夢も現実も、どちらもぼくが見ている世界。
だったら現実が夢のように曖昧でもいいと思っていた。まるで幽霊みたいに、まるで空想のいきものみたいに、現実感のない現実こそがぼくのすべてだった。
そんなふうにふわりふわりとした日常で、風のむくまま気のむくまま君と出会って、ぼくははじめての恋をした。
恋、恋、恋、と何度もつぶやいて、君はいつだって鈴のように笑って、手毬のように跳ねた。どんな瞬間も、同じ君はいない。さっきの恋といまの恋では、声の大きさも瞳の輝きもちがう。きっとそのときにしかできない恋をしている。息を吸って恋をして、キスをして恋に落ちて、見つめあったら恋がはじまって、手を繋いだら恋に絡めとられて。そうやって、ひとつ瞬きをするたびに、ぼくらは真新しい恋をした。
君のからだは雪のように真っ白で、舐めたらハチミツみたいにあまくって、ぼくが奥まで触れると泣いちゃうんだ。泣かないでよ、いつもみたいに恋、恋、恋ってつぶやいて、とお願いしたら、かたく目をつむって首を横に振り、君は大好きって囁いた。
好きってなに。ぼくが尋ねると君はチェリーピンクの唇を薄くひらいて、ぼくの下唇に咬みついた。吸って、咬みあって、戯れに息を殺してみたりして、爪の先までどくどくと脈打つから、これが好きってことなんだと知った。いいね、好きって。すてき。大好きだよ、ぼくも君のことが大好き。好きって、こんなに気持ちいいから。
やわらかで、いいにおいがする君のからだを抱きしめて、夢でも現実でもない、君とそこらじゅう繋がりあって辿り着ける場所でぼくは眠る。ふたりの体温はちがったけれど、それが少しずつ混ざりあう。夢と現実が境い目をなくすみたいに、ぼくたちが溶けだしてひとつになっていく。これが生きてるってことなの、だったらぼくはいつまでも生きていたい。君と生きていたいよ。
君は、返事をしなかった。
現実なんてどこにもなくて、あるのはぼんやりとした世界だけで、ここが本当はどこなのか、そんなことは誰も知らないから、ぼくはやっぱりふわりふわりと漂っていた。ただ、君と肌を重ねているときだけは痛みがあって、よろこびがあって、泣いたり怒ったり笑ったりして、だからこそぼくはどんな瞬間も正気でいられるはずだった。
あの日、君がいなくなるまでは。
ぼくは君をさがした。君がよく隠れていたクローゼットも、寒いねと肩を寄せあった、星の見えないベランダも、宝石箱みたいとテールランプを眺めた歩道橋も、取り残されそうなほど足早なひとごみのなかも。君と過ごした場所はひとつもらさず全部さがしたんだ。
だけど君はいない。いるのはぼくと、ぼくのなかで笑う、いつかの君だけだった。君の口ずさんだ下手なハミングを、空へ投げかけてみる。そうすれば、この耳に聞こえる君の声が本当になる気がして、何度もくりかえしくりかえし、ぼくはうたった。
君の声はあふれてくるけれど、どこにも君の姿がない。聞こえるのはぼくの涙声ばかりで、髪を撫でてくれる君はいない。
どこへ行ってしまったの、かくれんぼなんてしたくない、お願いだからはやく出てきて。そしてまた、ぼくに痛みとよろこびをちょうだいよ。
いつのまにか夜になって朝がきて、また夜が更けたけど、君はぼくのところへ帰ってきてくれなかった。涙がこんなにも出るなんて知らなかった。その涙が枯れ果てて、自分がからからの枝になってしまうことも知らなかった。どこだかわからない道端でうずくまっていると、いくつもの足に蹴り飛ばされた。ぼくはボールみたいに転がって、停められた自転車の列へ突っこんだ。
涙のあとをなぞり、つめたい血がながれる。立ちあがると足元がふわりふわりと浮いてしまって、支えを失った看板のようにたおれてしまう。
痛くない。痛くないよ。それより、君がいないんだ。
ぼくの居場所がわかるようにうたいつづける。何度でもくりかえし、君を呼ぶ。涙が枯れて、声がつぶれて、たとえぼくが君を忘れてしまっても。
胸に棘が刺さっている。触れてもわからない小さな棘が、じくじくと疼いて熱をおびている。これはきっと君の棘。君が残したぼくへの愛。
そう。それはたったひとしずくの毒だった。
―おわり―