金魚

 夕刻だというのに、蝉の鳴き声は真昼のように騒がしい。丸く大きな太陽は遠くのビルに重なり、空は透明度の高い紺色に染まりつつあった。
 高弘は山積みの仕事を放り出して、帰省の途にあった。毎年正月には帰っていたが、盆の帰省は数年ぶりだ。
 町は都市部から離れた下町で、小さな家がぎゅっと肩を寄せ合って建っている。申し訳程度の歩道には鉢植えがはみ出し、車がようやく対向できるような狭い道には、子供の頃と変わらないにおいがする。焼け焦げたような、ぬるいプールのようなにおいだ。ずっと夏のにおいだと思っていた。高弘はそのにおいが打ち水のにおいと気付き、自分も大人になったのだなと眉を歪めた。
 高速道路の高架が夕陽を受けて赤く染まる。そこを走る車やトラックの音が、夏の中でぼやけて膨らんだ。町が時間から切り離されたような、時代から取り残されたような錯覚に陥る。これがノスタルジーというものなら、あまりにセンチメンタルだ。高弘は低い町並みの向こうを見遣って、磨りガラスの嵌まった引き戸をひいた。
「ただいまー」
 こじんまりとした玄関には、女物の靴と子供用の小さなサンダルがきれいに揃えられていた。煮詰めた飴色の靴箱には、子供のころにつけた傷跡が今も残っている。全体的に色がくすんですっかり目立たなくなったが、当時はひどく怒られた。そのときの母の声を思い出し、高弘は頬をゆるめた。
 気だるい暑さに、やわらかな鰹だしが香る。柱の時計を見ると、六時を過ぎたところだった。
 壁際の定位置に靴を脱いで、その場で靴下も脱いでしまう。脇にある洗面所へ靴下を放り込み、高弘は足の裏をぺたぺたと鳴らしながら廊下を進んだ。
「おかえり。思ってたより早かってんね」
 台所から声が聞こえた。荷物を廊下の脇に置いて、高弘は木の玉でできた簾をくぐる。
「義姉さん、ただいま。兄貴はまだ仕事?」
「うん。夕飯には帰るゆうてたけど。あ、お茶。冷蔵庫に入ってるで」
「ありがとう」
 料理中で手が離せない義姉は、首を伸ばして冷蔵庫を目で指した。高弘は戸棚から出したコップで、冷えた麦茶を一気に飲んだ。
「家のお茶やなあ」
 麦茶などどれも変わらないはずだが、この家で飲む麦茶の味は特別だった。おいしいとかおいしくないとかではなく、体になじむ。
「そら、お水やろ」
「うちもミネラルウォーターで沸かすんやけどな」
「あかんあかん、そんなん。水道水使い」
「ええ?」
「当たり前やん」
「でもこっちの水道水なんて飲めたもんじゃ……」
「大丈夫や、ちゃんと沸騰させとるから」
「消毒ちゃうし。味は変わらんと思う」
「ミネラルウォーターはな、お米炊くときに使うもんやで」
「つこてるやん」
 高弘は苦笑いを浮かべて、すでに結露のつきはじめた麦茶の瓶を冷蔵庫へ戻した。ふと、この瓶も両親が住んでいた頃からこの家にあったことを思い出した。
「明日も暑なるんやって。義父さんも義母さんも暑い暑いゆうてはるやろなあ」
「あの人ら、夏なんかなくなったらええねんて怒っとったからな」
 笑いあって、どちらからともなく黙り込む。義姉は四年かと呟いた。
 高弘の両親は旅行中に不慮の事故で亡くなった。義姉が嫁いできてまだ半年も経っていなかった。葬儀はばたばたしているうちに終わり、気付けば見慣れた家の中から両親の姿だけが消えていた。
 父が定年退職をしてからというもの、夫婦二人でこじんまりとした旅行へ行くのが趣味だった。いつだって金魚のふんのように連れだって行動していたから、せめて二人が離れ離れにならなくてよかったと、高弘はようやく静かに思えるようになった。
 明日は兄家族と墓参りへ行く。そのための帰省だった。ずっと盆に帰ってこられなかった不義理を、墓の前で詫びねばならない。
 高弘は義姉の横に立ち、手元を見おろした。
「何か手伝えることあったらするけど」
「ええよ。座っとき」
「でもなんか、ひとり座ってるのもなあ」
「それもそうか。ほな、たっくんのこと見てきてくれへん?」
「ああ、そういや拓真どうしたん。おらんけど」
「たぶん縁側におるわ。実はな、幼稚園の縁日でもおてきた金魚が死んでしもてな……。ずぅっとあこから動けへんねん」
「わかった。見てくる」
 台所から居間を通り過ぎ、半分開けられた和室の襖に手をかける。顔を出して縁側を覗くと、緑色のTシャツを着た小さな背中があった。短い腕と脚で青いバケツを抱えている。
 高弘は何も声をかけず、黙ってその隣に腰を下ろした。蚊取り線香からは、ゆるゆると煙が上がっていた。
 持ち手が壊れたプラスチックのバケツには、縁いっぱいまで水が入っている。水面には付け合わせのパセリほどの藻が浮いて、ゆらゆらと揺らいでいる。
 その藻に引っ掛かるようにして、一匹の赤い金魚が白い腹を見せていた。
「なあ、おいちゃん」
「うん?」
「金魚な、動けへんねん」
「そうやな」
「なんでやろ。起きたときは、ぴゅんぴゅん泳いでてんで」
 甥の拓真は人差し指でそっと藻をつついて、金魚を沈める。しかし金魚はそのつど律義に浮き上がってきて、やはり藻に引っ掛かった。
「拓真、ずっとここにいたんか?」
「うん。たっくんこの場所好きやから、金魚も一緒」
