未明の街

 曲がるはずの角を曲がらずに赤信号で立ち止まる。ルクは目の前に停車している二階建てバスにスマートフォンのカメラを向けて、夜の香港が反射する窓に目を凝らした。
 彌敦道沿いのカフェを出たときから影のようにぴたりとついてくる気配があった。しばらく気づかないふりで寄り道をして、かれこれ一時間がたつ。わざと人気のない道を選んだりもしたが、向こうからの反応はなかった。正直なところ、人目につかないところで殴りかかってきてくれたほうがルクには気楽だった。誰だかわからないうちから遠慮なく殴り返すことができる。昨日から寝ていないのでさっさと片付けていい加減家へ帰りたかった。
 信号を待つ人々のなかにひとりだけルクのスマートフォンをずっと見つめる姿があった。長い前髪が邪魔をしてよく見えないが、学生服でも似合いそうな、パーカーを着た若い男だった。
 バスの乗客が窓ガラスを指でたたく。観光客風の女がふたり、こちらに向かって手を振っていた。ルクはそれに笑顔でこたえて写真を撮った。
 屋台で混み合う男人街を抜けてシャッターのおりた市場へと向かう。途中、狭い路地へ素早く飛び込むと、それを追って男も慌てて駆け込んできた。
 ルクは男を真正面から出迎える。
「おれになにか用か」
 男は一瞬驚いたようだったがその場から逃げ出すことはしなかった。思ったとおりまだ若く、涼しげで整った顔をしている。あらためて向き合っても彼の顔に心当たりはなく、また街のこちら側の世界にかかわりがあるような鋭さや荒々しさは見受けられなかった。
 目が合う。その瞬間、ルクは矢のような衝撃に胸を圧されて思わず息をとめた。視線の先には、やわらかさやあたたかみからは程遠い、どこか生命から逸脱したような男の目がある。その眼差しは夜の湖のように静かでありながら真夏の陽光のように圧倒的で、ルクが目を逸らすことも許さず、思考や生命や魂といったところへ土足で踏み込んできた。追いつめたはずが、逆に追いつめられたような緊張がルクを襲った。
「いったい、なにを……」
 背中に隠した拳銃へ手を伸ばしかけたところで、ふっと呼吸が楽になる。
 若い男はそれまでとうってかわって人懐っこい笑みを浮かべた。
「長い話になるから家まで連れてってもらおうかなあ、って思ってたんだけど。無理っぽいね」
「誰だ」
「ユンって呼んで。ルク」
「へえ……、おれはまだ名乗った覚えはないんだが?」
 ユンは背が高く手足も長いが全体的な線が細く、存在としてのはかなさを感じさせる男だった。だからこそ直前に見せた神かあやかしのような強者の眼差しがいっそう気にかかった。
 ユンは濡れたガラス玉のような目を嬉しそうにゆっくり細める。
「マリーから聞いた。ルクのことはいろいろ、もちろん仕事のことも」
 知り合いに何人かマリーという女はいたが、ルクの仕事のことを知っているのはバーテンダーをしているマリーだけだった。人を殺すのが仕事だと話してもたいていは比喩と受け取り信じない。だがマリーは違った。ルクの言葉をそのまま信じて、こわがることもしなかった。
「あいつのいうことを本気にしたのか。おれはホワイトハウスに親族がいるってホラ話で営業されたけどな」
「それは違う。だってマリーがぼくに営業をする必要なんてなかったから」
 ルクはユンの口ぶりに引っかかりを覚えたが、確信にいたるまで口を噤むことにする。
「マリーはぼくにとって姉みたいな人だった。ぼろぼろになってたぼくを拾ってくれて、死に別れたっていうほんものの弟みたいに大切にしてくれた。ぼくたちは血の繋がりこそなかったけど、ほんとうの姉弟で、ほんとうのことしか言葉にしなかった」
「そうか。それはずいぶんいい話だが、……どれも過去形だな」
