THE FATES

15.瓦解(6)

 閉ざされていた空間に、無粋なほどの光と清い風が滑り込む。宙に漂う埃が光を受けて雪のように白く舞い上がっていた。紅は地下書庫の鍵を開けて、瞬を先に通した。
「中から、閉めておけ」
 瞬は階段を下りながら、紅を振り返らずにそう言い放った。背後で鍵を閉める重い音がした。
 靴音が反響する。天井から吊られた燭台は煌々と灯っている。紅は何一つ変わっていない地下書庫の姿に微かな驚きを覚えた。置き忘れていった茶器は、まるで時間が止まっていたかのように同じ場所にあった。紅は長く息をつく。最後にここを出てから、まだ一日しか経っていないのだ。しかし何日も何ヶ月も過ごしたかのような感覚が、頭から離れない。紅が錯覚するのも無理はなかった。それほど様々なことが彼の身を襲っていた。
 以前は苦手だった室内の黴臭さが、紅の気持ちを少し和らげる。
 顔を上げると、どこまでも続く本棚を見上げて、瞬が煙草を手にしていた。
「禁煙」
「は」
「ここ、禁煙なんだよ。燃えたら困るからじゃねぇの」
「ああ、なるほど」
 そう言いながらも瞬は煙草に火をつけた。
「おい」
 声を大きくした紅を、瞬は冷ややかに見つめ返す。
「気が付かないか。ここは風が通ってる」
「え」
 煙草から立ち上る煙を見遣ると、それは真上にではなく、部屋の奥の方へと僅かに傾いていた。
 瞬は一口も吸わずに煙草を投げ捨てた。床に当たった煙草は、水滴が弾けるように散って、大気に溶けた。
「他にも出入り口があるはずだ」
「隙間くらいならあるんじゃねぇの」
 紅の反論に、瞬は愉しそうに唇を歪めた。
「どうかな。ここは神殿の真下、街の方から見ると丘の部分にあたる。建設の際、中をすっぽりくりぬいて補強工事をしたとして、確かに自然な隙間は出来るだろう。だがこれほどの風が通るとは思えないな。そもそも密閉された状態なら、ここの明かりはとっくに消えてるはずだろう」
 紅は返す言葉を失った。確かに瞬の言う通りだった。いつ訪れても書庫の中には灯りが燈っていた。入り口には油の缶が置かれている。灯りが消えたときにはそれを足して、よそから火を分けていた。その行為に何の不思議も覚えなかった。紅はあらためて地下書庫をぐるりと見回した。十日間通い詰めたのに、自分はこの場所のことを何も知らない。無理もないと慰める気持ちと、暗に瞬に指摘された悔しさが紅を寡黙にした。
 瞬は、地下書庫の奥をじっと見つめている。
「元は、書庫としては使われてなかったようだな」
 奥の方は灯りの数も少なく、ここから目視できるものはなかった。
「向こうには何がある」
「さぁ、あそこまで行ったことないから。ただ、本が置いてあるのはその手前のところまでだと思う」
 入り口の階段から一番遠いところに細い通路があるのは知っていたが、あまりの暗さに本の存在はないと踏んでいたのだ。紅にとって興味があったのは本だけだった。
「おそらく、ここは昔、避難通路だったんだろう。先は街の中に通じてるはずだ」
「地下書庫でなく、地下通路か」
 故郷である天水にも地下通路は多く掘られていた。想像はすぐにできた。
「でもそれが青竜と関係あるのか」
 そもそも紅には青竜のしていることなど興味はなかったが、少しでも瞬の話に隙を見つけたかった。そのくらいのことでしか今の彼には優越感を得られる場所はなかった。体の中に埋め込まれた龍仰鏡が大きく脈打つ。気味悪さよりも自慰行為を見られたような屈辱が紅を占めた。
「地下通路だろうと地下書庫だろうと、あいつとは無関係だろ」
「そう思うか」
 試すような口ぶりが、紅を苛立たせる。
「ああ」
