THE FATES

15.瓦解(5)

 体中が一斉に沸き立つような感覚に襲われて、青竜は息を呑んだ。耳が塞がれるほどに音で埋まる。顧みて、それは自分の鼓動だったことに気付いた。
「どういうことでしょうか」
 努めて笑顔を作った。しかし目の前の空色の少年は、青竜の芝居には目もくれようとしない。曇りひとつない瞳が、青竜の胸を抉るように見上げてくる。直観的に、もう引き延ばすことは出来ないと悟った。全ては自分の軽率な発言が招いたものだ。青竜は観念せざるをえなかった。
「歩きましょうか」
 由稀の背中に手を回し、軽く押した。
 海風が背後から押し付けてくる。空は限りなく晴れ渡っていた。
 向こうから、老人が一人歩いてくる。ゆっくりとした足取りは、加齢の醜態というよりむしろ、世界との繋がりを一歩一歩踏みしめ反芻しているような、超自然的な素朴さを感じさせた。
 由稀は待ちきれない気持ちを何度も飲み込んで青竜に従った。もう一度催促の言葉をかけることは躊躇われ、ただじっと待つ時間が続いた。膝が硬く、歩みはぎこちない。由稀は熱くなる耳朶を強く抓った。
 手の平に緊張が伝わる。双方の高まりがぶつかって、風に流れた。青竜は渇望と共に過ごした十五年に思いを馳せた。不安は、待ち侘びた瞬間への興奮に変わっていた。
「あなたの父上は、竜王と呼ばれる方でした」
「竜王?」
「はい、竜族の頂点に立つ者のことです。名を佐高(さたか)。私のただ一人の兄です」
 青竜は遠く空を見つめて、昔を懐かしむように目を細めた。由稀は彼の横顔に、父の残像を探ろうとする。
「文武に優れ、人望も厚く、人の上に立つ者としての素質を、全てその身に備えている人でした。そんな兄はずっと私の憧れでした。腹違いではありましたが、私にとってただ一つの自慢だったんです」
 由稀の肩に置かれた青竜の手が、僅かに力む。
「いつまでも、そうありたかった」
「青竜」
 違和感が由稀に舞い降りる。青竜は由稀がその正体を見つけてしまう前に口を開いた。
「母上は、とても美しい人でしたよ。名前を瑛那(えな)といいました。容姿だけでなく、彼女は心の中に雪の結晶のようなきらめきを持っていました。けれどそれを驕ることもなく、慎ましやかな女性だった。正妻の(すい)様も彼女を妬みきれないほどに」
 道が緩やかな上り坂に入る。青竜は記憶の奥に封じた彼女の姿を思い起こした。彼女の涙が、頬に触れた。
「由稀さんのお名前は、瑛那が付けました。誰にも負けない夢を、自由に思い描ける子になってほしいと。彼女なりの償いだったんだと思います。妾腹の子としての苦しみを生まれながらに背負わせたことへの。瑛那はずっと私のことを見てくれていましたから」
 黙って前を見遣る青竜は、由稀にとって空恐ろしかったが、不思議と急かす気は起こらなかった。馬車が何台も連なって、すれ違っていく。手の平から伝わる温もりが、ひどく現実味を帯びている。由稀はそこに血縁という繋がりを夢見た。心の隅で焦燥を感じながらも、多大な期待を彼の言葉にかけた。
 馬蹄の響きが背後に消えていく。
「彼女を愛していました」
 恐怖が背筋を這い上がった。冷え冷えとした感触が、全身に散らばっていく。由稀は肩に乗せられた青竜の手を横目に見た。
「だから、何よりも彼女の幸せを優先したんです。相手が竜王なら、それ以上の幸福はないと。私は中枢の五役に就いてはいましたが、嫡流ではないために正式官としての名は与えられず、青卑竜と貶められました。けれどそのことで兄を憎んだことなどありません。私は信じていましたから。兄は私のことをちゃんと見てくれているのだと。だから遠慮なくその名を与えられたのだと」
 足元に、シリア門の影が差した。二人は上水路に渡されている石造りの橋を渡る。橋には馬車が通るための溝が二本引かれていた。そこにつまずかないよう、青竜は由稀の肩を引き寄せた。
「人はそれを愚かだと笑っていたでしょうね」
 流水の囁きが下から吹き上げる。はぐれた水滴が由稀の肌を誘うように冷やしていく。由稀は我を取り戻そうと乾いた唇を舐めた。
 見上げると、青竜の横顔には穏やかすぎる笑みが刻まれていた。
 青竜の手が、由稀から離れていく。
「誰もそんな」
 引きとめるかのように言葉を返したが、虚しく大気に溶けて消えた。触れていた部分が風に晒される。感触は、由稀が青竜の心に垣間見た寂寥感によく似ていた。青竜は由稀をよそに門の通用口まで足早に行き、守衛と二言三言交わす。すぐに由稀を振り返ると軽く頷いて、ゆっくりと木戸を押し開けた。由稀は続きを求めて駆け寄った。
「わかっていたんです、私は。兄に疎んじられていることなど。だからこそ、平気な顔をしていたかった。兄のため? 違いますよ。自分の自尊心を守るためです。どうしても負けたくはなかった。だから兄のどんな態度にも私は動じなかったんです。確かに私と兄の一対一での関係において、兄を恨んだことなどありませんでした。恨む気持ちを持つことすら、私には敗北に思えていたんですから。けれど瑛那のことはまた別です。彼女を傷つける者は、たとえそれが竜王であっても、私は許さなかった。まさか私があんなにも瑛那のことを愛していたとは、知らなかったでしょうね。そう、あの時、彼はひどく驚いていましたから」
