THE FATES

15.瓦解(4)

 格技場に吹く潮風は、肌を掠めて去っていく。遠く響く波音と場内のざわめきが溶け合って、彼らに内なる静寂を与えていた。
 由稀は目の前を走る刃先を何とかかわしながら、次に打つ手を考えていた。何度も切り返して唸りを上げる剣の向こうには、真剣な眼差しの羅依がいた。先ほどまでの陰鬱な頬と弱気な唇はすでに脱ぎ捨て、由稀が望む羅依の勇ましさと女らしさがそこにはあった。
 羅依の剣は由稀に考える暇を与えなかった。由稀は防戦一方だった。初めて彼女の剣を受けてみてわかったのは、実戦という訓練の比重の重さである。
 彼女の身のこなしは体が軽いぶん速いが、由稀に比べれば少し劣った。しかし由稀が扱う短刀に比べて剣は懐が深く、更に手首の捻り一つで蛇のような柔らかさを帯びた。それが由稀の予見を狂わせる。
 懐は、槍を扱う紅の方が深かった。そしてその利点を最大限に生かす戦いを彼は見せた。最も合理的な方法を常に選ぶ紅の動きは、強いというよりまるで計算されつくした舞のようだった。律動さえ読めれば、あとはすぐに対応できた。
 しかし羅依の場合は違った。彼女の戦い方に法則などはない。精緻な計算もなければ、舞踏するような節奏も美しさもない。ただ、由稀には付け入ることの出来ない強固な壁が聳えていた。それこそが、何度も死地を生き抜いてきた本当の強さだと知った。
 踏み込んで薙ぎ払った先に羅依の姿はなく、由稀は片足を軸にして半回転した。視界の隅に捉えた淡い紫色の髪が、甘い香りを放つ。沸き起こった幻想に誘われるまま、由稀の意識はほんの短い間だけ無限の時を漂う。
 急に、彼女を強く抱きしめる自分を想像した。
 金属のぶつかる音がして、腕に衝撃が走った。短刀の片方が羅依の剣によって弾き飛ばされていた。由稀はそれの落下地点を横目に確認して、残る一方を彼女に振り上げる。しかし腕は空中で固まるように動きを止めた。鼻先に鋭い剣先を突きつけられていた。由稀はのけぞるようになって、剣の腹を視線で辿った。羅依は涼しげな目元を嬉しそうに細める。
「すげぇすっきりするな、これ」
「とりあえず危なっかしいものを下げてから喜んでくれよ」
 由稀は無邪気な羅依の笑顔に、再度稽古を申し込む気にはなれなかった。勢いよく砂の上に座り込む。羅依も由稀に続いた。
 潮風が親しげに寄ってきては、汗ばんだ肌を鎮めていく。二人は大きく開かれた扉から降り注ぐ陽射しを黙して眺めた。木々の、石の、埃の、人工物の輝く姿が、時の流れを忘れさせるほどに彼らを魅了した。風の動きを感じる肌が、繰り返される荒い息が、興奮冷めやらぬ耳鳴りが、由稀に生きていることを実感させた。ただ流れていくことが、こんなにもいとおしい。在るもの全てが生に満ちている。
「気持ちいいな」
「うん」
 羅依は眩しそうに世界を見つめる。その横顔は頬が紅潮し、穏やかな幸福に染められていた。由稀は安堵の息をついて、眼差しで彼女の髪を撫でた。
「お前になら、出来ると思うんだ」
「何の話」
 羅依は膝を抱えて首を傾げる。由稀は足を放り出して、後ろ手をついた。手の平に当たる小石の感覚が心地よかった。
「瞬を支えてやってくれよ」
「な、何言ってんだ、由稀」
「別に、冗談でも何でもないよ。俺はずっと前からそう思ってた」
 掛け声と物音に上を見上げると、天井を開放するための作業が始まっていた。隙間からうっすらと空が覗く。
「特別なことじゃない。ただ、あいつの傍にずっといてやってくれよ。いつでも瞬が逃げ込める距離で」
 真剣な由稀の声音に、羅依は思わず黙り込んだ。場内に響く威勢のいい声が、空を呼ぶ祈りのように聞こえた。羅依は膝で目頭を押さえた。
「自分でもよくわからない。好きとか嫌いとか、ずっと殺さなきゃならない相手だと思ってたから、わからないんだ」
 くぐもった声を聞き漏らすまいと、由稀は羅依に向き合って、身を乗り出した。
「でも、気になるんだ。あいつが何を考えてるのか、どんな傷を抱えてるのか、どれだけの寂しさの中で苦しんでるのか」
「それが」
