じた。
「俺が半妖かどうか、そういうことか」
少年は答えなかった。しかしそれが答えになった。キリヤは乾いた笑いを漏らした。
「たとえ日系でも、半妖なら消すのか。そうか」
「な、なんで笑ってるんだよ」
「いや、そういうのも、正義なのかなと思って」
キリヤの引き締まった精悍な頬に、奇妙な笑顔が浮かぶ。それは何人もの顔が入り混じったような笑顔だった。顔が引き攣りながら、めまぐるしく表情が変わる。少年はあまりの恐怖に声を忘れた。
「俺が殺した奴らの顔だ」
キリヤは絞るように言った。夢の中の言葉が、耳に甦る。頭の中で必死に叫びを上げて、自我を保つ。胃の奥が熱くなって吐き気が喉を上がった。懸命に飲み込んで、キリヤは息を吐いた。隅々にキリヤの表情が戻った。
「お前が俺を殺すことについて、俺は何も非難しないよ。ただし、考えをもたないと、あとから言い分けをして逃げることになる。いいか、殺すってことは背負うってことだ。お前は俺の人生を背負えるか。そして俺が殺してきた全員の恨みを晴らせるか」
「で、出来ないって言ったら」
少年は拳銃を両手で構えると、キリヤの喉元に先を押し当てた。どんなに強く握っても、腕は激しく震え、とても引き金を引ける様子ではなかった。それでも少年は歯を鳴らしながら、キリヤを睨みつける。キリヤは顔を歪めた。
「全力をもって阻止するまでだ」
そう言ってキリヤは少年の腕を強く掴んだ。驚いた少年の指が強張った。細い腕に撃鉄の衝撃が撥ね返り、風船が割れるような音が響いた。顔を背けた少年に、生温かい液体が勢いよく降りかかった。辺りに腐臭が立ち込める。少年はその臭いに噎せて咳き込んだ。少年はほつれた袖で顔を拭う。しかしどんなに強くこすっても、ぬめりと臭いは取れなかった。諦めて、顔を上げる。目の前には、所々白骨化した腐乱死体が横たわっていた。目は眼窩から飛び出し、溶けかけている。肌には無数の斑点が浮かび、変色していた。服と肉は同化し、破れ目から虫がわいているのがよく見えた。
「ひっ」
少年はあらためて鼻孔を刺す腐臭に気付き、両手で口元を押さえた。腰を下ろしたそのまま、死体から目を逸らさずに後ずさる。死体を見るのは初めてではない。だがそれは全て、自分の見知った愛しい人たちのものだった。
壁がある方向ではないのに、背中が何かに突き当たった。少年は胸が潰れるほど驚いて振り返った。
「確かめておきたいだろう。背負うものを」
見上げると、キリヤの笑顔があった。少年は四つん這いになってキリヤから逃れようとするが、足首を掴まれ、地面に這いつくばった。
「離せ! 離せ、化け物!」
少年は地面を殴りつけて、体を左右に捻った。踏み固められた土はセメントのようだった。叩きつけると肘まで痺れた。自由な方の足が、何度もキリヤの腕を蹴りつける。その度に少年は、釈然としない罪悪感を覚えた。
「化け物、か」
キリヤは小さく呟いて、足首から手を離した。少年は転げつつキリヤと死体から逃げ出した。壁を背にして荒い息をつく。口に土が入ったのか、少年はしきりに唾を吐いた。
キリヤは立ち上がって死体のそばへ寄った。片膝をついて、頭部に右手をかざす。掌の中央に昏い穴が開き、死体は徐々にその中へ吸い込まれていく。堰が決壊したような轟音が響く。少年は呆然として、目を瞠った。
キリヤの横顔に苦悶が浮かぶ。額から汗が噴き出した。
「こいつは、俺がヨコハマで殺した男だ。突然襲いかかってきた。たぶん薬物で管理された新日の兵士だろう。死に際は薬も痛みも抜けて、むしろ穏やかだったよ」
死体を飲み込んでいると、腕が千切れそうだった。激しく脈打って、熱くなる。瞬きする間に手首から先が無くなる幻想を見た。あれは、死体の叫びか。それともキリヤ自身の叫びか。死体の凹凸に合わせて歪む腕を、もう片方の手で押さえながら、キリヤは男の体が崩れないようゆっくりと、爪先までを丁寧に吸い上げた。行為のたびに感じる虚しさを、キリヤは胸に噛みしめた。これが業だと言いきかせる。
死体があった麻布は、体液で汚れていた。キリヤはその上に土をかぶせ、手でこすった。掌でも手首に近いところから血が滲んだ。
