THE FATES

15.瓦解(1)

 眼下には、アシリカの街の明かりが広がっている。瞬はリノラ神殿の屋根の上から、もう長い間同じ景色を眺めていた。強い風が背後から瞬を押す。やわらかい薄茶の髪が夜に揺れていた。肌には潮の欠片が纏わりつく。瞬は手の平に包んだ鍵に視線を落とした。
 不思議と悲しくはなかった。ただひどく寂しかった。
 様々な疑問が胸の奥で浮き上がっては、行き場なく彷徨う。自分は茜の一体何を知っていたのか。彼女の存在が救いと思えたのは、本当だったのか。瞬には自分自身の気持ちが何もわからなくなっていた。
 確かなものが欲しかった。何があっても自分を捨て行かない絶対的なものに憧れていた。彼女だけは、彼女と過ごした記憶だけは、瞬に生きる場所を与えてくれた。そこが最初で最後の安住の地だと思っていたかった。
 全ては己の未熟さに噛み殺された。
 故郷を見捨てた。兄を追い詰めた。多くの大切な人を傷つけて、今また茜に手をかけた。
 瞬は飽かずに街を眺め遣る。
 せめて彼女が命を賭して伝えたかったことは、違えたくなかった。
 紅を守る。それが最後の救いになった。
 龍羅飛は、天水王家に対して絶対の服従を強いられている。それは一族の血に刻み込まれた呪いといっても過言ではなかった。紅はその二つの血を継いでいる。生まれたその瞬間から、龍羅飛としての力は王家の影響力によって押し込められていたのだ。
 そして今日、茜がいなくなったことにより物理的な影響力が弱まり、龍羅飛としての力がついに目覚めたのだった。
 瞬は胸元を押さえて服を掴んだ。体の奥から沸き起こる空虚感に、押し潰されそうになる。
 とっさに龍仰鏡を埋め込んだものの、果たして上手くいくかどうかはわからない。龍羅飛の力は鍛錬なしに扱えるものではないからだ。瞬も外から制御をかけるつもりでいたが、紅が耐えてくれないことには意味がなかった。そして瞬自身も龍仰鏡を手放したことで、鬼使としての自分を半ば自由にしたようなものだった。もう、鬼使を止められる者はいない。全てこの手にかかっていた。
『上手に希望を持て。自信を持て。お前はもう、何かに怯える必要なんてないんだ』
 親友の言葉が風に鳴った。瞬は膝を立ててうずくまる。
「お前はいつもきれいごとばかりだ」
 くぐもった呟きは神殿の石柱にぶつかり落ちた。
 ふと気配を感じて、瞬は顔を上げた。神殿の吹き抜けから下を窺うと、祭壇の前に派手な衣装の女が立っていた。礼拝に訪れたような雰囲気もなく、しきりに辺りを見回している。燃えるような赤い髪が風に乱れる。彼女はそれを気にして、何度も手で髪を押さえた。
「彌夕か」
 神殿の奥から、瞬に聞き覚えのある声が響いた。彌夕と呼ばれた彼女は、声の主に駆け寄る。先には、青竜がいた。
 瞬は私的なことに踏み込む気もないので、宮殿へ帰ろうと立ち上がった。宮殿の壁には月明かりを受けた海面が揺らめいている。移動法を使うことも出来たが、ゆっくりと景色に包まれて帰ることを瞬は選んだ。
 彼らが話している内容を聞き取れないことはないが、努めて聞かないように瞬は屋根の上を歩く。
 突風が走り抜ける。風向きが途切れるように変わった。下から、吹き上げてくる。まるで時が止まったかのような静寂が刹那に訪れた。
「守護人が宮殿にいるだと」
 風に乗って耳に飛び込んできた言葉を、瞬は遮ることが出来なかった。多くの疑問が瞬を貫く。糸を引くように謎が滴り落ちる。瞬は音を立てずに彼らの死角に降り立った。
「昼間、ここを比古と通ったの。その時に言ってたわ。あの血の持ち主なら斎園(さいえん)でもやっていけるって」
「まさか、そんな」
 青竜の脳裏に、芽吹いたばかりの新緑の瞳が思い起こされた。
「心当たりがあるんでしょう」
「しかし彼はアミティスと無関係だ」
 青竜は口元に手を添え、深く考え込む。彌夕はその様子を下から見上げ、嬉しそうに目を細めた。
「比古が言うんだから、間違いないわ。そもそも、あそこの空気が純血には耐えられないだけなんだから。あなたなら、その身で経験してるはずでしょう」
「そう、だな」
 不意に青竜は背後を振り返る。瞬はそっと身を潜めた。青竜の視線は宮殿からもれる灯りを漂う。他に選択肢があるわけではない。彼は足元に視線を落として強く息を吐いた。
「もうあまり時間もない。由稀さんの封印はほとんど解放されている。このまま長い間放っておけば、由稀さんの中で意識が混合してどちらも危険になるだろう。私の方も急いで彼らを動かす。彌夕、お前は比古と志位に久暉様の体をアシリカへお運びするよう伝えてくれ」
「わかったわ」
「くれぐれも慎重に。術はまだ完成していないんだ」
「伝えておく」
 深く追及しない彼女に、青竜は僅かに頬を緩ませた。話すのは、久暉の無事が確保出来てからにしたかった。
 彌夕は微笑み、吹き抜けに広がる夜空を見上げた。
「久暉、きっと喜ぶわ」
 青竜は彼女の言葉に頷いて返事をすると、背を向けて宮殿へと歩き出した。
「でも、誰よりもあなたが一番嬉しそうね」
 彌夕は金色の目を和らげて青竜の背中を見送る。幾重にも羽織った薄布が、踊るように風に流されている。青竜の姿が見えなくなると、彌夕は神殿をあとにした。
 誰もいなくなった祭壇に瞬は立つ。空気を掴むように手を差し出すと、それまで交わされていた会話が、脳の奥で何度も繰り返された。
「封印」
 瞬は煙草を取り出し、火をつけた。
『彼には何らかの封印術が働いていた形跡がある』
 凍馬は一体どこまで知っていたのか。今ここに親友がいないことが、ひどく悔やまれた。
 瞬の中には青竜が為そうとしていることへの疑念が沸き立った。
 伝説の番人。このことについて瞬は以前から漠然とした疑問を抱いていた。不破に説明を乞うたこともある。しかし有益な情報は何一つとして得られなかった。
『鼓動を二つ聞いたようだ』
 煙草の灰が石床の上に落ちる。
「紅が守護人だと」
 瞬は青く輝く宮殿を射るように睨み付けた。
 紅を傷つけることは許さない。その可能性があるものは、全てこの手で握り潰すつもりだった。たとえそれが彼との溝を広げる道であったとしても、瞬の中に引くという選択肢は存在しなかった。
『あなたはもう一人じゃないんだもの』
 茜のやわらかい体の感触が、腕の中に蘇る。
 瞬は決意を固めるように、重い一歩を踏み出した。