 長い髪が流れ落ちて、羅依の表情は由稀には窺えなかった。それでも彼女が泣いているように思えて、由稀はそれが好きということだと伝え損ねた。彼女のように身を切るような想いをしたことのない自分に、言える言葉ではないと思ったのだった。
「だから生きていてほしいと思った」
「羅依……」
「二年間も無視し続けた。そこを後悔してるんじゃないよ。でも、もう繰り返さない。気になることは、もう放っておかない」
 羅依は顔を上げて、清涼な目元を和らげた。そこに涙の跡はない。
「怖くはないのか」
「怖い。すごく」
「なのに」
「怖いと感じるから本物だと信じられるんだ」
 羅依は言葉を重ねるごとに強くなる気持ちを、じっと噛みしめた。体の奥から湧き上がってくるものに、目の前の世界と同じきらめきを感じる。ただ在るために全ての生命力を賭す。そんなふうに純粋にはなれなかったが、せめて自分に嘘をつかないでいたい。羅依は自らに芽生えた未知の塊にそう誓った。
 二人を覆っていた陰が、引き潮のように引いていく。見上げた先に、丸い空が浮かび上がっていた。
 世界に降り注いでいた輝きが、その身を貫いていく。突きつけられたのは、逃げるように蓋をした感傷の残骸だった。由稀は不甲斐ない己に愕然とした。白日の下に晒されて怯むような自尊心は虚勢にすぎない。そんなものなら必要ない。欲しいのは這ってでも前を向ける強さと信念。由稀はそこに進むべき道を見い出した。
「俺も、放っておけない」
「え」
 羅依が聞き返しても、由稀が答えることはなかった。首をのけぞらせ、遠い空を見据える。
 自分は何を躊躇していたのだろう。折角掴んだ血の繋がりを、少しくらい拒絶されたからといって、どうしてこんなにも見ない振りをしていたのだろう。
 由稀の前には、あの日の坂道が伸びたままだ。消えていく青竜の背中を追えなかった。その時の自分を責めるのではない。それから何も出来なかった自分をひどく恥じていた。
 幸運も真実も、何の努力もなしに降ってくるようなものではない。
 由稀は切り取られた空に手を伸ばす。手の平に付いた砂が、指の隙間から光を伴い零れ落ちる。逆光で黒くなった手には、土の匂いが染み込んでいた。
「ありがとう、羅依」
「何だよ」
 羅依は怪訝な様子で由稀を見遣る。由稀は顎を引いて体を起こすと、勢いよく立ち上がった。その瞳には、天井の空が宿っていた。それを認めて羅依は快活な笑みを見せる。
「どういたしまして」
 理由など、瑣末なものだった。彼のこの希望と不安に満ちた、輝かしい顔に比べたら。
 決意に彩られた笑顔で羅依に手を振ると、由稀は服の上から胸の刻印を掴み、走り出した。
 足が地面を蹴りつける。石床の上に撒かれた細かな砂が、靴の裏で自由を叫んだ。階段を駆けのぼり、宮殿の中を突っ切る。向かい風が行く手を阻み、耳元で唸った。
 目の前に楽園のような中庭が広がる。そのベンチに一瞬、茜の幻を見た。
『君は、ちゃんと君だよ』
 なめらかな茜の横顔が、脳裏をよぎる。温もりに包まれて、由稀は速度を上げた。
 目指す場所に迷いはない。彼を探す必要もない。
 あの坂に戻れば、止まった時が動き出すから。

 門を抜けて、神殿へと伸びる官僚街の坂にさしかかった。豪奢な馬車とすれ違う。馬蹄の響きが、由稀の気持ちを更に鼓舞した。ずっと走り続けているのに、体には一切の疲労を感じない。意識が前のめりになるほど、急いている。もっと速く、もっと速く。そればかりを体に要求し、疲れを感じる余裕を与えなかった。
 宮殿の窓から見るよりも、神殿を遠くに感じた。坂が地面に溶けるように途切れる。前方に、あの日の背中を見つけ出した。
『あなたは一人だと思っているのですか』
「青竜……っ!」
 声が空一面に広がり反響する。背中が立ち止まり、振り返る。駆け寄って、近くに青竜の顔を仰ぎ見た。
「青竜」
「どうしたんですか、そんなに息を切らして」
『私はあなたの叔父にあたるのですから』
「教えてほしいんだ」
 由稀は迫り上がってくる息を必死に飲み込んで言葉を繋いだ。
「俺の、両親のこと」
 空色の髪が風に吹き上げられる。胸の奥で、時間が音を立てて動き始めた。