「俺には、こういう形でしか殺した相手を背負えない。相手の気持ちも生活も大切なものの存在も、死んでしまってからでは聞き出せないからな。だからせめて俺にも触れられるその体だけは、捨て置きたくない。すぐにも俺の体の中で腐ってしまうけどな」
土を払い、麻布をはたく。沁みを全て取り去ることはできなかった。キリヤには男がまだ生きている証に見えた。布の表面を少年に見えるようにかざす。
「すまない」
「いいよ、あげるよ」
少年は脚を抱えて座り、じっとキリヤを見つめていた。その目には真っ直ぐすぎる怒りがあった。
「それで許されるの」
尖ったナイフのような声だった。キリヤは麻布を丸める手をとめた。全身に少年の鋭い視線を感じる。キリヤは顔を上げずに首を振った。
「元より、許される気は毛頭ない」
「じゃあ、背負うって何だよ。建て前か、偽善か、驕りか」
少年の言葉に、キリヤは思わず顔を上げた。キリヤの腕が別の生き物のように疼いた。言い返せる余地は微塵もなかった。
「そうやって、守ってるんだろ。自分だけをさ」
深いため息をついて、少年はあぐらをかいた。膝を手で押さえつけて、じっと足元を睨みつけているようだった。
キリヤは脈打つ腕を押さえて、呆然と座り込んだ。おもむろに手を開き、顔を近づけた。穴が開くほどに見つめる。薄い皮の向こうから、死が匂い立った。鼻をつまみたくなるような匂いのはずが、今のキリヤには甘い砂糖菓子のように思えた。任された仕事をこなせず、人一人を守ることも出来ず、自分の心をもごまかして生き長らえていることが、神から死を選べと言われているようだった。逃げにならないかという自問には、少年の言葉が静かに答えた。
すでに逃げている、と。
きつく拳を握る。土をこすって出来た傷口から、血が玉のように膨らみ、やがて弾けて腕を流れた。キリヤは奥歯を砕けるほど噛んだ。赤い糸を引く腕で、脚を殴りつけた。痛みはどれもキリヤの焦燥を呷るだけだった。なぜ生き残った。なぜ死ねなかった。なぜカズヒサを見失った。なぜミズキの依頼を受けた。なぜ探偵になった。なぜ母に捨てられた。なぜ父の面影すら知らない。
なぜ半妖としてこの世に生まれ落ちた。
キリヤは唇を噛んで、涙を堪えた。息を抜くと声が漏れた。今を生き長らえているのがおかしいのではなく、今まで生きていたのがおかしかったのだと、キリヤの心は痛みに狂い始めた。
投げ出した足先に、上からの光が触れる。キリヤは導かれるように天を見上げた。光が容赦なく突き刺さる。強い白に、目が焼かれるようだった。眼球の裏側で、血が滾る。視界が白く染まった。知らぬ間に、感嘆がこぼれた。キリヤは首を戻し、すぐ近くに置き去られた拳銃に目をとめた。人間より丈夫な半妖の自分が、どうすれば死ぬのかはわからなかった。だが、今なら少しのきっかけで逝ける気がした。指の中に虫が這うような感触がした。キリヤは拳銃に手を伸ばした。
すでに逃げている人生なら、続ける意味はない。ましてや奪い続ける運命など。
脳裏にミズキの顔が浮かんだ。困り顔、怒り顔、泣き顔、次々と彼女の表情は巡っていく。しかし、よく笑う娘だったというのに、笑顔のひとつも思い出せなかった。キリヤは初めて、彼女の笑顔にずっと隠されていた本当の感情に気付いたのだった。彼女はいつも笑いながら困っていた。彼女はいつも笑いながら怒っていた。彼女はいつも笑いながら泣いていた。彼女が彼女自身のために表情を隠したというなら、それは逃げになるかもしれない。しかし、そうは思えなかった。彼女はいつも不憫なほど感情に聡く、周囲にくまなく視線を向けていた。その逃げは、彼女の見せる強さの形だった。
指先が、拳銃までほんの少しのところで凍りついた。
彼女の本当の笑顔が見たい。キリヤの心に透き通った欲望が生まれた。生への絶望とせめぎ合う。腕に流れていた血は乾いた絵の具のように固まった。
