THE FATES

15.瓦解(3)

 辺りはやわらかな光に包まれていた。肌にじんわりと伝わってくる温もりが、より深い眠りを誘う。紅はその心地よさに身を沈めた。話し声にうっすら目を開けると、誰かに抱き上げられていた。自分の小さな手が目に映る。紅は夢を見ているのだと気付いた。
「この子、たぬき寝入りしてるよ」
 弾んだ声に、紅は茜の笑顔を思い浮かべた。
「無事だったのか」
 紅の呟きは頭の中にこだますだけで、外の世界には響かなかった。夢だとわかっているのに、その隔絶が紅の心を不安にさせる。
 花のかおりが漂うように、煙草の匂いが立ち込めた。
「そうか」
 肌を伝って聞こえた声に、温もりが吸い付く。急激に喉が渇き、出す声は息になった。
 紅は顔を上げた。光の中、目が合う。
 紅を抱いていたのは、瞬だった。彼の鼓動と力強さが全身に染みる。紅は夢と現実の境い目を見失い、瞬の腕の中で必死にもがいた。しかし紅の寂しさは瞬の体温を求めて止まない。
『誰にもあやすことなんて出来ませんでした』
 振り返ると陣矢が立っていた。困ったような顔で、彼は懐かしむように口を開いた。
『誰にも心を開かなかったんですよ、貴宮様は』
 紅は言葉も忘れて力なく首を振った。
『自分にはよくわかります。居心地が良かったんです、瞬の腕の中は』
 嘘だと叫ぼうとして身を乗り出すと、景色が揺れた。体が落ちていく。眩暈の先には瞬の深緑の瞳がそよいでいた。瞬は紅の視線に気付くと、口元に人差し指を立てて微笑んだ。目を閉じろと言わんばかりに、瞬の手が紅の額から頬を撫でる。
「瞬ってば、また甘やかして」
 遠くで茜の小言が聞こえる。外圧が強まった。世界が保たれたまま、紅の意識だけが落下の幻想に囚われていく。
 瞬の笑顔など見たことない。見たとしても覚えていたくない。なのになぜ、こんなにも鮮明に彼は微笑むのだ。
「知らない、お前なんて」
 紅は唇を噛み締める。きつくきつく噛み締める。湧き上がってくる恐れに蓋をするように、紅は膝を抱え込み小さく丸くなった。
 真っ暗な中に底を感じる。ぶつかる。そう思った瞬間、紅の目には白い天井が映り込んでいた。体中がうるさいほどに脈打っている。握りしめていた拳をゆっくりと開く。骨が軋んだ。
 部屋の中には光が満ちていた。紅はそれで昼をとっくに過ぎているのだと知った。なぜと問い、記憶の空白に気付く。
 茜はどうなった。
 夢で聞いた茜の声が鼓膜に蘇る。期待を胸に紅は飛び起きようとするが、体が思うように動かなかった。声が洩れる。
 自分の体が鉄の塊になったように重かった。紅は耐え兼ねて再び倒れ込む。
「くそ、何なんだ」
 眩しいほどに射していた光が陰る。紅は顔を上げて窓の方を見た。人影。逆光で顔はよく見えなかった。紅は顔を歪めて目を細めた。
 色素の薄い髪が光に透ける。白い肌が背景と重なる。
「起きたか」
 その声に、紅は自分の体が凍りつくのを傍目に見ていた。影が近づいてくる。光は居場所を失い、影の姿が次第に顕わになる。
 逃げる間もなく、目が合った。
 重く濃い深緑の瞳が紅を射る。容赦ない圧迫感が紅を内側から押さえつける。睨み返す余裕もない。紅は舌打ちをして顔を背けた。
「何の用だよ」
 紅は見えない綿糸に囲まれているようだった。閉塞感が喉元に絡みつく。それを払拭するように大きなため息をついた。
「用がないなら」
「体、動かないだろう」
 瞬は短くなった煙草を灰皿でもみ消すと、すぐに新しいものに火をつけた。煙が悠然と漂う。紅はその行き先を目で追い、沈黙を返した。
「やはりな」
 瞬は煙草をくわえたまま紅を覗き込むように横に立ち、すぐ下の紅の胸元に手を翳した。紅は眉間を寄せて、嫌悪感を顕わにする。すかさず、瞬に一瞥された。瞬の整った顔は、紅が今まで見てきた誰よりも仮面に近かった。彼の心を盗み見ることはおろか、想像することさえ出来ない。