 指摘に、ユンは目をそらした。ルクは確信する。
「死んだのか」
 青い顔をしてユンはうなずく。
「……殺された。付き合ってた男に」
 彼氏ができたと嬉しそうに話していたのは二ヶ月ほど前、夏の終わりのころだった。つい先日久しぶりに店を訪れると辞めていたので、てっきり恋人とうまくいっているものと思っていた。
「ルクはチャンって知ってる? 半年くらい前から尖沙咀で好き勝手してるやつ」
「噂くらいは」
 黒社会のある組織のボスの隠し子という話だが、海外暮らしが長かったせいか街のルールを知らず、組織のシマを平気で越えてさまざまな面倒を起こしていた。普段なら組織が始末をつけるところだが隠し子かどうかがいまだはっきりしないために野放しとなり、また警察やほかの組織もパワーバランスが崩れるのを嫌って手を出せずにいるという。
「そいつがマリーを殺した」
 ユンは青褪めながらもたしかな声音で噛みしめるようにいった。悔しさ、憎しみ、悲しみ、とっくにそれらを越えてしまい言葉へ落とし込むことのできない感情が声の端々に滲み出している。
「ルク、お願いだ。チャンを殺してくれ」
 なんて純粋な殺意かとルクは感心した。金銭的な利益のためではなく、保身のためでもない、果たされたとて取り戻せるものはないとわかりながら、それでもただただ相手の息の根をとめたいと希う姿は人間らしさにあふれてうつくしかった。
 ルクは取り出した煙草をくわえて訊ねる。
「いくら払える」
 ルクは特定の組織に属しているわけではないので後ろ盾がなにもない。仕事が成功しても失敗しても、チャンのような男に手を出すことには相応のリスクが伴う。しばらく街を離れることも考えなければならない。
 ユンはにやりと笑って皺だらけの紙幣をポケットから取り出した。
「ぼくの全財産」
「ふざけてるのか。おれは慈善事業でやってるわけじゃない。おまえはおれがマリーの友人だから頼みに来たのか? だったらあの店の常連のアカウントを教えてやるよ。みんなこちら側とは無縁のやつらだが」
 スマートフォンを手にしたルクは画面に指をすべらせた。その腕をユンが強く掴む。
「じゃあさ、逆に訊くけど、そのなかにチャンを殺したいくらい憎んでくれる人っている? ぼくくらいマリーのことを大切に思う人は?」
「おれはそれに当たるっていうのか」
「ぼくには及ばない。でもあなたはその不足を仕事で補える」
「だったらなおさら報酬はきちんと払ってもらわないとな」
「あっ、あー……」
 ビルの隙間から見える夜空を仰いでユンは情けない声をもらした。
 ルクはユンの肩をかるく叩いた。
「金を貯めて出直してこい」
「……わかったよ。金があればいいんだろ」
 投げやりな声に振り返ると、ユンははじめて顔をあわせたときに見せた閃光と深淵の混ざったような眼差しを宙に向けていた。その輝きは超新星のようにあやうい。
「明日の競馬、第二レースで六番に賭けて」
 そう告げてユンは路地の奥へと走り去っていった。

 次の日の夜、ルクはふたたび彌敦道沿いのカフェにいた。二階窓際のボックス席でユンが来るのを待っている。呼び出したわけではない。そもそも連絡先を知らない。それでももう一度会うならばここしかないと思っていた。
 あたたかいミルクティーを飲みながら、開け放った窓から夜の香港を見上げて、見下ろす。目まぐるしい街だった。どこかに落ち着くということをせず、常に新しいもの、面白いもの、儲かるものに飛びついた。ルクは幼少のころからまわりよりのんびりした子どもで、街のスピードについていけないまま大人になった。ある人はそれを、自分を守るための鈍さだといい、またある人は優しさの発露だといった。ルク自身はそのどちらでもなく、生きているという感覚が希薄なせいと考えていた。楽しいことも嬉しいことも気持ちいいことも快いと思う。だがそれらはどこかで見たことのある感情の域を越えない。たとえばユンが見せた殺意のように、たしかに彼の血肉をわけた混ざりもののない感情はルクには縁遠いものだった。だからだろうか、昨日から苦悩するユンの姿が脳裏をちらついてしかたない。
