THE FATES

14.覚醒(9)

 息の詰まるような圧迫感が空から降ってきた。比古は顔をしかめて階段を見上げた。先にはリノラ神殿が聳えている。
「どうかしたの」
 横を歩いていた彌夕が、怪訝そうに比古の顔を覗き込んだ。彼の顔はその殆どが外套の影になっている。その中で、普段は柔和な目元が、刃物のような鋭さを帯びて赤く輝いていた。彼は以前に感じた光の塊を思い出す。濁った血の匂いが鼻孔に蘇る。
 あれからずっと探していた。それがこんなに近くにあるとは思いも寄らなかった。
「青竜の怠慢だ」
「え、何よそれ」
 彌夕は比古を睨みつける。しかし比古は彼女に構うことなく、じっと神殿を見上げていた。そのもっと海側にあるネリオズ宮殿を。
「今夜の約束にはお前が行ってくれ、彌夕」
「いいわよ」
「俺が行ったんじゃ、今度は殴りかねない」
 比古は軽く外套を上げる。光に透ける銀髪の奥で、赤い瞳が優しげに微笑んだ。

 微動だにしない紅を抱えて、由稀は叫ぶ意気を失っていた。どんなに声を張り上げても、誰も来る様子はなかった。紅の重みに引きずられるように、由稀はその場に膝を折った。
「どうしたらいいんだよ」
 ここから離れて誰かを呼んでくるべきなのか。しかし死んだように動かない紅をこのまま置いていくのは躊躇われた。
 見上げると、青く高い空が憎らしいほど穏やかだった。
 自分はこのまま何も出来ずに手をこまねいているのか。心許せる友を助けられずに、ただ絶望に呑まれるのか。
 無力だからという言い訳を背負って。
 臆病な自分に顎が震える。由稀は砕けるほどに強く奥歯を噛んだ。
「そんなことさせるかよ」
 腕の中で紅は微かに口を開き、浅い息を繰り返していた。まるで由稀を鼓舞するように。
 由稀は地面を睨みつけた。
「何も終わってないだろうが」
 由稀は紅の腕を肩に回し、腰を上げた。汗で冷えた紅の肌が、何度も由稀の恐怖を手懐けようとする。由稀は己の弱さを噛み切るように足を踏み出した。
 遠く、獣の鳴き声がした。期待が胸の奥で暴れ出す。由稀は顔を上げた。柱の陰から、真小太が飛び出してきた。彼は時折由稀たちを確認しながら振り返り、必死に誰かを呼んでいる。
「羅依か」
 由稀は紅を担ぎ直し、足を引きずり進む。真小太が吠えるのをやめ、由稀に向き直った。鼻先が誇らしげに上向く。
 すぐ後ろから、ずぶ濡れの瞬が姿を現した。
「瞬!」
 気が緩んだのか、由稀の体から一気に力が抜けた。予期せず腰が崩れ、汗が噴き出した。上を覆う影に気付き顔を上げると、心が底冷えするほどの冷静さで瞬が立っていた。鬼使に見下ろされた時でも、睨み返すくらいの自我を手放すことはなかった。だが今は、息もできないほどの恐怖に貫かれた。
 瞬は無言のまま近寄ると、紅の体を地面に横たえ、額に手を翳した。薄茶色の髪から雫が落ちる。深い緑眼は、じっと紅を見つめていた。しかし彼の横顔には、一片の色もない。
 由稀はその時、茜が亡くなったのだと理解した。
 途端に瞬の面差しを悲しみが彩る。彼の痛みを想像して声を失った。そして疑う。ここにいるのは本当に瞬なのだろうかと。義務感のために喪失感を抑え込み、果たして彼は無事なのかと。由稀の不安は満ち潮のごとく増していく。
「下がってろ」
「あ、あぁ」
 ようやく聞こえた瞬の声は、普段より掠れて痛々しいものだった。由稀は言われた通りに数歩遠ざかる。
 瞬は遠くを見るような眼差しで紅を捉えながら、胸の前で両手を向かい合わせた。
「わが命の源よ、主が前にその姿を現し、天越ゆ大いなる力を我に示したまへ」
 胸の中から神々しいほどの光が溢れ出し、手の狭間で球体を形作る。次第に光は弱まり、瞬が手の平を合わせると本来の姿を現した。
龍仰鏡(りゅうおうきょう)
 由稀の脳裏に鬼使との激闘が蘇る。霧中のように全てが曖昧としたものだが、龍仰鏡の存在は鮮明に記憶に残っていた。無尽蔵にも思える力が幾重にも重なり、揺るぎないものへと築き上げる。
 由稀は緊張のあまり瞬きを忘れて見入っていた。再び目にした龍仰鏡は、以前と変わらぬ様子で在った。そこに存在するだけで、世界の全てが跪くように見えた。瞬はそれを言葉一つで自在に操る。鏡の超越した強さを見せ付けられ、絶対者のように殺人的な瞬の底力を肌で感じた。