 体の奥が熱くなる。爪先まで痺れるような衝撃が去ると、紅の体は紅の知るものとなった。それまでが嘘のように腕が軽く上がる。紅は半身を起こし、ベッドの上に座り込んだ。
「どういうことだよ」
 紅は首を回したり手首を捻ったりしながら、瞬の方は見ずに問う。視界の隅で、瞬が椅子にかけた。
「龍羅飛の力は、簡単に扱えるものじゃない。何の鍛錬もしていないお前には、指一つ動かすことも出来ない」
「はぁ……?」
 紅にとっては瞬の話が突飛で、思わず顔を向けた。瞬は組んだ脚に頬杖をついていた。彼が俯いているのをいいことに、紅は瞬の顔をじっと見つめる。
 これが、茜の守りたかった男。
 そして、自分を捨てた男。
 紅は目に焼きつくほど、瞬を睨みつけた。
「王家の血の影響力が弱まれば、龍羅飛の力が表に出るのは考えられることだ」
「何の話してんだよ」
「慣れれば、日常生活くらいは送れるようになる。少しくらいの術なら使えるようにもなるだろう」
 瞬の言葉には、一切の抑揚がなかった。まるで台本でも読むように、彼は紅に説明を続けた。紅は不気味な違和感に苛まれる。瞬の話したことが、じんわりと胸の中で広がっていく。
『王家の血の影響力が弱まれば』
 紅の脳裏に、茜の蒼白な顔が浮かぶ。
「なぁ、ちょっと待てよ」
 初めて向けられた言葉に、瞬は視線を上げた。
「お前の説明じゃ、前提がわかんねぇよ」
 紅は自らへの刺激を避け、言葉を選ぶ。瞬は紅の言わんとしていることに気付き、席を立った。
「どうなったんだ、あれから」
 紅は瞬の背中に問い詰める。瞬は悠長に煙草を吸うだけで、先ほどまでの機械的な言葉も影を潜めていた。
 無音の部屋に自分の鼓動が響くような気がして、紅は何度も息をとめた。
「自傷行為だな」
 嘲笑を含んだ瞬の声が、紅の神経を逆撫でる。紅は痙攣する頬を歯噛みして堪えた。
「わかっていることを重ねて聞いて傷つきたいか。行き過ぎるとただの自己陶酔に過ぎない」
 瞬が肩越しに振り返る。世界が凍てつくほどの冷笑が深緑の瞳に宿っていた。紅はそれまで感じたこともないような悪寒を背中に感じた。殺される。本能がそう叫んだ。
「あれからどうなったか、知りたいなら教えてやろう」
 紅の怯えをよそに、瞬はまるで謡うように楽しげに言葉を紡ぐ。喉を押し潰されるような緊張が紅を襲う。煙草の灰が床に落ちた。深緑の瞳がしなる。
「死んだよ、茜は」
「な……っ」
『あの人は何よりも、誰よりも、私たちのことを思っていたのよ』
 飛び出そうとした紅を、茜への配慮が押しとどめる。これも何かの事情があってのことだと激情を押し込める。それでも、溢れてくる痛みを打ち消すことは出来なかった。紅の心に怒りを漉した疑問が浮かぶ。
 彼はなぜこんなにも平然としていられるのだ。
「ふざけるな」
 悲しみを紛らわすために、脈絡のない言葉を吐き出す。それを首を傾げて眺めていた瞬は、煙草をもみ消し、思い出したように口を開いた。
「ああ、言い間違えた」
「え」
 紅は僅かな期待を持って顔を上げる。
 仮面のように表情のない瞬の横顔に、心が底冷えするほどの脅威が塗られていた。
「俺が殺した」
 瞬の薄い唇が、紅を試すように弧を描く。
 紅は自分の中が真っ白になったことすら気付かなかった。
「貴様……っ!」
 叫んでベッドから飛び出した。紅は瞬の腕を引き寄せると、胸倉を掴んで窓に押し付けた。瞬は驚く素振りもなく、じっと紅を見下ろしていた。
 紅は目を見開き、瞬を睨みつける。脳裏に浮かんだ夢の記憶も、怒りの業火に焼かれ灰と為す。
「茜の気持ちを考えたことがあるのか! どんなにお前を信じていたか、知ってるのかっ。なのに、なぜそんなことが言える。そんなものに茜は振り回されていたのか。こんなところに来させるんじゃなかった。お前になんか会わせるんじゃなかった。何としても、あの時引き止めるべきだったんだ。……茜を返せ。茜をここへ連れ戻せ。今すぐだ、早く!」
 紅はそこまでを一気に言うと、口を固く引き結んだ。一切の抵抗をしない瞬に、紅は僅かな気後れを感じる。
