Killing me

 目覚めるとき、世界はいつも停止していた。
 いまにも横転しそうなままぴくりともしない大型トラックの影から、ヘルメットを被った男が這い出てくる。ヘルメットの塗装は裂かれたように剥がれて、腹には金属の破片が突き刺さり、コットンの白いシャツと淡いデニムは血に染まっていた。後方にはバイクの残骸が散らばり、油やタイヤの黒ずんだ軌跡が足もとまで続いていた。彼は血まみれの自分の器を見おろして、どうやら車に巻き込まれたらしいと理解する。
 破片を引き抜き、留め具の傷んだヘルメットをどうにか脱いで、彼ははあっと大きく息をついた。時が止まった街には、彼のほかに人はない。人だけではなく、動物や鳥や植物の姿もない。世界には無機物だけが取り残されていた。
 視界の端を、雨粒のように小さな青いものがよぎる。降ってくるのではなく、舞いあがっていく。薄曇りの白い空を見あげると、ソーダ水を注いだコップの底にいるようだった。彼は両手に持っていたヘルメットを路上へ置いた。指が離れた瞬間から表面には青い泡が浮き上がり、離れ、ヘルメットは輪郭を残して光に透けていった。彼は泡をひとひら、潰さないよう優しくつかまえる。そっと手をひらくと泡はほのかに光りながら浮遊していた。いつか彼女がこの世界でいっとう美しいとこぼしたことを思い出す。そうやって世界を見つめる彼女の眼差しこそ、彼にはなによりうつくしかった。
 じりりり、じりりんと、静寂を破って電話の呼び出し音が鳴る。歩道に停められた自転車のかごに黒電話があった。そちらへ向かって歩きながら、彼はまた目覚めてしまったことを静かに受けとめていた。もう何度目かしれない。数えることもやめてしまった。なぜ停止した世界で目覚めることを繰り返すのか考えることも、ずいぶんむかしに諦めてしまった。運命に抗ったところで、こたえを求めたところで、得られるものはなく虚しさが募るだけだった。いまはただ、世界がふたたび動きだすまでの短いときをせめて穏やかに過ごせるよう願っていた。
 黒く冷たい受話器をあげる。ハロー、ハローと呼びかけると、レコードに針を置いたときのような雑音が届いた。それは次第に明確な音となり、言葉になる。
「……ロー、ハロー。にゃあ? なんだなんだ、ずいぶんしょぼくれたこと考えてるんだなあ、にゃあにゃあ」
 首すじにやわらかな尾が触れて、黒猫が腕をすり抜けた。一回転してアスファルトへ飛び降り、ナイロン製の髭を得意げに揺らす。
「まあいい。さあ、あの女のところへ行くぞ」
「ねえクロ、どうしておまえはいつもそう人の心を覗き込むような真似をするの」
「猫聞きのわるいこと言うな。あんたが思ってることなんてわざわざ覗き込まなくたって手にとるようにわかるんだよ」
 クロは人のように鼻でわらうと、綿花の詰まった身をさっと翻して車道を歩きはじめた。彼は慌ててあとに続く。
「それと前から言おうと思ってたんだけど。クロはいつもぼくのことをあんた呼ばわりするけど、ぼくには彼女がつけてくれたセキって名前があるんだよ」
「はんっ! あんな女がつけた名前を後生大事にするあんたの気がしれない」
 歩くたび、クロの肉球は幼児用の靴のようにきゅうきゅうと鳴る。クロは正確には黒猫のぬいぐるみだったが、すまし顔で歩くさまは生きている猫と変わりがない。
「名前がないと不便だし」
「あんたとおれは、あんたとおれでいい。それが本質、あるべき姿だ」
 またその話か、とセキはため息をついた。
「本質とかあるべきとかそういう難しいことじゃなくて、互いに呼びあえるほうが――」
「とにかくあの女には気をつけろ」
 クロはセキの言葉を遮って、低く抑えた声で言う。
「おれはどうも嫌な予感がしてしかたがない」