 席の向かい側に無断で座る人があった。ユンだった。
「また会えてうれしいよ、ルク」
「それはどうも」
 ルクは胸ポケットから馬券を取り出した。
「関係者か」
「八百長ってこと? ちがうちがう。あの馬にはずっと目をつけてたんだよね。大当たりだったでしょ」
 ユンは店員にルクとおなじものを頼んで馬券をしげしげと眺めた。
「なんだ、せっかくの大穴だったのにたったこれだけしか買わなかったの。これじゃ三ツ星レストランでディナーしてマッサージに行ったら終わりじゃん」
「まだ余るだろ」
「なにいってんの、ぼくも行くんだよ。だってぼくのおかげで勝ったんだから」
 屈託のない満面の笑みを向けられて、ルクはちょっと待てと頭を抱えた。
「おまえはこれをおれへの報酬にしたかったんじゃないのか」
「競馬の勝ち馬予想なんて不確定なものを? ルクがぼくのいうとおり買ってくれるかもわからないのに」
「それでもおまえはここへ来た。おれがこの馬券を買って待っていると確信していたみたいに」
 ルクがじっと見つめると、ユンは淡い笑みを浮かべたまま目をそらし、窓の外を見やった。横顔がかすかにこわばっている。
「ルクは科学で説明できないものを信じる?」
「おれが信じるのはおれが体感した現実だけだ。科学だろうとまじないだろうと差はない」
 ルクは馬券を指でとんとんと叩いた。
「どんな方法でこの馬を予想したか知らないが、おれにとって確かなのはそれが当たったということだけだ。説明なんて、現実に納得できないやつのまじないみたいなもんだろ」
 ユンは弱々しく顔を歪めた。かろうじて笑ったようだった。
「マリーから聞いてたとおりの人だ。よかった」
 運ばれてきたミルクティーの白く厚ぼったいカップを両手で包み、ユンは言葉を選ぶようにゆっくりと口をひらいた。
「ぼくには未来が視える。自分のこと以外の断片的な未来がね。馬券みたいに意識して視えるものもあれば、突然目の前にあらわれることもあって、深刻な事象ほどぼくの意思にかかわらず襲いかかってくる。人の生き死にとか、愛憎のたどり着く先とか。たいてい、ろくでもないことばかりだよ」
「だったらマリーのこともわかっていたのか」
 ユンは小さくうなずいた。
「マリーはぼくの力のことをちょっとよく当たる占いくらいに思ってたから、たとえばお客さんがチップをはずんでくれるとかコンビニへ行くときは車に気をつけてとか、そういったことは聞いてくれたんだけど、チャンには気をつけたほうがいい、別れたほうがいいって何度繰り返し伝えても、ぼくがチャンに嫉妬してると思ったらしくとりあってくれなかった。引きとめようとすればするほど、逆にチャンと会う回数は増えていったかもしれない……。結局マリーは爪を剥がされ、ベッドで首を絞められて殺されていた。ぼくが視た、とおりに……」
 その光景を思い出したのか、ユンは顔をおさえて肩で息をした。未来を視るという目が指の隙間から覗く。澄んでいながら深い澱みに満ちた眼差しはいまはただ哀しみと怒りにうち震えていた。なによりマリーに信じてもらえなかったおのれの無力を恨んでいるのかもしれなかった。
