THE FATES

15.瓦解(2)

 亜須久は想像以上の青竜の発言に、言葉を失った。普段より早い会議の招集に疑問を覚えなかったわけではない。けれど心のどこかで、ただ諾々と流れている日常の、ほんの些細な棘にすぎないと思っていた。
「昨日、私は確かに引力を感じました」
 青竜は会議の出席者に目を合わせることなく、明瞭な声で言い切った。亜須久は彼の断定的な口ぶりに、得体の知れない気味悪さを覚え、助けを求めるように瞬を窺った。彼は椅子の背に凭れて腕を組んだまま、目を伏せて微動だにしない。
「間違いありません。最後の守護人は紅さんです」
 まるで止めを刺すように、青竜は一段と低い声で空気を震わせた。部屋の中には凍えそうなほど冷たい熱気が充満している。亜須久は背中を流れる汗に自らの心中を突き付けられた。目の前にある青竜の黒い双眸には、底のない激しさが静かに渦巻いていた。
「だが彼は天水の出身だ。それなのに」
「私も初めは自分を疑いました。でもそんな懐疑、すぐに打ち消してしまうほどの引力を私は感じたのです。もう疑う余地はありませんでした」
 青竜の強引さに、思わず亜須久は閉口した。力尽くの説得には、狂気の獣が憑いているようだった。
「今日はこれで一度解散したいと思うのですが」
 青竜の提案に異を唱える者などいなかった。沈黙を同意と捉えて青竜は席を立つ。
「そういえば、紅さんの様子はいかがですか」
 問いは明らかに瞬に向けられていた。しかし瞬は答えることはおろか、顔を上げることすらしない。青竜は顔を奇妙に歪める。亜須久には笑ったように見えた。
「意識が戻ったら、彼にお伝え願います」
 青竜は瞬の後ろを通って部屋を出て行く。息つまる緊張感が、時を凝縮させる。静かな殺気が見えない牙を剥く。青竜が瞬の背中を見下ろした刹那、瞬は目を開けて眉を寄せた。
 扉が重厚な音を響かせて閉まる。残響が床で跳ねる。部屋を圧迫していた熱が一気に散り、亜須久は大きく息を吐いた。机に肘をつき、組んだ両手で朦朧とする頭を支えた。体の奥から叫びが聞こえる。理性がではなく本能が警鐘を鳴らしている。
 青竜は危険だと。
『君だけでも目を離さないで』
 朗らかに微笑む男の声がこだます。あの時は凍馬の言葉の真意など、少しも理解できなかった。ただ彼の堂々とした振る舞いや不思議な存在感に戸惑っていた。今ようやく凍馬の忠告が亜須久の中で生きた。
 椅子を引く音に、亜須久は顔を上げた。
「待ってくれ、瞬」
 呼びかけられて、部屋を去ろうとしていた瞬は立ち止まった。落ち着きを通り越し、まるで鉛のような重さの視線が亜須久に向けられる。亜須久は瞬も自分と同じことを感じたに違いないと確信を持つ。
 亜須久は慣れない笑みを頬に刻んだ。
「情報を、共有しないか」
 そう言うと、亜須久は自分と瞬を覆う結界を張った。