「そうかなあ? 気のせいでしょ。アオはいつもぼくに、ありがとうって言ってくれるよ」
 セキはそのときのことを思い返してあたたかな気持ちになる。自分もいのちとしてそこに存在しているのだとわずかでも思うことができた。
 はたと、視界からクロが消えていることに気づく。振り返ると、口をあんぐりあけてクロが呆けていた。
「あんた……あれを本気で受け取ってるのか」
「いけないかな」
 セキはクロのもとまで戻って、やわらかな体を抱きあげた。高い高いをしても、プラスチックの大きな瞳に感情らしいものは見当たらない。
「クロをクロと呼ぶのもやめたほうがいい?」
「いや、それはいいんだ。それはあんた自身がつけてくれたものだから、別ものなんだよ」
 クロは身をよじって腕を伸ばすと、セキの顔をシリコン製の肉球でパンチして飛び降りていった。きゅうと鳴るだけで痛くも痒くもない。だがセキはクロを抱いていた両手を見おろして顔をしかめた。クロはぬいぐるみの重さをしていない。黒電話に近いがそれでも齟齬は埋められない。クロの言葉を借りるならどちらも本質ではないからだ。
「おい、エモ野郎」
「ほら結局へんな名前で呼ぶ」
「とにかく、あの女のペースに飲まれないでくれよ。あんたはすぐ乗せられるからな」
 道先に大きなスクランブル交差点があらわれる。前を進んでいたクロが勢いよく駆け出していった。交差点のまんなかには半袖のセーラー服を着た少女が横たわっていた。地面に寝ていても姿勢のよさがわかる若木のような少女だった。クロは彼女のまわりをうろうろとして様子をうかがっていたが、セキが追いついたことに気づくと場所を譲り、背後からじっと見つめるのだった。姿が見えないとクロの存在は若い男がいるように感じられた。冷たく鋭い眼差しで見おろされているような錯覚に陥る。
 少女は薄い瞼をそっと閉じたまま死んだように眠っている。もしくは、眠るように死んでいる。セキはそばに膝をついて少女の冷たい手をとった。はやく目覚めてほしい思いと、もうすこしこのままでいたい思いがせめぎあって、恍惚とした痺れが頭の奥で疼く。
「アオ」
 何度この名を呼んできただろう。これから何度呼ぶことになるのだろう。繋いだ手に力をこめると、彼女の小さな手が応えるように震えて、わずかにセキの手を握り返した。氷が融けるようにこわばりがほどけていく。セキのぬくもりを吸い上げた肌は生きているように思える。けれどセキは静かな心もちで、生きびとにはなりえない存在であるアオの本質を見つめていた。
「アオ……」
 ふと、それまでの沈黙と静止を忘れたようにアオがまばたきをした。セキと目があうと、花のようにわらう。
「セキ、ありがとう」
 目覚めるときアオはきまってそう言った。セキはいまだ、彼女のありがとうの理由を知らない。それでもセキは胸のうちに芽生えるよろこびを大切にしたかった。
 この瞬間だけは、やがて訪れる世界のおわりを忘れていられた。

 古い鉄筋コンクリート造りのビルの屋上で両足をおろして座り、セキは時が止まったままの無人の世界を眺めた。交差点にさしかかる軽自動車を、駅へ繋がる鉄道の高架を、目を凝らし時間をかけて見つめる。そうしていないといまにも動いてしまうように感じられて、セキはどうにも落ち着かなかった。
「大丈夫?」
 声に顔をあげると、アオが隣に立って街を見おろしていた。ビルの足もとにはアオの寝ていたスクランブル交差点が蜘蛛の巣のように広がっている。
「ありがとう、アオ。……時々ね、世界はきちんと止まっているのに、急に動き出してしまうように感じるんだ」
「あんまりじっと見つめるからだよ」
 アオはセキを振り向き、困ったように眉を寄せてわらった。あとはあれかな、と青い泡を指さす。