 きっとはじめてのことではないのだろう。これまで何度もおなじ苦しみに苛まれてきたことは想像に難くない。それでもユンは人と関わり合うことをやめず、もがき続けていた。たとえその原動力が怒りや殺意や狂気めいたものであっても、また発露のかたちが人を殺めることになっても、他人行儀な正しさの前に膝を折るよりずっとまっとうな姿をしていた。
 馬券を見つめる。ユンがいうとおり、三ツ星レストランのディナーとマッサージに消えるのも悪くないのかもしれない。
「わかった。引き受けるよ」
 ユンははじかれたように顔をあげた。
「いいの」
「いいよ、報酬ももらったわけだし」
「ありがとう……、よかった」
 深いため息とともにユンは顔をくしゃくしゃにして笑った。そうしているとマリーの笑顔が思い出された。笑うと子どもっぽくなるのが嫌といいながら、些細なことでもよく笑う女だった。
 ルクはすこし目を伏せて、ふたりの笑顔にこたえた。

 エレベーターから派手な身なりの女がおりてくる。近ごろチャンが贔屓にしている出張マッサージ店の女でアリスといった。服や化粧はマリーとおなじでも、体格の違いかまとう空気の違いかふたりの女に似通ったところはひとつもなかった。ルクがアリスの行動を監視するようになって一週間がたつ。チャンとの接触はまだない。
 ユンは仕事を手伝わせてほしいとしつこかった。未来を視る能力はかならず役立つとも売り込んできた。たしかに彼の力を使えばアリスがいつチャンに会うか知ることもたやすい。だがルクはユンの力をすべて信じたわけではない。不確定な未来などというものに振り回されたくはなかった。
 アリスはドラッグストアへ立ち寄ってから佐敦近くの大厦へと入っていった。上階の一部は賓館になっている。マッサージ店が指定する賓館のリストにはない場所だ。おそらく店には内緒で小銭を稼いでいるのだろう。
 大厦の細い階段をあがって薄暗い廊下を進み、突き当たりのエレベーターを見上げる。階数をあらわす数字がかすかに明滅しながら増えていく。エレベーターは古く、ルクのもとにまでガタゴトと揺れる音が響いた。
「十二階、新東方賓館の九号だよ」
 すぐうしろから聞き覚えのある声が囁く。振り返ると先日とおなじパーカーを着たユンがにこにことしながら手を振っていた。
「おまえ……、あきらめたわけじゃなかったのか」
「ぼくだってチャンの死をこの目でちゃんと見たい」
「それなら、おれの未来を覗けばいい」
「そうだね、でも未来は未来でしかないから」
 一瞬、ひどく大人びた顔をしてユンは目を伏せた。
「だからぼくはこの一週間で三度もアリスを指名した。たしかな未来だと自分を納得させるために、三度も」
 指を三本立てる向こうに、神妙なユンの顔がある。ルクは片目を眇めてユンを見下ろした。
「自分を納得させるため、ねえ。へえぇ、おれにはボロボロの金を差し出しながらアリスは三度も指名するわけか。それはずいぶん高額な経費になったな」
「そうなんだよ! もうほんとすっからかん! でもそのおかげでここに来ることができた」
 引き返してきたエレベーターのドアが軋みながらひらく。ルクは当然のように乗り込んできたユンを蹴り出そうかと考えながら、未来が視えるユン相手に抗うのも無駄に思えてそのまま十二階へ向かった。
 賓館のドアをあけると、破れかかった深紅のソファで受付係の老人が居眠りをしていた。そばの鳥籠ではカナリアが気まぐれに歌をうたっている。奥からはラジオの音がよく聞こえた。廊下にはさまざまな国の言葉があふれて、たくさんの種類の鳥たちが囀っているようだった。
 九号室の前に立ち、ルクはユンを遠ざけた。部屋へは入ってくるなと身振りで念を押す。ユンが舌打ちしながら柱のかげに身をひそめるのを待って、ルクはドアを乱暴に叩いた。