「言いたいことはそれだけか」
「なんだと」
 再び睨み上げた瞬間、足を払われ体が宙に浮いた。腕を捻り上げられ、顔面を窓に押し付けられる。紅は思わずうめき声をもらした。瞬はあいた手で窓の金具を外し、開け放つ。紅の上半身が窓枠から乗り出した。首の後ろが恐怖に震えた。落ちて死ぬほどの高さではない。むしろここから落ちた方が安全なように紅は感じた。それほどに、背後から突き刺さる瞬の存在感には鬼気迫るものがあった。
「体術は陣矢に習ったんだな。詰めの甘さがよく似ている」
「放せ」
「前提がわかったら、説明も少しは理解できるようになったろう」
「は、何の話」
 そこまで言って、紅は言葉を失った。声を出そうとしても空気が漏れるだけで、いくら張り上げても耳に届くものはなかった。
「お前の体には今、俺の龍仰鏡が入っている。声を奪うことも容易い。忘れるな。お前は俺に生かされているんだ」
 瞬は紅の背中にあてた手で、中の龍仰鏡を操作する。すぐに紅の喉からは掠れた声が零れ落ちた。
「抜きやがれ」
「何を」
「お前なんかに生かされるつもりは、更々ないんだよ。早くそいつを抜きやがれ」
「いいのか、抜いても」
「早くしやが……れ」
 言い終わらないうちに、紅の体を衝撃が走る。蟲の這うような感触を経て、徐々に胸が圧迫されていく。視界が歪む。口元は弛緩して、溢れる唾が顎を伝った。
「が……がはっ」
 塊が腹の奥から迫り上がってくる。紅は目に涙を溜めながら、それを必死で堪える。
 紅の背中からは龍仰鏡がその姿の半分を覗かせていた。瞬は紅の様子を見ながら龍仰鏡の縁に手をかける。紅が空を裂くような悲鳴をあげた。
「これでもまだ抜けというのか」
 瞬の問いかけに、紅は力なく首を振った。それを見た瞬は龍仰鏡を元通り紅の体に埋め込むと、彼の体を引き起こして部屋の中に入れた。
 紅はその場に崩れこみ、臓腑を吐き出すような咳を繰り返した。見せつけられた力の差と絶対的な立場の違いが、紅の自尊心を粉々に砕いていった。床に突いた手を強く握りしめる。いつの間にか、奥歯を噛みしめていた。隙間から声が漏れる。
「ちくしょう……」
 固くした拳で床を叩きつける。体にねじ込まれた恐怖を頭が受け付けない。負けることに慣れていないのだった。
「畜生……!」
 紅は声を張り上げ、頭を床に思い切りぶつけた。痛みが響いて、感傷が捩じ切れる。それで何とかして涙を押しとどめた。
 煙草の焼ける音がする。すぐに、香りが鼻孔をついた。目の前に見覚えのある封筒が投げられた。
「それをどこで手に入れた」
 紅は顔を上げて、瞬を見上げる。腕を組んで佇む瞬の姿が、血も涙も知らない鬼のようだった。
「化け物め」
 息も切れ切れに、掠れた声でそう吐き出した。
「青竜の話によると、お前が最後の守護人だそうだ」
「関係ねぇよ」
 紅の中にそれまであった淡い憎悪は影を潜め、今は恐怖と殺意が綯い交ぜになっていた。瞬を睨み上げたその直後には、すぐに視線を逸らしてしまう自分がいた。
「読まなかったのか、そいつを」
「読むかよ、こんな神経質な字」
 紅はようやく起き上がって、壁に背中を預けた。封筒を手に取り、瞬に投げ返す。
「俺をどうするつもりだよ」
 うつろな視線が瞬を打つ。途端に瞬の顔から表情が消えた。
「青竜の茶番に付き合う気はあるか」
「は?」
「あいつのやろうとしていることを暴く。そのためにはお前の協力が必要だ」
「これが協力を求める態度かよ」
 紅は手足を放り出し、天を仰いだ。心が純化されていく。負けて悔しいなら、次に勝てばいい。龍仰鏡など必要なくなるほどに、強くなればいい。
 いつか彼を見下ろせるほど大きくなればいい。
 そして茜の仇を討つ。
「俺に選択権はないんだろ」
「まぁな」
「じゃあ、どうとでもしろよ」
 額に浮いた汗を袖口で拭い、紅は不敵に笑う。
 瞬は煙草を吸いながらそんな紅の様子を流し見る。心の隅に残る痛みを自ら握り潰し、瞬はベッドにあった紅の上着を投げた。
「地下書庫を、案内しろ」