自分の手を確かめるように、キリヤは指を曲げた。骨の奥に反発を感じる。最初は小さな棘のようだったが、次第に大きなうねりになる。流れはキリヤの体を黒い拳銃へと向かわせる。広がる視界に距離が生まれる。キリヤは心の中で必死に腕を引きとめようとするが、体の中に同居した無数の意志の力に逆らえなかった。自分の腕の中に、いつしか他の誰かの腕があった。
「お前も死ぬんだ」
声がして、キリヤは背後を振り返った。しかし誰の姿もなかった。
「こっちへ来い。こっちの世界へ」
「痛いだろう、苦しいだろう。もう、やめにしたらどうだ」
「解放してくれよ。もう死なせてくれ」
キリヤの頭の中で、声はいくつも重なって響いていた。内側から聞こえるはずなのに、どれも鼓膜が震えた。
「あの女が生きていると、なぜ信じられる」
キリヤは目を瞠った。最後に見た彼女の姿を思い出す。大丈夫、あそこなら爆発に巻き込まれるはずもない。そう言い聞かせて、腕に力を込める。声は高笑いを響かせた。
「死んでるよ、きっと死んでるよ」
「お前が殺したんだ」
「同じところに行こうぜ。なぁ」
「追いかければ、本当の笑顔が見られるんじゃないかな」
黒い拳銃から白くしなやかな腕が伸び、キリヤの指を探していた。手首には鮮やかな糸で編まれた腕輪が、何重にも巻きつけられていた。細い腕が強調され、恥じらいが漂う。キリヤはその色合いに見覚えがあった。
「ねぇ、行こうよ」
白い腕がか細い声で囁く。女の声だった。澄んで凛とした声だった。
「キリヤ、約束したじゃない」
耳を澄ますと、ミズキの声によく似ていた。キリヤは強く殴られるような衝撃を胸に受けた。
「ミズキ」
「お願い。私を一人にしないで」
腕が泣いていた。彼女が泣いていた。
キリヤは体を乗り出して、腕に手を伸ばした。泣かないでくれ。笑っていてくれ。願いを込めて腕を伸ばす。指先が互いを求め合う。
「何してんだよ」
傷だらけの黒い革靴が彼女の腕を踏みつけた。白い腕は激しく痙攣し、次第に変色していく。キリヤは足を辿って顔を上げた。少年だった。怒りにまかせて睨みつける。少年の冷たい眼差しに、キリヤは我に返る。拳銃から腕は消えた。
「考えてみたんだけどさ」
そう言って少年は腰を下ろした。拳銃はベルトに挟む。キリヤは軽く頭を振って、額を押さえた。錐に差し込まれるような痛みが脳に響く。大きく息を吸うと、肺から空気が漏れていくような不安に駆られた。この体の中でどこまでが自分なのか、キリヤにはその境界がもう見えない。飲み込んだ他人が増え続け、吐き出す息と共に、自分が外へ漏れ出ていく。いつか自我は他者に支配され、支配されていることにも愚鈍になり、自我と思って大切にしているものは他者が繰り出す自我の幻想にすぎなくなるのではないだろうか。キリヤは蒼白になって黒い土を見つめた。
少年は座ったまま腰をずらしてにじり寄ってくる。キリヤはその気配を感じていたが、頭を押さえたままうな垂れた。遠慮がちに少年の手がキリヤの手に触れる。キリヤは驚いて顔を上げた。少年はその隙に血で汚れたキリヤの手を取った。目に見える小石を取り除き、唾を吹きかける。少年は頭に巻いていた布を取り、叩くようにして血を拭うと、縦に裂いて繋ぎ、患部に巻きつけ始めた。
「よくわからないけど、半妖だって痛いものは痛いだろ。替えなんてないんだから、無茶するなよ」
「あ、あぁ」
布に染み込んでいた温もりが、キリヤの肌に流れ出す。自分の手の届かない場所に連れ去られていた意識が、中へ中へと呼び戻されていく。大人しく、少年に身を任せた。キリヤは、内に巣食っていた不安が吹き飛んだことにすら、気付かなかった。
「手のかかる大人だな、あんた」
「すまない」
キリヤの言葉に、少年は笑った。布を巻きつける強さを何度も確かめながら、少年はゆっくりと口を開いた。
「さっきは勝手なこと言って、ごめん」
「いや」
キリヤは謝りたい衝動を飲み込んで、それだけを言った。額を晒した少年の素顔は、ひどく幼いものだった。くせのない黒い睫毛がせわしなく動く。キリヤはふと、少年の名前が気になった。少年は手際よく布の端を結び、満足げに頷いた。キリヤもつられて口元を綻ばせる。しかし少年の笑顔はやがて皺くちゃになり、潮が引くように消えていった。少年も笑うかげで泣いていた。決して涙を見せることなく、けれども自らに嘘をつけるほど臆病者でもなかった。キリヤは純日とは皆こうなのかもしれないと、妙に嬉しくなって俯いた。少年は長い息を吐き出しながら、微かな声を洩らす。