「おいアリス、アリスだろ! おまえ、勝手になにしてんだ! 商売するときは必ず店を通す契約のはずだ。いくらで客をとってる。とにかく出てきて話を聞かせろ。出てこないなら店長に言いつけるぞ!」
 それだけ言うとルクはドアの前から壁伝いに一歩身を引いた。すぐにアリスが飛び出してくる。
「だれ! ちょっと、出てきなさいよ!」
 ルクはアリスが開けたドアの裏で息をひそめた。うろたえるアリスの影が廊下をさまよう。彼女は一度部屋へ戻ると鞄を引っ掴んですぐに出ていった。それを見送って、ルクは部屋のなかへと体を滑りこませる。なかの様子を窺おうと耳を澄ますと、背後で静かに鍵を閉める音がした。ルクはもはや驚いたり振り返ってユンだと確認するのも億劫に思えた。
 狭い部屋のなかにはセミシングルのベッドがふたつ、小さなサイドテーブルを挟んで押し込まれていた。片方のベッドには全裸でうつ伏せになった男の姿がある。かすかにいびきが聞こえてくる。そっと顔を覗かせたユンがうなずいた。
 ルクは足もとに落ちていた濡れタオルを拾いあげてチャンの背中に飛び乗った。片腕を背中でひねりあげ、もう一方の肩を膝で押さえつける。チャンは間際の鶏のような声をあげた。
「だっ誰だ、てめえ!」
「静かにしてくれ」
 チャンの口もとをタオルで覆って首のうしろで縛った。いつものルクならそのまま流れるように仕事に入る。だが今日は隣に依頼人がいる。ルクはユンを見上げた。
「どうする」
「うん……」
 ぼんやりとした返事をしながら、ユンはじっとチャンを見つめていた。はじめて会ったときに見せた、あの神がかった眼差しでチャンの未来を見定めている。チャンはタオルの下でくぐもった悲鳴をあげた。肉体的な痛みを凌駕する根源的な恐怖に、ルクはわずか同情する。
 ユンは押さえつけられ自由がきかないチャンの手をとり、人差し指をつまみあげた。
「どうしてマリーの爪を剥がしたの」
 ルクはチャンのタオルをわずかに弛める。チャンは声を震わせながら叫んだ。
「ふざけんなよ、おまえら! どこのどいつか知らねえが、おれにこんなことをしてただで済むと思うなよ! おれの親父はなあ――」
「質問にこたえて」
 つまんだ人差し指を握りなおして、ユンはチャンの指を本来曲がらない方向へしならせた。
「いっ……! なんでって、そんなこと覚えてるわけ」
 チャンはふと口を噤んで、薄暗い目を細めて笑った。
「……いや、覚えてるよ。あいつの爪がおれの背中を引っ掻いたんだ。それが許せなかった。ほんのすこしでも痛い思いをするのはおれの役割じゃない。マリーだ」
 忍び笑いを洩らしながらチャンは続ける。
「マリーはほんとうにいい女だった。おれたちは最高の相性だったよ。どんなプレイだってあいつは嫌な顔ひとつしないで、チップをはずんでやればなんだってした。顔をゆがめながら、涙を流しながら、それでもあいつはやめてとだけは言わなかった。……なあ、ずいぶん若いがおまえもあいつの男だったんだろ? だったら知ってるよな、あいつの使い心地は」
 ユンの顔から血の気が引く。こわばって表情を失くした眼差しは暗いうろのようだった。
 チャンの腕がベッドへ放り出される。同時にルクの視界からユンの手が消えた。ルクがユンの思惑に気づいたときには、慣れた重みがベルトから抜き取られていた。
 ユンはチャンの頭へ銃口を向けて安全装置を外す。
「マリーは優しい人だった。ひったくりをしたぼくに、今日はお金が入ってないから明日また来てくれって言ったんだ。おなじ時間に仕事が終わるからって。次の日まさかと思って見に行ったら、ほんとうに店の前で待ってた。帰る家がないと話せばベッドを貸してくれて、服まで一緒に買いに行ってくれた。親にだってそこまでしてもらったことなかったのに……、バケモノって呼んで汚いものを見るような目で睨みつけるばっかりで……。だけどマリーは、あかの他人の、ぼくに……」
