THE FATES

THE FATES vol.1
0.胎動

血に導かれしその者達
強大なる力を持ちて
すべての世界あやつらん

守護人ありてその者達と共に
魔を滅ぼす

 * * *

 深い深い森の中、一人の青年が息も絶え絶えに走っていた。艶やかな黒髪は無残に乱れ、汗で額に張り付いている。緊張で冷たくなった手には、ひとつの杖がしっかりと握られていた。
『兄さんには使わせない』
 そう言って飛び出してきたのは、ついさきほどのことだ。土から剥き出しになった木の根が、彼の行く手を阻む。足はもつれ、青年はふらつきながら大木に寄りかかった。全てが遠い過去のことのように思えた。
 行く場所など、どこにもない。追手に見つかれば、極刑に処されることは明らかだった。それほどの罪を彼は犯したのだった。
 今なら、自らを喪うことも夢ではない。
「許してくれ」
 青年は黒い杖を抱き締めて嗚咽した。愛する女性のため復讐すらできなかった彼に、一閃の光も射してはいなかった。禁忌呪法という暗い誘惑が目の前に横たわる。
 震える手で、彼は土を掘り始めた。そこに杖を差し込み、湿った土をかぶせて叩いた。乾いた涙が頬にあとを残す。青年は杖に手を翳した。爪には黒い土が詰まっていた。彼はそこにある全てのものがいとおしくなり、手のひらで地面を撫でた。雑草の新芽さえ生を叫ぶ。永遠にも思える穏やかな時間に青年は瞳を閉じた。彼は生まれて初めて、自分が生きていると強く感じた。
 草を踏む音がして、青年はうっすらと目を開く。視界を埋めていた緑が、這うように枯れていた。それは青年の方へと近付いてくる。
 噎せ返るような澱んだ空気が青年を包み込む。みるみるうちに、地面に張り付いた指が赤黒く染まっていく。絶えた緑の上に影が伸びる。それは青年をも覆っていた。
 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
「何をしている」
 上から降ってきた声に驚き、青年は肩を揺らした。座り込んだままの彼がようやく顔をあげると、そこには一人の少年が立っていた。若く見えるのは外見だけで、彼が醸し出す雰囲気は青年よりも大人びていた。
 少年の背後には、昏い穴が穿たれていた。息の詰まるような空気はそこから這い出ている。青年にはあの世に思えた。
 少年は杖を一瞥した。
天地(あまつち)の杖か」
 透き通った瞳が青年を捉える。そこには静かな情熱が渦巻いていた。誰もその瞳からは逃れられない。青年は口を開けたまま頷くことしかできなかった。
 少年が指を鳴らすと、彼の背後にあった穴は一瞬にして消えた。
「お前たちの大事なものなんだろう、それは」
 少年は杖に手を伸ばし、土から引き抜いた。青年の黒く汚れた両手が空を切る。見上げると、空の青に少年が重なった。
 遠くからの気配に、少年は素早く振り返る。すぐにも向き直ると青年を見据え、装飾の施された杖の先で顎を持ち上げた。
「死んでまで負けたいのか」
 少年の言葉に、青年は目を瞠った。
「自殺なんてものはクズがすることだ。獣でもそんな愚かなことはしない」
「なに」
 青年はあまりの侮辱に耐えられず立ち上がった。並ぶと、少年はずいぶん小さかった。
 少年の白い素肌を風がそよぐ。
「お前、勝ちたくはないか。世界にお前の力を見せ付けたくはないか。全てをその足元に跪かせてみたいとは思わないか」
「世界が、跪く」
 それは夢破れた青年にとって、ひどく魅力的な言葉だった。
 少年の手は痺れ始めていた。抗いがたい強さで力が奪われていく。滑らかな杖を撫でると、手のひらに鋭い反撥の力を感じた。
 遠くの気配は数を減らしながらも近付いていた。いずれこの場所までくる。彼らは道を選ばなくてはいけなかった。
 黙して考え込んでいた青年が、掠れた声を絞り出した。
「ありえない。無謀だ」
 表情は絶望と諦念に満ちている。しかし少年は見た。青年の混沌とした瞳の奥に、全ての闇を退けるほどの光が瞬いていた。彼だけが知らない、彼だけの強さ。少年は心を決めた。
「無謀なことなど何もない」
「そんなこと、なぜ言い切れるんだ」
 青年は言い捨てると少年に背を向けた。少年は目の前の広い背中に強い口調で言う。
「信じられないというのなら、お前のその命、今ここで俺に絶たれたと思え」
 少年は彼の背中に杖の先端を押し付けた。
「こんなところで惨めに死んでいくなら、いっそ俺にその命を預けてみろ。そうすれば何も怖いことなどないはずだ」
 一切の迷いを持たない少年の声は、思わず青年を振り向かせる。初めて二人の視線が交錯する。
 少年は鋭い眼光で青年の闇を見つめる。
「死んで負け犬になるには、お前の目は強すぎる」
「まさか」
 青年は失笑をもらす。しかし少年の言葉に嘘や慰めはなかった。それを感じ取った青年は静かに少年を睨みつけるしかできない。
「死なせてくれない俺が憎いか。いらぬ情けが屈辱か」
 少年の端正な顔に歪んだ笑みが浮かぶ。挑発だとわかりながらも青年の頬は羞恥に痙攣した。
「貴様に俺の何がわかる。この罪と痛みを」
「わかりたくもない」
 少年は目を閉じて言い捨てる。
「なにっ」
 青年は少年の胸倉を掴み上げた。少年の不遜な顔色は毫も変わらない。その余裕が青年を戸惑わせる。
「憎いか」
 少年は真っ直ぐに青年を見つめた。怒りと恥辱で青年の顔に朱が走る。わななく腕を少年が強く掴んだ。
「もしそうなら俺に勝て。誰にも負けない憎しみで勝ちを奪え。この世界は、勝つか負けるかだ」
 掴んだ手と腕の隙間から青白い煙が噴き出した。青年は顔を苦悶に歪める。味わったことのない痛みが彼に襲いかかる。凄まじい力が煙を巻き込み竜巻となった。平静な森をよそに、二人はその中に取り込まれる。唸る風に聴力は支配され、青年は立っているので精一杯だった。
 暴風に髪を乱されながら、少年が目を細めて微笑んだ。彼の微笑みは場違いなほど穏やかで、青年は思わず心を奪われた。腕から力が抜ける。少年はそんな青年の様子を見て、腕から手を離した。途端に静寂が戻る。
「まずは俺を負かしてみろ」
 少年は空色に光る杖を青年に差し出した。
「そうすればこの世界、お前のものだ」

 そのとき、一つの契約(いのち)がうまれた。

序章:胎動・終