 吐き捨てるように返し、長机の椅子にかけた。瞬は本棚に凭れかかり腕を組む。
「お前が入り浸る前、あいつはほとんどの時間をここで過ごしていた。誰もがここで資料の整理をしていると思っていた。だがあいつが本当にここにいたという証拠は何もない。長い時間離れるのは危険だったろう。それでも国内なら、どこへでも行けたはずだ。誰かと接触することもたやすい」
 瞬は腕を伸ばして、目の前の本棚から本を一冊抜き取った。興味なさげに頁を繰る。頭の中では昨夜の神殿での出来事が何度も繰り返されていた。
「お前は伝説の番人のことを信じるか」
 不意の問いかけに紅は思わず沈黙した。話の展開が読めなかった。
「青竜の話によるとお前も番人の守護人なんだ。あながち他人事ではないぞ」
「俺にとってはどうでもいい話だよ」
「だがその伝説のために由稀たちはここまで集まってきたんだ。何の繋がりもない見ず知らずの仲間と一緒に」
「あいつは、頼まれたらやるだろうな」
 紅の脳裏に真っ直ぐな空色が浮かぶ。
「由稀だけじゃない。何人も動かす力のある伝説だ」
「何が言いたいんだよ」
 机上に頬杖をついて、紅は小さく呟いた。
「俺はあの伝説を知らなかった」
「当然だろ、だってお前は」
「ここの時間でいうと二年前になる。あの時にも知ることはなかった。羅依の記憶の中以外で」
「は。どういう」
 紅は口を開けて呆然と瞬を見上げた。瞬は持っていた本を元あった場所に戻すと奥の通路を見遣った。細く暗い通路は微風を吸い込みながら、見る者の意識までも取り込もうと昏い目を輝かせている。
「人の記憶をこじ開けると、思いがけない繋がりがあったりするものだ。だが伝説の情報だけは羅依の頭の中で孤立していた。まるで意図的に埋め込まれたかのようにな」
 深緑の眼差しは暗い世界を漂う。互いの闇がぶつかり合う。超自然的な均衡が世界を構築した。
「あの封筒の中には、こう書かれていた。斎園に耐えうる異種族間の混血児。斎園というのが何を指すのか、今は考えないでおく。もし伝説が本当に伝説として人々に認知されているなら、それは宗教が絡むことになる。だとしたらティファナ教だ。しかしあれは教祖を異端の民に襲われた歴史から、選民思想が強い。魔族が嫌われるのもそのためだ。そんな教えの中で、どうやったら混血児が必要になる。やるなら血統書付きの神官だろ。宗教儀式としては大きな矛盾だ」
 丁寧さを越えて勿体ぶった瞬の話に、紅は苛立ちを募らせた。
「はっきり言えよ」
「その前に考えてみろ。今の話を総合して線を繋いだ先には、何があると思う」
「だから俺には関係ないって」
「全て青竜のでっちあげだとしたら」
「え」
 言われてみて、ようやく思考が追いついた。紅の驚きに、瞬の整った笑みが応えた。
「でも何の証拠も」
「ああ、ない。俺の想像だ」
 言い切って瞬は紅へと歩み寄る。机に両手をついて、紅の顔を射るように覗き込んだ。紅は思わず後ろにのけぞった。さきほどの恐怖が背中に甦る。
「だからこれから証拠を探す。天地の杖、斎園。この二つを徹底的に調べろ」
「はぁ、俺がかよ」
「ずっとここに籠もってたんだろ。どこに何があるかもわかってるんだろ」
「ま、まぁな」
 負けん気からそうは言ったものの、紅がわかっているのは一握りの本だけだった。しかしもう引くことはできなかった。
 瞬は全てを見抜いているのか、紅に知られないよう小さく微笑んだ。
「猶予は三日だ。それと、これからは禁煙解除といこう」
「どう言って青竜をごまかすんだよ」
「どうにかなるさ」
「はぁ。責任は取れよ」
 あまりにも強引な瞬のやり方に、紅は天を仰いで席を立った。