クジラがとんだ日

 空には、クジラが棲んでいる。

* * *

 お空のクジラさん。

 ミナはそのクジラをリートって呼んでるの。
 でもね、まだ見たことはないんだよ。

 デリートのリート。

 何でも消してくれる魔法の言葉だって、パパが教えてくれた。
 リートは世界中をきれいにするお仕事をしてる。大きな大きな掃除機みたいに、きたないゴミとかいらないもの、嫌いなものとか怖いものをすごい力で吸い込んでくれる。大変だな、ミナならきっと泣いちゃうなと思うけど、リートは今日も世界のどこかで頑張ってる。
 そういえば最近、ミナの近くにもこっそりと来たみたい。だってね、パパがお仕事に行ったきり、帰ってこないんだよ。
 きっとね、リートが来たの。
 ミナはパパのことが大好きだったけど、ママがパパなんていらないって言ったから。リートは、ミナが大好きなママのことを大切にしてくれたんだよね。

 隣のおうちのカズシくんが、パパとママとどっちが好き?って聞くから、どっちもって答えたら、カズシくんはミナを指差して笑った。
「うそつきミナ! うそつきミナ!」
 ちがうもん! ちがうもん!
 ミナはミナの周りを飛び跳ねるカズシくんに、大きな声でそう言わなきゃと思ったけど、どうしても言えなかったんだ。
 パパとママのどっちが好きなんてわからないけど、パパはリートが来る前から、あんまりおうちにいなかったから、ミナは全然平気なの。
 それって、パパのことが嫌いってことなのかな。
 ママの方が好きってことなのかな。
 よくわかんない。平気ってことは、なんにもないってことなのかな。嫌いって、いらないってことなのかな。パパがいなくても、平気だよ。でもパパがいた方がずっといいよ。
 もし、ママまでパパみたいにいなくなったら、どうしよう。
 リートへ。
 ミナ、いい子にしてるから。
 だから、ママは吸い込まないでね。

 リートはとてもはたらきものだけど、おんなじくらい恥ずかしがり屋さんだから、みんなの前には出てこないんだよ。
 でもね、本当に、本当にたくさんのものを吸い込まなきゃいけないときだけ、こっそりとはできないから、しかたなく出てくるの。
 音を立てて、風になって、木を揺らして、嵐を起こして。道の端っこに溜まって泥んこになった落ち葉とか、公園のお砂場に置き忘れたおもちゃとか、お花のそばに並んだ自転車とか。いらないものを全部集めて吸い込んでくれるんだよ。
 そんな日は、きっとすごくお天気がいいはずだね。だってリートは雲だって吸い込んじゃうから。
 いつかミナも吸い込まれちゃうのかな。サキちゃんと遊べなくなるのは寂しいな。アサコ先生に会えなくなったら嫌だな。カズシくんはひどいこと言ったりするけど、ミナが泣いてるときはいつだって助けてくれるんだよ。
 リートはいつ、ミナのところに来るのかな。それがいつなのかわかればいいのに。そうしたら、サキちゃんに大好きなうさぎのぬいぐるみをあげるの。アサコ先生には、上手ねってほめてもらった絵を描いてあげる。カズシくんが喜んでくれるものが何か、ミナにはよくわからないけど、ミナの秘密の宝箱をあげようかな。中には、海で拾った貝殻とか、公園で見つけたきれいな石とか、帰り道に落ちてた強そうな木の枝とか、そばにあったかわいいどんぐりとか。
 ねえ、リート。教えて。
 リートはいつ、ミナのところに来るの。
 みんなに、ばいばい、言わなきゃ。

 ママ、悲しまないで。ミナがいるよ、ここにいるよ。ずっと一緒なんだよ。リートにだって吸い込めない。だってママとミナはとっても仲良しだから。ミナはママのことが大好きだから。
 お願い、ママ。泣かないで。こっちを向いて。ミナと遊ぼう。お天気がいいから、お買い物に行こうよ。ママが大好きなプリンを買おう。ミナもお手伝いするから、カレーにしよう。あんまり好きじゃないけど、お酒のんでもいいよ。
 おんなじくらい痛いのかな。ママも、ミナくらい痛いのかな。ママとミナは仲良しだから。
 イズミちゃんが言ってたよ。ミナのママは若くてきれいで羨ましいって。
 ママ、ママ。ミナの自慢のママ。大好きなママ。
 お願い。もう悲しまないで。一緒に行こうよ。
 助けて、リート。
 ミナとママをお空に連れてって。ビー玉みたいに真っ青な、お空の向こうに吸い上げて。
 ママが泣きながらミナをぶつから、ミナはママがかわいそうで泣けなかったよ。

 * * *

 空には、クジラが棲んでいる。

 ミナはまだ幼かった。けれど自分でインスタントラーメンが作れる、働き者の女の子だ。キッチンには背丈が届かないから、椅子にのぼって鍋を覗き、出来上がったらガスレンジの前で食べる。ラーメンが入った鍋を運ぶのは、ミナには冒険に出るくらい勇気がいることだった。
 眠るときは服や雑誌をかきわけて、敷きっぱなしの布団に入った。寒い日は丸くなっても体が震えて、足の小指はゴム人形のようになった。
 幼稚園の健康診断の日は、必ず休んだ。あとから医務室へ連れて行っても、彼女は絶対に服を脱ごうとしなかった。
 腕は木切れのように細く、肩はハンガーのように骨ばって、髪は使い古した箒のようだ。それでも彼女は健気に笑い、懸命に走る。
「パパもママも大好き」
 それが彼女の殺し文句だった。その一言で誰も手出しができなくなることを、彼女は本能的に知っていた。
 ミナはよく、空を見上げていた。そこに何ものかがいるように、ぽつりぽつりと語りかける。呟きは消え入りそうで、聞き取ることはできない。だが空を見つめる彼女の眼差しは優しさに溢れ、慈悲深さに彩られ、だからこそ覆しがたい諦念で澄み切っていた。
 腕の中にいつも抱えたおえかき帳は、真っ青に塗り潰されて、白いクレヨンで描いた棘の生えた楕円が浮かんでいた。

 薄雲が輝く、よく晴れた午後だった。
 ミナはアパートのすぐ横にある公園で、ブランコに乗った。立って漕ぐと危ないから、座ったまま精一杯地を蹴り上げる。
 穴のあいた靴の中には、小石や砂が入ってきた。すぐに足が届かなくなり、体全体を使ってブランコを前後に振り上げる。勢いで靴が片方飛んでいったが、ミナは気にもとめなかった。ブランコが軌道にのると、ミナは空に手を伸ばした。
 少しでも空に近づく。あと少し、あと少し。
 風がはやくなり、筆で書いたように淡く浮かんでいた筋雲が流され霧散していく。空は青以外の一切の色を脱ぎ去り、余分を削ぎ落とした。
 青すぎず、白すぎず。徐々に無色へ近づいていく。
 空は煌いていた。雨に濡れた蜘蛛の巣のように。
 少女の頬に喜びが灯る。

 そのとき、少女の空にクジラがとんだ。

―おわり―