「この世界ではいっとうきれいだから。思わず見入ってしまう気持ちも、わかるけどね」
 泡は地上にあるあらゆるものから生まれている。植木鉢や看板など小さなものは、水に落とした角砂糖のように実体が溶けて泡となり、うっすらと輪郭線を残すだけになっていた。街を構成するすべての物質を青い泡に変えてひとところへ集めたあと、輪郭に沿って分配しなおして世界を再構築する。そうすることで世界はひずみを整え、何事もなかったように動きだすのだった。クロはこれを浄化と呼ぶ。
 空には大きく透明な風船のような膜が浮かんで、青い泡を吸い込んでいた。泡は、小さなままのものもあれば、他と結びついて大きくなるものもある。大小さまざまな青い泡がひしめきあう風船は、泡が描きだす模様も相まって、満ちていくさなかの月のようだ。
 昇っていく泡を目で追って、セキはそうだねと小さく息をついた。
「ぼくにとっての世界はこの姿だから。もしそうじゃないと不安になる。だけどアオにとっては逆だよね。やっぱり変な感じはする? 混乱しない?」
 問いに、アオは整った笑みを向ける。
「変な感じ、はないかな。器と生死をともにするっていっても、わたしは内側から彼女たちが見ているものを追うだけで、ここにいるときみたいな主体性はないから区別もつく」
 履きこまれたローファーのつま先が屋上のへりから出てしまうほど、アオはきわに立っていた。セキは彼女が落ちてしまわないか不安になる。
 アオはセキの心配など知らぬ様子で大きく両腕を広げた。
「風が強くて背中を押されるような、同時に下から吹き上がってきた風に拒絶されるような、そんな心地がした。死にたいなんていう明確な意思はなくて、でも五分後も生きてることを考えるとその図太さに腹が立ってしかたなかった」
 風が吹くことのない世界でアオは淡々と器の死について語る。
「だからあの場所から」
 アオは背後を振り返り、配電盤を示した。
「助走をつけて、とんだ」
 走り幅跳びのようにビルから飛び出していく少女を、セキは静止した空に思い描く。鳥や飛行機のように空を駆けるさまは自由で、失われゆく生命だからこそ放つ輝きがあった。死に際しながらもっとも死から遠いところにいるように感じられて、セキは澄んだ憧れを抱く。アオの話はいつだってセキに新しい景色を見せてくれた。セキにはアオの存在そのものが眩しい。
「ねえアオ、この街でどんなふうに過ごしてたか、いつもみたいに教えてよ」
「いいよ」
 アオはセキとおなじように足を投げ出して座り、駅前のバスターミナルをさした。
「角にファストフード店があって、そこで過ごすのが好きだった。友だちが一緒のときもあればひとりのときもあって、でも案外ひとりが楽で好きだったかも。誰にもそんなこと言えなかったけど。学校は二駅向こう、校舎の壁の時計が文化財とかで有名だったかな。教室からはちょうど落日が見えて、夕方山際に溶けていく太陽はほんとうにきれいだった。一瞬もおなじ時間はなくて、でもここにいるより世界が停止しているようにも感じられた」
 セキの肩にもたれかかりながらアオはしみじみと街を見つめる。その声音は朗らかで、いくらか寂しげでもあった。
「ここから学校は見えないの?」
「どうだろう難しいかな、方角的にはそのビルの向こうになるんだけど」
 アオは座ったまま身を乗り出して学校をさがした。並んで座るセキになかば乗りかかるような体勢になる。セキはアオが落ちないように腕を掴んだ。
「アオ、危ないよ。無理しないでいい、まだ猶予はあるから連れていってくれれば――」
 ぐっと体を強く押されて、セキはたまらずバランスを崩す。アオを支えきれなくなる。落ちる、と思った瞬間だった。