 瞬は龍仰鏡を掴み取ると、紅の胸に押し付けた。
「鎮めよ」
 龍仰鏡は白い煙を噴き上げ、みるみる紅の体へとめり込んでいく。力が刺すような風となり、辺りに吹き荒れる。由稀は両腕で目を庇い、隙間からじっと二人の様子を見守った。
 僅かに瞬の眉が歪む。まるで痛みをこらえるような顔だった。幻のような儚さで慈愛が瞬から滲み出す。鏡は完全に紅の体内へと吸い込まれ、力のざわめきも息詰まるような空気も一瞬にして消えた。
 瞬は確かめるように紅の胸に手を置き、静かに目を伏せた。
「由稀」
 消え入りそうな弱い呼びかけに、由稀は声を返せなかった。口元を引き結んで、瞬を見つめる。
「紅を運んでやってくれないか」
「え……」
 由稀の中で時が止まったようだった。立ち上がる瞬を見上げる。瞬の瞳は夜の森のように静かだった。由稀は悲しみを超え、疼くような怒りを覚えた。
 すぐに立ち上がって、瞬の胸倉を掴んだ。
「お前が逃げてどうするんだ!」
 こらえ切れずに弾けた。相手の立場を慮ることも忘れた。だが由稀は自分が間違っているとは思わなかった。
「親だろう。だったら受けとめてやれよ! 紅の恨みも寂しさも」
 真正面から見た瞬の瞳はうつろで、由稀は彼を見失った。彼にあった背筋の凍るような美しさは微塵もない。あるのは怯え切って小さくなった渇望だけだった。
 由稀は痛ましくなり、顔を伏せて拳で瞬の胸を叩いた。
「頼むから、こいつを一人にするな……」
 喉が狭まり、引き攣るような声が洩れた。由稀は溢れ出るものを止めようと瞼を固く閉ざす。それでも涙は隙間を見つけて頬を流れた。
 自分が泣く理由などなかった。もらい泣きだと由稀は強く言い聞かせた。
 最果ての暗闇で、彼らの間には深い濠が掘られていた。ある時は望んで、またある時は望んでいると思い込みながら、二人は互いを求めるように深く深く、溝を作った。そうすることでしか、彼らは互いを感じることができなかった。
 許すとか、許されないとか。心のどこかではもう終わっていると知りながら。
 ただ、再び同じような痛みを受けるのが怖いがために。
 触れることさえしなければ、二度と失うものもない。
「なんで、俺が」
 お前たちのために泣かなきゃならない。由稀は心の中で叫びを上げた。鬼が優しく由稀の内側を撫でた。
 それがお前の勇気の源だと。
 頭の上に瞬の手が乗る。温もりが伝わって来て、顔を上げた。瞬は疲れたような顔をしていたけれども、その視線には確かに光があった。絶対的なまでの力を持つ彼の中には、世界中の弱さをかき集めても足りないほどの脆さがある。彼の存在自体が儚く消え去ってしまう、そんな幻想に引きずられるほどの確固たる脆弱さだった。由稀はそこに一分の隙もない均衡を垣間見た。
 強さと弱さが同居する、病的なまでの美しさを。
「俺はただ、同じ道を歩ませたくないだけなんだ」
「だから、遠ざけるのか」
「ああ」
「でもそれは」
 言いかけて、瞬の微笑みに踏みとどまる。有無を言わせぬ妖美な瞳が細くしなる。
「そうだ。間違ってる」
 瞬は由稀の頭をくしゃっと撫でた。伝わる情に、由稀は紅を羨む。
「今ようやく気付いた」
 瞬はかがんで紅の腕を取ると、背中に担いで前を向いた。
「俺も、もう一度一人になるのが怖かったんだ」
 ゆっくりとした足取りで瞬は行く。由稀は二人の後ろ姿を見ていて、ふと服に仕舞いこんだ煙草ケースを思い出した。銀色の表面は使い込まれて傷だらけになっていた。強く握りしめる。どんなに遠ざけようとしても、彼らはもう存在として繋がり合っている。ここに、証拠があった。
 腕で顔を拭い、由稀も二人の後を追った。
 風が頬を通り過ぎる。この風がどこから吹いてきたのかなど、由稀には関係なかった。自分に感じられた瞬間に、この風は生まれたのだから。終わりだと絶望してから始まる風もあるのだと、由稀は二人の背中に語りかける。手の平に帰ってくる硬い質感が、由稀の思いを強くする。
 銀色は静かに空を見上げていた。

14章:覚醒・終