 由稀は窓枠に腰かけ、広い世界を眺めていた。窓からは神殿の荘厳な姿がよく見えた。青く晴れ渡った空に包まれるように神殿は佇んでいる。いつでも世界と同化できる距離を保ちながら、決して交わろうとしないその気高さが、由稀には勇ましく見えた。
 背中を強く押されるような衝撃が体を襲う。胸に無視できないほどの痛みが走る。由稀は息を止めてやり過ごそうとする。紛らわすように視界を清涼な世界で埋めても、痛みはそれを愚行と嘲笑うかのようにひたひたと迫り来た。掃除のよく行き届いた窓に自分の姿を映す。上着の首周りを引き下げると、胸元には黒い刻印のようなものがくっきりと浮かび上がっていた。由稀は顔を歪めて刻印から目を逸らした。
 気付いたのは今朝のことだった。体中が軋むように痛んで目を覚ました。体が跳ね上がるほどの動悸が呼吸を妨げた。その時とっさに胸元を押さえると、指先に火傷痕のような皮膚の感触を覚えた。それは見る見るうちに黒く染まり、見たことのない紋様の刻印へと姿を変えた。
 由稀は窓枠から降りて部屋の真ん中へと進む。
「お前は守ってくれる人がいて、幸せだよ」
 見下ろす先には、紅が静かな寝息を立てて眠っていた。紅はあれから一度も目を覚まさずにいる。もう、丸一日は経った。彼はそのまま沈みこんでいきそうなほどの深い眠りの中にいた。
「あ、そうだ」
 由稀は預かったままだった煙草ケースを取り出した。そばにあった紅の鞄の上にそっと置く。由稀は昨日の瞬の様子を思い出し、その時感じた羨望に再び襲われた。瞬の切な叫びを無様と笑うものがいるかもしれない。けれど由稀には何よりも心温まる囁きに聞こえたのだった。
 ふと、育て親のことが気になった。家を出てから、もう随分になる。店はちゃんと営業しているのか、夫婦喧嘩はしていないか、酒を呑み過ぎていないか。そして何より、二人とも元気でいるのか。街の景色や住み慣れた家の様子が、今見てきたかのように脳裏に鮮明に思い描かれた。
「安積ママの言うことちゃんと聞いてるのかな、マスター」
 想像すると、思わず笑みがこぼれた。

 前触れもなく扉が開き、由稀は肩を震わせて驚いた。そこには由稀の驚き様に目を丸くする瞬がいた。由稀は呆れて苦笑する。
「ノックぐらいしろよな」
「ああ、悪い」
 瞬は由稀の方には目もくれず、紅の顔色を上から覗き込むと軽く嘆息して煙草を吸った。由稀はその横顔に父性を垣間見て、小言を諦める。
「会議、何か進展あったか」
「紅が守護人らしい」
「そうなのか。って、え、どういうことだよ」
 あまりにも瞬がさらりと言ってのけるので、由稀は事の重大さを見失いかけた。
「だって、こいつはアミティスとは関係が」
「そうだな。ないな」
 瞬には動揺が全くなく、由稀は自分の反応が異常なのではないかと疑ってしまう。
「瞬はどう思ってるんだよ」
 瞬は顔を上げた。しかし問いかけに答えることなく、窓の近くまで歩み寄ると彼は真下を覗き込んだ。そこには宮殿の三の門がある。すぐそばに亜須久と話をする青竜の姿があった。瞬の整った顔に真剣みが走る。
『会議室に置いてあった資料の一部が見当たらないんだが』
『まさか、昨日まではありましたよ』
 瞬は二人の唇を読み、会話を盗む。
『少し確認してほしい。来てもらってもいいか』
『亜須久、私は急いでいるので』
 亜須久は背を向けかけた青竜の腕を引きとめ、強引に宮殿の中へと連れ戻していった。
「嘘が下手だな」
 瞬はそう呟いて鼻で笑った。
 亜須久は予定通り、時間稼ぎに成功したようだ。あとは紅を起こすだけだった。
「なぁ、瞬」
 完全に無視をされた由稀は、珍しく機嫌を損ねていた。
「あ、あぁ」
 瞬はすっかり由稀のことを忘れていたが、何とかそのことを覆い隠そうと努めて平静を装う。由稀は不遜な顔つきで瞬を睨みつけた。
「どうなんだよ、紅が守護人っての」
「そうだな」
 瞬は紫煙を吐いて、口端を上げて笑う。
「選ぶ権利は与えてやってほしいな」
 そう言って髪をかき上げる瞬の姿は、由稀の目に不思議と楽しそうに映った。