「そっか」
 南向きの縁側は、風がよく通って気持ちいいが、日差しもきつい。もし拓真がずっとバケツを抱いていたのなら、水温はずいぶん高かっただろう。縁日の屋台にいる金魚はそもそも弱い。耐えられないのも無理はなかった。
 拓真はバケツから顔を上げて、高弘を見た。
「おいちゃん、金魚どないしたんやろ」
 拓真は金魚へ視線を戻した。
「たっくん、ずっと金魚にゆっててん。動けー動けーて。でも動かへん。たっくんがつついたときしか動かへん」
 バケツを抱く腕に力をこめて、体全体で揺らす。藻と金魚はくっついたまま、円を描くように水面を泳いだ。
「泳いでる金魚かわいいねんで。おいちゃんに見せたんねん」
「ありがとう」
 高弘はやわらかい拓真の頭に手を置いた。髪がやわらかいのか、頭そのものがやわらかいのか、高弘にはよくわからない。ただ、あたたかく湿り気がありやわらかい子供の頭は、生きている手触りがする。
「でもな拓真、金魚さんもう疲れたんやて」
「そうなん?」
「うん。せやから天国に行ってしもた」
「天国……」
 繰り返し呟いて、拓真は顔を輝かせた。
「たっくん知ってるで。じぃじとばぁばがおるとこやろ」
「そうやな」
 拓真にとっての天国とは、もしかすると電車や車で行けるところなのかもしれない。だが高弘はそれでもいいと思った。生きている人間は誰も天国を知らないが、だからこそ天国へ行く電車がないとは誰にも言いきれないはずだ。
 高弘は拓真の背中を軽くたたいた。
「ほら拓真、金魚のお墓作ったらな。スコップ持っといで」
「うん」
 大きく頷いた拓真は、裸足の足をぺたぺたとさせながら玄関へ走っていった。高弘はその間に青いバケツを庭へ運んだ。バケツには持ち手がないので両手で縁を掴んだ。持ちにくい。だがこの持ち手を潰したのは、かつての高弘自身だ。
 玄関から外を回って、拓真が走って戻ってきた。手にはカラフルなスコップを持ち、なぜか肩からは幼稚園の黄色い鞄を下げていた。真ん中にはチューリップの絵が描かれていて、そこに黒いマジックペンで「おかざきたくま」と書かれている。義姉の丸っこい字が、その鞄によくあっていた。
「持ってきたで」
 庭の隅に座り込んだ高弘の隣に、拓真が密着するようにしてしゃがみこむ。荒い息遣いがすーすーと聞こえた。
「鞄、どないしたん。それ幼稚園行くときのんやろ」
「うん。でもこれから金魚のお墓行くからな、そしたらな、鞄いるやろ」
「ふん……」
 高弘は首をかしげた。拓真は片手にスコップを、もう片方は土の上について、ところ構わず穴を掘り始めた。
「あ、拓真、一か所にしよ。金魚一匹やろ」
「そっか」
 二人で相談して、すでにいくつかできた穴の中から一つを選ぶ。場所は木のすぐそばにした。そこは拓真のお気に入りの場所だったらしい。理由を訊くと、かっこいいからと返ってきた。高弘は勝手に、剥きだした根のことだろうと納得した。
 土がかたくなったので、最後は高弘が二十センチほど掘り下げた。振り返ると、拓真はバケツの中の金魚を見つめていた。
「拓真、金魚掬って」
「うん……」
 水の中にそっと両手を差し入れ、金魚を掬いあげようとする。だが拓真の小さな手では、藻と金魚を一緒に掬うことはできない。
 高弘は拓真の後ろから腕をまわし、自分の手を拓真の手に重ねた。二人分の手で、ゆっくりと緑色の藻と赤い金魚を包み込む。
「よっしゃ、歩くで」
 よたよたと密接して歩き、穴の中で手を離した。水はじわじわと土に染みこんでいき、チョコレート色をした土の上には鮮やかな緑と赤が残った。さきほど掘り返した土をかぶせて、上には拓真の宝物だという白くて丸い石を乗せた。
 すっかり泥だらけになった手を合わせて、高弘は一呼吸で金魚を弔った。蚊が増えてきたので立ちあがろうとすると、拓真はまだ金魚の墓へ手を合わせていた。その姿を隣から眺めて、やっと鞄の理由にいたる。これは彼の正装なのだ。
 青いバケツに残っていた水が、紺色を深めていた。空を見上げると、白い月がくっきりと浮かんでいた。いつのまにか、漂う香りが増えている。これはきっと、かぼちゃの煮物だ。
 垣根の向こうで自転車をとめる音がした。
「ただいまぁ」
「あ、父ちゃんや」
 拓真は奇声に近い声を上げて、玄関へ走っていった。途中で一度こけたが特に泣くこともなく、何事もなかったように立ちあがって駆けだした。
 高弘はバケツとスコップを片付けてから、補修を繰り返してパッチワークのようになった縁側へ腰かけた。
「はあー、今日も暑かったなあ。お、高弘、来とったんか」
 和室へスーツの兄が入ってきた。
「おかえり」
「お前またそこにおるんか。昔から好きやなあ」
 兄は笑って、高弘の頭を小突いていった。容赦はないが、慣れた強さだ。振り返るとすでに兄の姿はなく、タンスの引き出しにはスーツがかけられていた。それは父がかけていたのと同じ場所だ。
「ここな、俺の好きな場所やねん」
 向こうから、手ぇ洗えよと声が飛んでくる。高弘はそれに返事をして、部屋にあがった。
 来年も必ず盆に帰ってこよう。高弘は胸いっぱいに夏を吸い込んで心に決めた。

―おわり―