THE FATES

3.異端(2)

 炎は薪を犯し、勢いよく踊っていた。余波が体を押し包み、頬は熱く火照った。
「賞金稼ぎは辞めようと思う」
 火を囲んで羅依は呟いた。由稀と亜須久は反応を示さない。聞いているのかどうか羅依にはわからなかった。それでも羅依は続けた。
「兄貴の気持ちは嬉しいし、その分だけ少し気が萎えたから。それに何となく、今はアシリカに行かなきゃいけないのかな、とも思うし。なんでだろうね。本当にそんな気がしてくるんだから」
 冷えてきた空気を感じながら、羅依は飛び立った加依を思った。腕の中の上着に、彼の温もりはもうない。それでも抱き続けることで、彼に触れているように思えた。
 加依は優しかった。そして羅依は戸惑っていた。
 十日前に出会ったばかりだが、もうずっと昔から一緒にいるような錯覚に陥る。血の繋がりなのか、それとも双子という特別な関係だからか、羅依には見当もつかなかった。ただ、六年ぶりに現れた家族に、嬉しさと気恥ずかしさを感じていた。
 昔、母は言った。
『人はね、みんな幸せになる権利があるのよ』
 今この胸に確かにある塊が幸せというのなら、それは燃え盛る炎の奥の奥にある、芯の部分。何ものにも動じない、揺らめきさえも許さない白い炎だった。羅依は惹かれるように恍惚として炎と見つめ合った。丘に吹く風が心地よいと思うように、炎は強く穏やかだった。決して自らを崩すことのない凛とした眼差しが、加依の微笑みによく似ていた。
 羅依は膝を抱えて、兄の上着に頬を寄せた。夜露が降りて、冷たかった。そこに羅依は刃物の感触を思い出した。血肉を切るのは刃ではなく、振り払っても立ち消えない弱さだった。目を閉じると、夜の舞台はすぐに二年の時を越えた。
『よくもまぁ、こんな玩具を振り回していられる』
 指先が痙攣した。羅依は悟られないように上着に隠した。
 鬼使(きし)から受けた屈辱を返すまで、羅依は白い炎に手を翳すことはできなかった。
「あの日を終わらせたなら。あたしは……」
 言いかけたが、羅依はすぐに口を噤んだ。それまで寝転がっていた由稀が、体を起こして人差し指を立てた。
「銃声だ」
 由稀の一言に羅依と亜須久は腰を浮かせて耳をそばだてた。辺りの湿気を吸い込んだような緩い風が、かすかな硝煙の臭いを連れてくるようだった。亜須久は焚き火に砂をかけて消した。すぐに乾いた破裂音が響いた。何発か続く。音は徐々に近づいていた。三人の緊張が高まる。羅依は素早く加依の上着をはおった。
 目が暗さに慣れて、物の輪郭がはっきり見えるようになる。風はやみ、木々は直立していた。その足元で、低木が揺れた。黒く染まった緑の中から白い腕が突き出た。一人の男がよろけるようにして広場に姿を晒した。細身の男だった。腹を押さえる手は、血まみれになっていた。体を曲げ、肩で息をしている。
「撃たれたのか」
 由稀が男に駆け寄ろうとする。気付いた男は、顔を上げた。それを見て、羅依は由稀の手を引いた。由稀は不審げに羅依を振り返る。羅依は自分の顔が凍りつくのを他人事のように感じていた。
「鬼使・瞬」
「え」
 驚いた由稀は男をじっと観察した。男は痛みを堪えて口を歪めた。羅依には彼が笑ったように見えた。
「お前か」
 瞬の声は、ひどく掠れていた。羅依は胸を掴まれたように苦しくなった。
 ずっと追い続けた男の姿がそこにあった。彼のことを考えていた矢先だ。羅依は運命よりも因縁を感じた。やはり白い炎を阻むのは、この男だったのだ。羅依は瞬を睨みつけた。
「まさか、あの二年前の」
 由稀は街でよく見かける掲示板の写真を思い起こした。男をよく見ると、整った顔立ちの中で深緑の瞳が際立っていた。直観的に本物だとわかった。しかし由稀には、なぜあの鬼使・瞬がこんなにも傷つき追われているのか見当もつかなかった。
 瞬の腹から滲み出た血は、彼の腿までを濡らしていた。周囲に潜む光を全て吸い込み、彼の薄茶色の髪は淡く輝いていた。
「なぜ傷を治さない」
 瞬は微動だにしない。羅依は言葉を重ねた。
「俺と戦えば殺されるから、在りもしない傷を見せているのか。そんなことをしたって、俺はお前に容赦など」
「それでお前は納得するのか。羅依」
 瞬は一段と沈んだ声で言った。呆れ果てたのか、彼は地面に腰を下ろした。羅依は唇を噛んだ。
「思い上がりは結構だ。だが勘違いをするな。お前に容赦などさせない。戦う余地も与えてやる気はない」
「じゃあ、誰だ。お前をこんなにしたのは、どこのどいつだ」
「関係ない」
「ある。どんなに無様でも、お前は鬼使・瞬だ。他の誰に殺されても困る。お前を殺すのは、この俺だけだ」
「だったら、それが今できるか」
「え」
 羅依はできると答えられなかった。見つめてくる深緑の瞳にからめとられるような快感を、ほんの一瞬だけ感じた。瞬は何の衒いもなく羅依に斬られることを望んでいるように見えた。
「できるわけないだろ」
「そうか」
 瞬は憂いを沿えて目を伏せた。羅依は瞬を正面から覗き込んだ。
「手負いのお前を斬ったところで、俺には何の感慨もない。ただの肉片だ。お前は鬼使でなくてはいけないんだ」
 その言葉に驚き、瞬は顔を凍らせて羅依を凝視した。羅依は居心地が悪くなり、すぐに彼から視線を逸らして立ち上がった。
「お前を助けてやる。少し休めば回復するだろう」
「羅依」
夜上(やじょう)、結界を頼めるか」
「あ、あぁ」
 亜須久は戸惑いつつも、首を縦に振った。それを確認すると、羅依は瞬の腕を掴み、自分の肩に回した。
「後悔をすることになるぞ」
「そんなことは、後から考える。後悔は、先には計れない」
 羅依は瞬を大木の根元まで連れて行くと、荒々しく手を離した。一度離れた指先が、拍子を得て微かに触れた。
「宝石商人だ」
 瞬は羅依にしか届かない声でそう囁いた。声音は優しく甘かった。