「見てられねえな」
 背中に感触があったかと思うと、直後セキとアオのあいだにやわらかな毛並みが割って入ってきた。
「クロ……」
「こいつがぼんやりしてるからって、ずいぶん大胆なことをする」
 アオは身を引き、立ち上がって数歩離れた。
 クロはセキの脚の上にすっと立ち、まっすぐアオを見据える。
「こいつのこと、突き落とそうとしただろ」
「まさか。なんのためにそんなこと」
「この繰り返しを終わらせるため、とか?」
 静かなクロの言葉にアオは黙りこむ。その沈黙が肯定に思えて、セキはたまらずクロの尾を握った。
「なにしやがる!」
 クロは体を飛び上がらせ、セキに殴りかかった。
「それはぼくの台詞だよ、クロ。アオになんてこと言うの」
「おれは間違ったことは言ってない。どう論理的に考えてもそう結論づけるのが妥当だ」
「そんなことない、ロジックの正しさだけがすべてじゃない。理屈では割り切れない気持ちがあるはずだ。ねえアオ、そうだよね」
 スカートの裾を払っていたアオはしばらく考えたあと、口もとだけの器用な笑みをクロへちらりと向けた。
「わたしとばかり話してるから、嫉妬したんだよね」
「そうなの? クロ」
「こいつの言うことなんて信じるな」
 クロはアオを睨みつける。アオも怯むことなくそれを受けとめている。セキはクロの尾を引っ張った。
「ふたりとも、やめよう、やめようよ」
 セキが懇願すると、クロもアオも互いに視線を逸らした。アオはふいと背を向けて歩きだす。セキは慌ててアオを呼びとめた。
「ねえアオ、アオは繰り返しを終わらせたいと思ってるの」
 問いにアオは答えず、やわらかく微笑む。
「学校、気になるんでしょ。案内してあげる」
 そう言って錆びた非常階段を降りていった。

 道に迷うといけないから学校まで線路を歩こうとアオが言った。どんなに見知った街も浄化が進めば景色はすっかり変わってしまうから、と。
 街はすこしずつ色を失いはじめていた。車や信号機や家並みはすべて線だけになり、マンションや病院など比較的大きな建物だけがまだ原形をとどめていた。
 バスターミナルを横目に見ながら商業施設と一体になった駅ビルへ向かう。アオが話していたファストフード店はテナントビルから飛び出していたひさしの部分がすでになく、店内の様子がよく見渡せるようになっていた。そちらへちらとアオが視線を向けるのを、セキは後方から静かに見つめていた。
 セキの歩みを遮るように、クロが足もとにまとわりついてくる。
「クロ、もうすこし離れてくれないとうっかり踏んじゃうよ」
「それは困る。だけどあんたを守らないと元も子もない」
 クロはそう息巻いて離れようとしない。蹴り飛ばしてしまわないように歩こうとすると、ステップを踏んでいるような格好になる。
「守るって、なにから」
「あのセーラー服から」
「さっきのこと? アオは街のことを教えてくれただけ。しかもぼくが頼んだことだ」
「そう思うなら、あんたはそれでいい。だがおれはそうはいかない。おれにはおれの領分がある」
 券売機の前を過ぎ、改札機を通って駅構内へ入る。アオの姿はその先の、ホームへと続く上り階段のなかほどにあった。
 なにかを踏んだ感触があって、とっさにクロかと思う。壁に手をついて足をあげると、線だけになった子ども靴が片方落ちていた。
 壁には埋め込まれるようにして消火栓が設置されていた。色も実体もまだ残っている。セキは血に染まったシャツと赤色灯を見比べた。時間が止まっているせいか、血はいつまでも色褪せることがない。指先に赤色灯の一部が重なり、深く鮮やかな光がセキの爪に透ける。血が通っているように錯覚して、セキは慌てて灯りから手を離す。赤い光はしばらくのあいだ生々しく瞼の裏にちらついた。
