THE FATES

14.覚醒(8)

 青の継ぎ目から、薄雲が立ちのぼる。海は腹を震わすような低い唸りを上げていた。
 粘りのある風が瞬の髪を湿らせる。茜を抱える両腕に、命の感触はなかった。それでも瞬は彼女が風に晒されぬよう、腕を引き寄せ抱え込んだ。
 いくつもの死を見てきた。記憶にすら残っていないものもある。それでも、喪うことには慣れていなかった。
「茜」
 固く閉ざされた瞳が開くことはない。海のように青く深かった眼差しは、永久に目覚めを奪われた。
 瞬は強く茜の体を抱きしめた。柔らかい体は腕に沿う。悲しみ、怒り、悔しさ、虚しさ。様々な感情が浮き上がり漂う。しかしどれ一つとして、瞬の中に留まるものはなかった。全てが遠い夢に感じられた。
「俺がお前を殺したのか」
 声は掠れて口の中でくぐもった。瞬はゆっくりと足を踏み出す。
「みんな、俺が殺したのか」
 乾いた瞳がうつろなまま波をさまよう。足首を絡め取るように、海が身をくねらせる。冷たさは感じなかった。体の奥の奥の方が、痛いほどに凍えていた。
 徐々に失せていく温もりが、瞬を呼ぶ。寄せては引く波に意識が揺らぎ、景色に同化する。
「あいしてる」
 腿まで波が喰らいつく。足が重い。それでも瞬は見えないものを見つめたまま、前へと進んでいた。
 茜の爪先が水を掬う。
「あいしてる……」
 大きな波が胸を押した。一歩浅瀬へと追い返される。
「なあ、茜」
 瞬は水を含んで一段と重くなった茜の体を抱え直し、狭間へ向かった。
 青と青の境界線。そこから生まれる雲の無常。
 世界の果てに、一歩でも近づきたかった。
 目の前に、木洩れ日を受けた染芙の笑顔が蘇る。その向こうには、優しかった母の温もりが広がっていた。
「教えてくれ」
 立ち止まり、腕の中を見遣る。
『あの頃に、帰りたいね』
「あいしてるって、なんだ」