 亜須久は後ろから羅依の肩に手を置いた。目顔で役目を承知すると彼女の前に進み出る。膝をつき、掌を地面に向けた。体中の神経を縒り合わせて一本にする。空気が澱み、嘔気を覚えた。しばらくすると、体は結界の匂いに慣れて緩んだ。
 周りに目を配る余裕もできる。亜須久は腹を押さえて痛みに天を仰ぐ、一人の男をじっと見つめた。瞬の口元が何事かを囁いた。亜須久には彼が治癒法を使うのだとわかった。
 鬼使・瞬。
 その名を何度胸の内で繰り返してみても、現実感が伴うことはなかった。自分の作り出した結界の中にいるなど、信じられるはずがなかった。だが目の前にいる男から漂う空気は、本能的に恐怖を覚えるほど威圧的だった。
 自分の住んでいた街にも彼の張り紙はあった。ひどく色褪せていた印象が強く、記憶の輪郭はぼやけている。
 二年前の事件に、直接の関わりはなかったが、ある程度覚えていた。長い付き合いだった客が、何人か犠牲になった。周りにいた女たちは笑いながら、あんなにいい男にだったら抱かれてみたいと言っていた。現実を直視できない彼女らの愚鈍さに腹立ち、行って来いと言ったのを覚えている。
 何の価値もなかった。単調な生活の中の、夕立のような出来事だった。
 初めて鬼使・瞬を見て、その容姿に驚いた。醸し出す妖艶さは遊女のようだった。また男とは思えないほど細い体は、虫も殺せぬ少女のように美しく儚かった。そして人を惹きつけて離さないほど、顔立ちは秀麗で際立っていた。何よりも、彼の瞳は世界の深淵のように謎めいていて吸い込まれそうだった。だが亜須久は何か決定的な違いを感じていた。記憶の中にある写真の瞬も、美しかったように思う。しかし彼が現れたとき、羅依がその名を口にしていなければ、亜須久は彼を鬼使・瞬と認識することはできなかった。今でもその違和感は消せずにいる。それほどまでに、彼の端正な顔には以前と全く違う影が落ちていた。写真の中で笑う瞬には、奔放すぎる無邪気さと子供のような残酷さが滲んでいた。爽やかでしたたかな笑顔は、人の恐怖心を一層あおった。
 結界の中は風もなく、息遣いと鼓動に満ちていた。
 亜須久は絶対的な安定感の裏に、儚く寂しげな瞬の微笑みを垣間見ていた。しかしそれも当然のことかもしれないのだ。こちらの世界では二年でも、瞬の住んでいた世界では二百年もの月日が流れている。たった一年、いや一秒でも人は変わる。二百年は充分すぎるほどだ。
 結界の中に人工的な風が生まれた。亜須久は驚いて顔を上げた。作られた風は結界の壁にぶつかり進路を変えながら、いくつもの波になった。
 亜須久は背中に悪寒を感じた。瞬の腹の傷は、ほとんど塞がっていた。