 ユンは奥歯をぎりぎりと噛みしめながら吐息を洩らした。指先が引き金に触れる。
「どうしてマリーが、マリーが殺されなくちゃならない」
「やめろ、ユン」
 ルクはユンへと手を差し出した。
「これはおれの仕事だ。邪魔をするな」
「だけどこれはぼくが依頼した、ぼくの殺意だ」
「なら、どうしてはじめから自分ひとりでやらなかった」
 殺すだけなら銃があればいい。ただ殺すだけで完結する悲しみや怒りならルクを雇う必要はない。
 ユンはだって、と声を詰まらせた。
「ぼくとおなじ場所に立ってくれる人が欲しかった。マリーのために、マリーを思って実行してくれる人が。ぼくひとりだと、それが現実なのか願望なのかわからなくなりそうでこわかった。たしかにこの瞬間があったんだってぼくといまを共有してくれる人が欲しかったんだ」
 胸の砂地をひっかくような声だった。痛みにまで達した感情の痙攣がルクの肌にも伝わってくる。ユンのうちで育った感情はユンのうちに深く根を張り、いまにも彼自身を食い破ろうとしていた。
「おまえ自身のためじゃなくマリーのためならなおさら、銃なんかで殺すな。マリーのほうがずっとつらい思いをしたことになる」
 ユンははっとルクを振り返った。ルクがふたたび手を差し出すと、今度はそこに銃の重みが戻った。
 チャンの口にタオルを噛ませて汗ばんだ首に手をかける。早々に骨を折ってしまわないよう気をつけながらゆっくりと絞めていく。ルクは最後になってしまったマリーのギムレットの味を思い返していた。搾りたてのライムジュースとシロップのバランスはほかでは味わえないものだった。
 はじめは激しく抵抗していたチャンもすこしずつ動きが鈍くなり、喘ぐように喉を鳴らすとやがてぐったりとして静かになった。
 ユンはしゃがみこんでチャンの虚ろな目を覗きこんだ。
「未来を視るより、過去が視たい。最後にこの目に映ったマリーに会いたい」

 日付が変わっても街にはまだ夜を楽しむ人の姿があった。ただ騒ぐばかりではなく、うまい酒を味わうように人々は夜に身を委ねる。ルクはときおり海外へ身を隠すことがあるが、生まれ育った街を思い出すときはきまって夜明けに至るまでのこの景色だった。
 彌敦道をのんびり歩くうち小腹が減ったので二十四時間営業のファストフード店へ入った。ユンに座席選びを頼んで適当に注文をする。カウンターでハンバーガーが出来あがるのを待ちながら窓際の席に座るユンを見やった。パーカーのフードをすっぽりかぶって、体を丸めて身じろぎもせずじっと外を眺めていた。その背中はルクが思っていたより大きい。
 トレイをいっぱいにして戻ると、ユンは一瞬驚いたあと声を出して笑った。
「最後の晩餐がこれかあ。一度でいいから三ツ星レストランに行ってみたかったなあ」
「悪かったな。いらないならそこで見てろ」
「ありがたく頂戴いたします」
 ユンはハンバーガーにかぶりつき喉を鳴らしてコーラを飲んだ。ルクも負けじとハンバーガーを頬張った。互いに口のまわりをソースだらけにしながら黙々と平らげていく。デザートがわりの湯通粉を飲み干すとじわじわ笑いが込みあげて、たまらずルクが笑いを洩らすとユンも腹を抱えて笑った。なにを話すでもなく、ユンはテーブルにだらしなく突っ伏し、ルクは椅子に浅く座って首をもたげながら街のネオンがひとつふたつと融けていくのを静かに見つめた。
 やがてけたたましいサイレンを鳴らし何台ものパトカーが走り抜けていった。テールランプの残像がまなうらで赤く揺らめく。
 ルクとユンはどちらからともなく席を立つと、明かりが届かない夜の街へと消えた。

―おわり―