「逃げてるかもしれないけど、だけど、それでも」
少年はキリヤが丸めた麻布に手を置いた。キリヤが土をこすりつけたため、ぬめりはもうなかった。少年は人を撫でるように麻布をさすった。
「もしかしたら救われることもあるのかな」
尻の下から、土の湿り気が伝わってくる。じっとりと肌に吸い付いた。しかしそれは夢で感じた池のように、不快ではなくむしろ心地よかった。キリヤは少年が巻いてくれた布の結び目を指でなぞった。キリヤにはそれが世界の素肌に思えた。少年は闇にも負けない黒い瞳を歪めた。
「戦わないわけにはいかない。だって日本を取り戻すっていう使命があるから。当たり前のように日本人でいられる幸せを、これからの純日に遺すんだ。だから、戦わなくていいように、今は戦うんだ」
少年の頬に静かな微笑が下りる。穴から刺す光が少年の黒髪を照らす。少年の目に怒りが宿った。
「この選択は、正しいのかな」
怒りの矛先は少年自身に向けられていた。キリヤには返す言葉がなかった。この少年に子供騙しは通用しないとわかっていたからだ。
「正しいとか、間違ってるとか、誰が決めてるんだ。だって、純日にとったら新日は侵略者だ。それを純日として許すわけにはいかない。だけど、そこにいる人たちはみんな生きてて、頑張って生きてて、それぞれに名前があって家族があって、思いがあって。十人殺した、二十人殺したって、数になってまとめられてるけど、それは何か違う気がするんだ。純日の主張を何の疑問も感じずに信じることを、大人たちは求めるけど、確かにそうできれば楽なのはわかってるけど、でもそれこそ一番やってはいけない種類の逃げなんじゃないかな」
「うん」
キリヤは肯定でも否定でもない、静かな相槌を返す。少年は俯いていて、キリヤから表情は窺えない。ただ少年の小さな体からは、痛ましいほどの感情が迸っていた。
「こんなこと思ってたら、戦いなんて続けられない。でも、生きてるから考えてしまうんだ。救われたいって。できるなら戦いたくないって。痛いのも苦しいのも悲しいのも寂しいのも、もうたくさんだ。みんなで一緒に暮らしたいだけなんだ」
少年は目にかかる髪を後ろへ追いやって、深く息を吐いた。
キリヤは自分が幼かった頃のことを思い出す。顔も言葉も習慣もそう変わらないのに、ただ少し珍しい力があるというだけで、街の隅で母と隠れながら過ごした。自分が他の子供と遊べないのが不思議で仕方なかった。世界の在りようも自分の立つ場所もわからずに泣いていた。その気持ちが、大人になった今では新鮮に感じられた。確かに自分が感じたことなのに、遠い世界の話に思えた。知りすぎたことが、多くの諦めを生んだと知った。
目の前にいる少年は子供の頃のキリヤより、数段広い視野で、深い慈しみをもって世界を見つめていた。ただ、その分だけ少年の苦しみは大きかった。
「桐谷さんが、初めて見た半妖なんだ。もっと怖いと思ってた」
「どんなふうに」
キリヤの問いに、少年は顔を上げた。はにかんで、すぐに俯く。
「こうやって、話ができるとは思わなかった。言葉が通じるとも思わなかった」
「話ができて、どう思った」
「さっきはかなり怖かったけど、それは桐谷さんなりの防御なんだし、仕方ないと思う。だから、そうだな、他の知ってる大人よりも自由な感じがするよ」
「自由」
「うん。純日でも新日でもない。自由な人」
少年は快活に笑った。キリヤも笑った。少年は下り坂になっている道の向こうを見遣ると、俄かに立ち上がった。
「逃げなよ。逃がしてやる」
「でも、そんなことしたら、お前が」
キリヤは少年に腕を引かれて、無理矢理立ち上がった。耳をそばだてると、まだ遠いが土を踏む音がした。少年は逆の方に伸びる道へ、キリヤを引っ張る。
「道は何本も分かれてるけど、桐谷さんなら大丈夫。臭いのきつくなってる方を選べば、上の世界に出られるはずだよ」