 神殿へ続く階段をのぼる。両側に立つ柱が、由稀の視界を青竜に絞った。由稀は少し前を行く青竜の、骨ばった指を見つめていた。その指が時折痙攣するように震えた。顔を上げると、青竜の黒髪が丘の風に遊ばれていた。長い襟足がさらわれ、首筋が覗く。由稀はそこに未知の狂気を感じ取り、逸る鼓動に息を詰まらせた。
 階段を登りきると、そこには頑丈な石で囲まれた聖域が広がる。神殿を取り囲む列柱廊は、柱と柱の間に見えない壁を作り出していた。触れれば激しく弾かれてしまうような感覚が、由稀の中に静かに積もる。
 これは神の気配なのか。
 由稀は心の中で首を振った。
 違う。これは彼の毒だ。
 もう、両膝までが浸かっていた。そしてなおも沈み続ける。由稀にはそこから抜け出す術などなかった。じわりと締め付けてくる重苦しさは、青竜の闇に思えた。遠くの空から引き止めようとする声が聞こえたが、由稀は動かぬ足を引きずって青竜の背中を追う。
 吹き抜けから差し込む光が、硬質な石床と青竜を照らし出す。由稀は目を細めた。この告白は、贖罪か断罪か、それとも破戒か。
 呼吸さえもままならない空間で、由稀は青竜の言葉に耳を傾けた。
「もし、兄が瑛那を傷つけるようなことをしなかったら、私と由稀さんはもっと違った形で出会っていたことでしょうね。あのままだったら、あなたは次期竜王。それでもあなたは優しいから、きっと私に笑顔を向けて信頼を示してくれたのでしょう。まぁ、全ては過ぎたことです。どんなに望んでも、過去にもしもは通用しませんから」
「過去は変えられないのか」
「そうでしょう。違いますか」
 青竜の低い声は、由稀に説得力を感じさせた。しかしそれに屈しまいと彼を睨み上げた。
「確かに過去にあった事実は変えられないかもしれない。でも、それを乗り越えてもっと良くしていく未来が俺たちにはあるはずだ。何も終わってないだろう」
 声を荒げる由稀の姿に、青竜は微かな驚きを見せた。そして心から可笑しそうに笑う。
「どう改善していけと言うのですか」
「話し合ったり、そりゃ喧嘩したりすることも必要になってくると思う。でもそうやってぶつかり合いながら、お互いの境界線を見つけていくんだよ。それを傷付きたくないからって避けてたって、何も変わらない。傷付かなきゃ、相手のことはおろか、自分のことだって本当にわかることは出来ないんだよ」
 由稀はそう言いながら、瞬との戦いを思い出していた。それまでは瞬の考えていることがわからずに、ただ遠ざけるしか出来なかった。
 自分がもっと大人だったなら、避けられたかもしれない戦いだった。あの時、たくさんの苦痛を体に受けた。街に住む多くの人を巻き込み恐怖を与えた。けれども由稀は後悔などしていない。ああするしか方法を知らなかった。亜須久にも言われた。悔やむなら、忘れずにいることだと。
 信念と自信が由稀の気持ちを強くする。頭の隅で青竜を救いたいと願った。その傲慢を覗き見たのか、青竜は冷ややかに由稀を見下ろした。
「あなたは、本当に真っ直ぐな人だ。志位と安積の教育に感謝しなければいけませんね」
「なんで、マスターとママのこと」
「ですがあなたのその真っ直ぐさは、むしろ愚直とも大差ない」
 青竜は祭壇へと足を向けた。彫刻の施された幅の広い石段を一つ一つ確かめるようにのぼる。光に彩られた石段は、それ自体が輝いているようにも見えた。
「話し合いで仲良くなれる。時には暴力も必要だが、それを経験すればかけがえのない心の繋がりが芽生える。そんなものは子供のための理想に過ぎない。真実を教える度胸のない大人が、子供に語る夢物語ですよ。大人はそれを愛だと言ってのうのうとやってのけるんです。けれど本当の愛とは何だと思いますか。夢を与えないことこそ、子供の傷を最小限にするのではないですか。そういう意味では、私はあなたに愛が足りなかったのかもしれない。あなたに少しの間、夢を見させてしまいましたね」
 祭壇に手をついて、青竜は切り取られた空をいとおしむように見上げた。
「もう、兄と話し合うことは出来ないんですよ」
「どうして」
 由稀は青竜の後を追って、石段を駆け上がった。
「知っているでしょう。竜樹界にいた竜族はもう滅んでいると」
 まるで見えない刃先を向けられたかのように、由稀はそこから動けなくなった。
「死んだ者と話す術なんて、私は知りませんよ」
「だけど、そんな。誰かがちゃんと調べに行ったことなのか。そう言われてるだけで本当は」
「調べる必要なんかありません」
 強い語気に、由稀は返す言葉を失う。
「なぜなら、竜族を滅ぼしたのは私なんですから」
 降り注ぐ光すらも弾けて消えた。