 羅依は真小太のあとを追って、階段を駆け下りた。向かい風を突き進む。視界には海原が広がった。階段は砂の底へ続いていた。
 砂浜に人影はない。羅依は視界にかかる髪を押し退け、必死に瞬の姿を探した。
 白い泡を巻き上げ、波が足元まで押し寄せる。
 真小太が鋭く吠えた。海に向かい、何度も声を上げる。羅依は促されるように海へ視線を投げた。
 波間に彼の背中が見えた。
「瞬!」
 叫ぶと同時に駆け出した。羅依は波を乗り越えるようにして瞬を追った。
「行くな、瞬!」
 波の強さに羅依は足をとめ、呼びかけた。声の限りに彼を呼んだ。瞬の背中は、みるみる離れていく。どんなに叫んでも届かない声に羅依は唇を強く噛んだ。思わず涙が溢れた。
「また、捨てるのか」
 羅依は小さく呟き、水を掻き分けるようにして進む。体を押す波の強さが、彼女の気持ちを押し出した。
「お前はもう一人じゃないんだ!」
 飛沫が頬を濡らす。目はかすみ、瞬の姿がうつろいだ。
 足元が悪くなり、羅依は靴を脱ぎ捨てた。途端に海面が近づいた。顔を上げると、瞬の背中はすでに見えなくなっていた。金茶色の髪が、うねる波に見え隠れする。
 間に合わないと羅依が思ったとき、瞬は水平線に飲み込まれた。
「瞬……っ」
 羅依は爪先で海底を蹴り上げ、潜り込んだ。少し泳ぐとすぐに底は抉られたように深くなっていた。羅依はそこに沈みゆく瞬を見つけ出した。息苦しさを堪えて彼女は瞬を追う。精一杯腕を伸ばし、胸の奥で何度も彼の名前を呼ぶ。
 寂しい色と言った彼は、誰よりも多くの寂しさを知っていた。
 それをいとおしいと感じた自分を、羅依は今ようやく受け入れた。
 指先に瞬の髪が触れる。羅依は鉛のように重くなった足を力の限りに動かした。瞬の体が岩に当たる。それを機に、羅依は一気に近づき腕を掴んだ。目の前に水泡が舞う。見上げると海面は空のように遠かった。上がるまで息が続くのか、上がったところで陸まで戻れるのか。不安が波のように押し寄せるが、羅依は瞬の体を腕に抱え込み上を目指した。
 悩むのは、もっと後からでも遅くない。今はとにかく、瞬を助けたかった。
 思ったほど、上がることに労力はかからなかった。浮力の後押しを受け、映りこんだ空が近づく。羅依はふと、海底に視線を向けた。薄暗い中に、かすかに揺れる影があった。羅依には茜に見えた。
 足で水を蹴りつける。光に手が届く。ようやく水中から抜けたときには、頭が朦朧としていた。
 急いで瞬を引き寄せる。
「瞬、瞬」
 顔を覗き込むと、頬は青白く瞳は閉ざされていた。波が二人を覆う。羅依は何度も水を飲んだ。喉の奥が焼けるように痛かった。
 羅依は瞬の両脇に腕を入れ、浜に向かって泳ぎ始める。
 浅瀬まで辿り着くと、瞬の重みが腕にのしかかった。真小太が駆け寄ってくる。滴る水を濡れた袖口で拭いながら、羅依は歯を食いしばり瞬を引きずった。真小太も瞬の服を咥え、羅依を手伝う。打ち寄せる波が瞬の足元を濡らすほどまで引っ張り上げると、羅依は砂浜に倒れ込んだ。
 息が切れて汗が吹き出た。ひどく喉が渇く。動悸で耳が塞がれる。舌の上がざらついた。
 振り返ると、瞬の体が風に吹かれてあった。湿った砂が腕や頬に吹き上げる。有機物として、存在が世界に溶け込んでいく。
 羅依は瞬の口元に頬を寄せた。息がない。
「え……」
 羅依は口を開けたまま、その場に座り込んだ。
 このまま逝ってしまうのか。
 ようやく受け入れた気持ちを無視するように、彼は。
「そんなの」
 瞬の髪は濡れて色濃く、肌は月光のように白かった。羅依は膝の上で拳を握りしめた。
「そんなの許さない」
 疲れ果てた体に鞭打って、羅依は瞬の体をゆさぶった。皮膚は冷たい。
「お前は俺が殺すんだ」
 首筋に手を当てると、弱く脈打っていた。まだ間に合う。
「戻ってこい」
 羅依は瞬の上に馬乗りになって、彼の胸に両手を押し付けた。瞬の澱みも一緒に押し出せるならと願い、羅依は彼の胸に体重をかけた。手の平にあたる骨の感触が羅依の希望を繋ぐ。この体は、まだ生きている。
 生きたいと望んでいる。
「目をあけろ。みせてくれ」
 お前の寂しい色を。
 手の平の下で、蠢くものがあった。羅依の動きに呼応している。放り出された瞬の指が痙攣を起こす。羅依は腰を浮かせて瞬の顔を覗き込んだ。長い髪が彼の頬を撫でる。
「瞬」
 まるで眠っているようだった。あまりにも無防備な寝顔に、羅依は思わず事態を忘れて見入ってしまった。彼の乾いた唇を指先でなぞる。羅依は誘われるように唇を重ね、瞬の中へ息を吹き込んだ。自分が息苦しくなるほどに。
 助けるためと自分の心を何度も押さえつけた。
「お願い」
 目をあけて、様子を窺う。
 眉間が震える。小さくうめき声がした。
「瞬!」
 羅依の呼びかけに応じるように、瞬は咳き込み水を吐いた。激しく噎せる彼を見て、羅依はその場に座り込む。ただ呆然と彼を眺めていた。
 瞬が顔を歪めて目をあけた。深緑が羅依を捉えて天を仰いだ。
「なんの真似だ」
 瞬の声はひどく荒れていた。まだ小さな咳がこみ上げている。羅依は言葉を詰まらせた。
「なぜ邪魔をした。今度こそ、終わらせられると思ったのに」
「だって」
 羅依は言いかけたがすぐに口を噤んだ。彼を納得させられる答えなど持っていなかった。
 祈るように組んだ指が、白くなる。
「助けたかった」
 俯き、小さく呟く。
 瞬は体を起こそうとするが、上に羅依が座っているので半身を後ろ手で支えた。握ったままの己の手に気付く。軋む関節をおして開くと、鍵が姿を現した。手の平には鍵の型がくっきりと掘られていた。
 帰りたいと望むのは、帰れないとわかっているから。
 茜がここまで追ってきた意味が、瞬はわかった気がした。彼女は決してあの頃の幻影を見ていたのではない。最期の瞬間をともに過ごしたいがために全てを捨ててきたのだと。瞬には、そんな彼女の我儘が嬉しかった。
 刻まれた窪みが、徐々に消えていく。
 足元の海はただ穏やかに在る。目を細めると、胸が熱くなった。
 瞬は体を起こして羅依の両手に自分の手を重ねた。羅依は顔を上げる。すぐ近くに瞬を見て、彼女は思わず視線を逸らした。
「まだ礼は言わない」
 深い樹海を思わせる瞬の瞳は遠く沈んでいた。羅依は弱々しく首を振る。
「もしかしたら、言うときは来ないかもしれない」
「瞬」
「それでも羅依、お前は自分を責めないでいてくれるか」
 瞬の声音は優しい。けれど羅依は彼に突き放されたように感じた。
「え、どういう……」
「これは俺の問題だ。もう誰も巻き込みたくない」
 強く鍵を握りしめる。羅依は呆然と瞬を見つめた。彼は悲しげに微笑んだ。
 羅依は息を吸い込んだ。
「……やだ、かまわない」
 そこまで言ったとき、真小太が激しく吠えた。ただならぬ吠え方に、二人は真小太の様子をいぶかしむ。
「真小太、どう……」
 不意に空気が重くなった。海の中にいたときのような息苦しさが辺りを包んだ。真小太は宮殿へ向かって吠え続けている。
 瞬の顔つきが途端に険しくなった。
「紅」
「え?」
 聞き返すと、腕を強く掴まれた。羅依は顔を歪めて瞬を見る。彼はじっと真小太を凝視していた。
「あれはお前の獣族か」
「そう、だけど」
「俺の言葉は聞くか」
 視線だけが羅依を射る。思わず息が止まる。
「わからない」
 そう答えるので精一杯だった。
 瞬は羅依を一度抱き上げて自分の上から下ろすと、砂に足を取られながら立ち上がった。
「じゃあ、させろ」
 瞬は宮殿へ向かった。