「待て、お前はどうするんだ」
キリヤは少年の腕を取って立ち止まらせた。少年は口を歪めて笑った。激しくキリヤの腕を振り払って、土の上に転げ回る。少年の体は土にまみれた。さらに少年は上着に持っていた短刀を取り出すと、鞘から抜き去り、薄く頬を切りつけた。その短刀は、キリヤのものだった。少年は刀を鞘に戻すと、キリヤの腹に押し付けた。
「返す」
少年は焼けるような痛みに顔を歪める。刃にはキリヤが調合した毒が塗ってある。長い間処理をしていないため効き目は薄いと思われたが、できるだけ早く洗い流さなければ肉が腐る。キリヤは腰に下げてあるはずの水筒を探したが、取り上げられていた。
「桐谷さんには言うなって言われてたんだけど、実はここまで運んできた人がそれを置いていったんだ」
キリヤは呆然として短刀を受け取った。柄が手に馴染んだ。平常心が手の平から戻っていく。
「運んできた、って誰が」
キリヤは腰をかがめて、少年の頬の傷を指で強く押した。少年はかなりの痛みのはずが、小さな声を漏らすだけに抑えた。血に混じって黒い汁が流れ出る。キリヤは安堵の息をついた。少年の意図を汲んで、血を拭くのは控えた。
「萩、萩なんとかって言ってた」
少年の言葉に、キリヤは地面が溶けるような目眩を覚えた。脳裏にミズキの横顔がよぎる。
「女か」
「男だったよ。桐谷さんより、少し上かな」
少年は背後を何度も振り返り、口早に言った。指で血を掬い、服のあちこちにこすり付ける。最後に指に唾をかけて、指紋に入り込んだ赤みを拭った。
「早く」
「ハギノ、ハギノカズヒサか」
「ああ、うん。そんな名前だったと思う」
少年はベルトに挟んであった拳銃を引き抜いて、駆け足になった。キリヤも少年を追って走る。
「言われたんだ。たとえ純日の自分が連れてきたとしても、半妖である限りここから生きて出ることは難しいだろうって」
キリヤは思わず立ち止まって短刀を握り締めた。少年は訝しげに振り返る。声をかけようとしたが、キリヤの様子を見て憚った。キリヤは短刀を抜き、かすかな光を集めて輝く刀身を見つめた。ぼんやりと自分の姿が映りこむ。手元が震える。視界は滲んだ。
キリヤは体の奥から湧き上がる熱を、噛みしめるようにして感じていた。
カズヒサが生きていた。
まだ自分の仕事は終わっていない。生きる理由を再び手に入れた。ミズキに会う理由も、また出来た。背中が燃えるようだった。
微風に油の燃える臭いが混じる。追っ手が近付いていた。少年も気付いたのか、両手で拳銃を構えると、地面に向けて撃った。銃声が掠れながら遠くへ響く。
「選べって言われた。助けるも助けないも。ただ、必要だと思ったら何としてもここから逃がせって」
「ごまかせるのか」
キリヤは短刀をベルトの金具にかけて、上着にあった手袋をはめた。革に染み込んだ血の臭いが立った。半妖の鋭い五感が、花咲くように目覚めていく。追っ手との距離が手に取るようにわかる。
「殺されはしないよ」
そう言って少年は立て続けに銃を撃ち放った。痺れた腕を払い、少年はキリヤへ拳を突き出した。
「男同士の約束は、命に代えても守るんだ。それが純日の掟だ」
笑顔が輝く。光射す土にきらめく、ひと欠けのガラスのように。
キリヤは頬を引き締めて笑った。少年の拳に自分の拳を突き当てる。
「また会おう」
「うん、わかった。約束だよ」
泥と血にまみれた少年は戦士の顔をしていた。
「ああ、約束だ。今度は上で会おう。ともに光を浴びよう」
そんな世界を違う道から探していこう。キリヤは心でそう語りかけて、勢いよく少年の拳を弾いた。少年は手を振って、来た道を走って戻る。背中が遠ざかっていく。
「おい!」
キリヤの声に、少年は振り返る。
「名前」
「継人。大柳継人」
キリヤの耳に数人の声が届く。ゆっくりと後ろへ足を踏み出す。継人は拳を突き上げると前に向き直り、大声を上げながら道を走っていった。それを見届けて、キリヤも踵を返す。体が悲鳴を上げていた。それは生きる歓喜の悲鳴だった。足裏は地を蹴りながら、踏みしめた土の感触を何度も噛み締めていた。
―おわり―