 ホーム階まであがり、アオより先に線路へおりる。アオがおりるのに手を貸して枕木の上を歩いた。
 アオがスカートのポケットから携帯電話を取り出して、セキへと差し出す。
「セキなら、もう一度動かすことができたりする?」
 ブラックアウトした画面はアオがどう触れても一切反応しない。セキは首を振った。
「この世界の停止という理は、ぼくにも侵すことができない。もしかしたら充電が切れていたり、壊れていたりするのかもしれないけど、いまそれを判断することもできないんだ」
「そっか……」
 抑揚のない呟きがかえって健気に思えて、セキはどうにか力になれないものかと足もとを見おろす。
「ねえクロ」
「無理だ」
「即答しないで、ぼくの代わりに考えてよ。それがクロのいう領分ってやつじゃないの」
「たとえ知っていたとしても、教える理由がない」
「でしょうね」
 アオは冷たくクロを見やると丁寧な手つきで携帯電話をポケットへ戻し、それ以上なにも言わないまま足をはやめた。
 最寄り駅まで二駅ぶん歩ききるころには月はすっかり肥えて、満月までは爪の先ほどが足りないだけとなっていた。
 四階建ての校舎は一階から三階までが消えていたが、アオが話していた時計は屋上に建つ鐘楼の壁に設置され、まだ実体をとどめていた。四時になろうかというところで止まっている。
 屋上へあがれば近くから見られるとアオが言うので、セキは彼女の案内で校舎内を進んだ。階段も透けているため、上へ行くほど下の階の輪郭が重なって見えて、足を踏み外しそうになる。セキはクロを抱えて視界を狭め、あえて足もとは見ずにそろりそろりと階段をあがった。
 かろうじて残っていた鉄扉を押しあけると、いままさに満ちようとしている青い月が曇り空のあいまに浮かんでいた。こっちだよとアオに手招きされ向かう。
 すぐそばから見あげる時計はアオの背丈ほどあった。金属製の針は長く使い込まれた鈍いつやをたたえている。
「きれいな時計だね」
 セキは頬をゆるめた。いつまでも針が動かない時計は見ていて安心する。
 屋上からは街並みが一望できた。背の高いビルはすべて学校の裏手に集中している。目の前には校庭と、住宅街のこまごまとした景色が広がっていた。もはやすべては線だけとなり、画用紙に鉛筆でさらりと描かれたデッサンのような光景でしかない。セキのすぐそばを泡が過ぎていく。鐘楼とともに時計が泡となって消えていく。やがて青い泡すら枯れ果てて、世界は漂白されていった。
 キンと甲高い音がして月が満ちる。腕に抱きかかえていたクロがぶるりと震えた。そのあとも小刻みに痙攣する。
「クロ……」
「クソ野郎め。おれはもうこの姿を保てそうにない。月が、満ちてしまった」
 クロは荒い呼吸で切れ切れに言葉を吐き出す。
「また会えるよね」
「そもそもこれは別れじゃない。何度もそう言ってるだろう。おれはあんたで、あんたはおれだ。たとえおれが姿を失っても、おれの思考はあんたのなかで……生きる」
「わかってる。わかってるよ。でもぼくは、黒猫のクロがすきだよ」
「はは……、あんたのそういうとこ、が、きもちわるくて、おれは大っ嫌い、だ。にゃあ」
 荼毘に伏すようにクロはみるみる灰になっていく。そうして手のなかに残されたものを、セキはひどく乾いた目をして見つめた。本質と重みが一致したクロの姿に世界のおわりを感じて虚しくなる。
 ふいに背後から強い力を受けて、セキはたまらずよろめいた。その隙に持っていたものを奪われてしまう。
「ふうん、クロって案外重いんだ」
 振り返るとアオが銃を構えて立っていた。ときおりクロとおなじように肩を小刻みに震わせながら銃口をセキへ向け、睨みつけるように狙いを定めている。