 扉の外の物音に、由稀は首を捻った。紅の使っている部屋は、廊下の一番端に当たる。この部屋に来る以外で誰かが立ち寄ることはなかった。由稀は扉を開けて外を窺う。
「何やってんの、お前」
 そこには羅依がうずくまっていた。由稀は彼女と視線を合わせるためにしゃがみ込む。
「もしもーし、何やってんすかぁ」
「な、何でもない」
 羅依はたどたどしくそれだけを口にすると、否定か拒絶か、懸命に首を振っていた。由稀はまるで珍獣を眺めるように、じっと彼女の動きを観察する。羅依は顔を伏せたまま、壁に手をついて立ち上がろうとする。しかし体に力が入らないのか、膝が震えて立てそうにもなかった。
 由稀は下から羅依の顔を覗き込んだ。彼女の長い髪が頬に触れる。由稀は自分の目を疑った。羅依は涙目で耳まで真っ赤にしていたのだ。
 確かめるべく、由稀は羅依の頬をつねる。
「あつっ」
 由稀は反射的に腕を引っ込めた。怪訝な顔つきで、再び覗き込む。羅依は何かを堪えるように口を引き結んでいた。
「明らかに不審者ですけど、羅依さん」
「ほ、ほっといてっ」
 羅依は由稀を遠ざけようと手をばたつかせるが、それは一向に効果をあげない。むしろ由稀は隙をついて彼女の膝を軽く押した。羅依の体は面白いほどあっけなく後ろへ傾いだ。
「いたっ」
 尻餅をついた羅依は、途端に大人しくなって口を尖らせ由稀を睨んだ。いつもなら反撃があるところだが、羅依はそのまま俯いてしまった。
「なんだよ、らしくねぇな」
 由稀は眉を歪めて、胸の奥から吐き出すようなため息をついた。
 羅依はじっと壁を見つめる。由稀はそんな彼女をじっと見つめていた。そして彼女の視線を壁の向こうまで追い、はたと気が付いた。羅依の真っ赤な顔と壁を交互に見遣る。
 向こうには、瞬がいる。それだけで由稀には合点がいった。
「よし」
 由稀はそう言って立ち上がると、羅依の頭を軽く撫でた。羅依は思っていたより大きな由稀の手に驚いて、勢いよく顔を上げる。
「気分転換でも行こうぜ」
 由稀はきゅっとつり上がった目を細めて微笑んでいた。
 なぜか羅依は由稀に置いていかれたように感じた。身長を追い越されたときにも感じた、心地よい悔しさだった。
「ずるい奴」
 羅依の小さな呟きに、部屋へと戻りかけていた由稀は振り返る。
「え。別に恩に着せるつもりはないけど」
 由稀は不思議そうに目を丸くした。廊下の突き当たりにある窓が空に染まっている。その透明感に負けないほどの真っ直ぐさが、すぐそばにあった。
「だから」
 羅依は乱れた前髪を慣れない手つきで直す。
「だからずるいってんだよ」
 消え入りそうな語尾を聞き届けて、由稀は破顔する。
「変なの」
 扉の向こうに空が吸い込まれた。
 由稀は片腕を壁に引っ掛けて、部屋の中にいる瞬を呼んだ。
「またあとで来る」
 瞬は視線だけを返す。由稀は意味深な笑顔を見せて、ひらひらと手を振って部屋を去った。賑やかな空気が遠ざかっていく。
 瞬は近くにあった椅子を引き寄せた。腕に僅かな抵抗を感じた直後、ベッド脇に置いてあった紅の鞄が床に落ちた。紐が椅子の脚に引っかかっていたのだ。瞬はかがんで、散らばった中身を拾い上げる。煙草ケース、鍵、インク、懐中時計、封筒があった。封筒に封はされておらず、開いた口からは中の紙がはみ出ていた。瞬は見るともなく目をやる。しかし飛び込んできた文字に、彼は驚愕を隠せなかった。
「なんだ、これは」
 そして見覚えのある筆跡に、先ほどの亜須久の話を思い出す。
 竜族は一人の例外もなく、黒髪だと。
『凍馬さんは由稀の髪色に疑問を覚えただけではないように、俺には見えたんだ』
 瞬は光を受けて薄茶に透ける髪に触れた。指先が小刻みに震えた。顔を上げた先には紅が眠っている。瞬は彼の頭に手を翳した。すると果実のように鮮やかな色は弾けて消え去り、生来の色である漆黒の髪が姿を現した。
 力なく拳を握り、再び幻術をかける。紅の髪は何事もなかったように元の橙色に戻った。
 黄ばんだ紙面には、隙間なく文字が並んでいる。判で捺したように狂いのない筆跡は紛れもなく青竜のものだった。
天地(あまつち)の杖による治癒法と斎園(さいえん)の解放』
 そこには龍羅飛特有の表記を用いて、そう書かれていた。