「それでおれを撃つつもりなら、やめたほうがいい」
「たとえば……世界が壊れてしまう、とか?」
「そうじゃない。無駄だから。きみが絶望するだけだ」
「いまさら絶望なんて。そんな時代はとっくのむかしに過ぎてしまった」
 ならばなぜセキへ銃を向けるのか。言葉とはうらはらな強い決意にはどんな説得も通じそうにない。
「だったら思うようにするといい」
 セキはだらりと腕をおろして銃口の前に無防備をさらけだした。アオの頬に朱が走る。涼やかに整ったまなじりが怒りに歪む。張りつめた肘には小さな亀裂が走り、はらはらとこぼれるものがあった。アオは指先に力をこめて一気に引き金を引いた。割れるような銃声がして反射的に目を閉じたが、片目ずつひらいて前髪のあいだから様子をうかがう。
「やった!」
 腹を押さえるセキを見て、アオは声をあげた。だがすぐにその表情は曇っていく。セキはいつまでも倒れることなく、微笑みにも似たやわらかな眼差しでアオを見つめていた。
「アオ、撃ってみた気分はどんな感じ」
「えっ……」
 アオは肩で息をしながら、銃とセキを交互に見やって言葉を失う。セキは腹へ当てていた手をアオへ向ける。そこには弾頭がそのままのかたちで残っていた。
「どういう、こと……。だっていつもこれでわたしを撃つくせに……」
「きみとおれとではこの世界における在り方が違うから」
 そう言ってセキはコットンのシャツをめくりあげた。腹にはたったいま裂かれたような生々しい傷口がある。事故に遭い傷ついたときのままだった。
「この世界の時間は停止している。おれの器も例外ではない」
「だけど、わたしは……」
「きみの器にはそういった傷がないだろう。というよりも、きみたちは停止した世界でしか存在しえない。おれだけが血まみれでおかしいとは思わなかった?」
 アオは顔色を失う。
「だってクロは、まるであなたが突き落とされれば死ぬようなことを」
「そうだったね。クロは、きみが持っている携帯電話みたいなもの。月が満ちるまで器に収めきれない思考や知識を託している。ずいぶんきみを警戒していたからね、きみの思惑を知りたかったんだろう」
 アオは笑みともつかない歪みを口もとに浮かべて沈黙する。
「月が満ちたいま、クロを構成していたものはすべておれと一体となって、ここにある」
 セキはみずからのこめかみを指で軽くたたいた。
「謀ったの」
「そう、らしいね。申し訳ない。だけどきみにクロの行為を非難できる? 浄化の泡をいっとうきれいだなんて言っておきながら、この世界への情なんてほんとうはひとつもないくせに。おれはね、こう見えて、それなりに傷ついてるんだよ。きみのありがとうという言葉を信じていたから。さあ、クロを返して。……そろそろもう、苦しいだろう?」
 セキはアオへ手を差し出す。アオは数歩退いて小さく首を振った。
「あなたにわたしの、なにがわかるというの」
「わかりたいと思ってはいる」
「繰り返されることのない世界で、取り返しのつかない生命を生きたことのないあなたには絶対にわからない。わかってほしくなんかない。わたしの心は考えたすえに辿り着けるような、そんなロジカルな世界にはないから。何度も絶望して、自棄になってなお繰り返されて、そんな現実をわたしだっていまだに受けとめられずにいるのに!」
 アオはふたたび銃を構え、立て続けに二発撃った。重ねて三発目も撃とうとするが、引き金にかけていた人差し指が関節からチョークのようにぽっきり折れてしまう。アオは顔を苦悶に歪めて手をおさえた。
「……別に、わたしはもういい。もう、望むことなんてなにもないから。だけど、わたしに巻き込まれる彼女たちの死まで諦めることは、できない」
 アオの眼差しは透徹として強い意思をたたえていた。
「わたしを宿さなければ、わたしがかかわらなければ、彼女たちはみんな一歩でも半歩でも死から遠い場所を生きられた。当然のように未来を信じて前を向いていられた」
 はたして彼女が立っている場所を絶望と呼ぶのか。セキはビルから空へと飛びだしていく少女を思い出していた。
「もしきみが望むなら、どうにか死んであげようか」
 苛立ちに似ていた。それを羨望と呼ぶことも知っていた。沈黙するべきとわかっていたが、叫びだしそうになるのをこらえるので精一杯だった。
「首でも絞めてみるか。腹の傷口をどうにかこじ開けてみてもいい。どうなるかはおれにもよくわからない。だがきみが試してみたいと思うなら、おれは協力しよう」
 アオは構えていた銃をすこし下げて唇を噛む。さなか彼女の頬を涙がひとすじ伝った。
「無駄なんでしょ? そうと知りながらもがくわたしがそんなに滑稽?」
 アオは首を振って涙を払い、セキを睨みつけた。涙のあとに沿って、乾いた泥のように頬が剥がれていく。
「あなたからの慈悲なんて絶対に受けない。あなたには絶対にわからない。いのちを、痛みを、死を知らないあなたにわかるはずもない。わかったふうな顔なんて絶対させない」
 体を支えきれなくなり足首が砕ける。濁った息を繰り返しながら、それでもアオはなににも寄りかからずに姿勢よく立ち、みずからのこめかみに銃口を押し当てた。
「殺されてあげない。今日はわたしがわたしを終わらせてやる。無力と嘆いているだけなら、わたしもあなたとおなじ傲慢の化け物になってしまうから」
 銃を両手で支え、残された指を引き金にかけ、大きく深呼吸をする。
「さようならセキ。いつかかならずあなたを終わらせる」
 白い世界に銃声が響く。アオの体がこめかみからひび割れる。それを合図に、膨れあがっていた青い月がはじけ飛んだ。あたりには青いスコールがばたばたと音を立てて降り注ぐ。そうして設計図のように残された世界の隅々へ染み込んでいく。屋根の赤、車の青、アスファルトの黒、雑居ビルの白や灰色と、街に色が浮かびあがる。足もとに透けていた校舎のなかも見えなくなった。
 セキは仰向けにくずおれたアオのもとに膝をついた。かろうじて表情の残るアオの片目がセキを見るともなく見ている。なにか告げようと口が震えるけれど、もうなにを紡ぐこともない。力なく投げ出された手が地面を掻く。先を見やるとアオのプリーツスカートのポケットに四角い光が透けていた。取り出してみると携帯電話だった。白い画面には、いきたいと二度、空行を挟んで書き込まれていた。
 校舎の時計の針が動いて、鐘の音を鳴らす。風が強く吹いてセキの髪を揺らした。その風を追うようにして鳥が数羽連れだって飛び去っていく。雲間から太陽が顔を出して、しゃがみこんだセキの影を濃くした。そこへ、ぽつりぽつりと赤いしずくが落ちる。セキは反射的に腹を押さえた。すでにシャツもデニムもぐっしょりと濡れている。片膝の足もとには血だまりができた。止まっていた時間が動き出すことで、器となっていた肉体もまた死のほうへと加速しはじめたのだった。セキはたまらず倒れこむ。
 呼吸が浅くなる。視界が霞む。思考が痛みに侵食されていく。
 セキは乾いた笑いをもらす。
「わからないな……」
 この苦しさを何度も経験しながら、なおも抗い続けるアオがセキには理解できない。
「だからぼくは、きみのことをあいしているんだよ、アオ」
 ほんとうにきみの手で死ねるなら、どんなにか幸せなことだろう。
 晴れ渡った青空を銀翼が光となって横切っていく。そこでフィルムが途切れたようにセキの意識は闇に包まれた。

―おわり―