THE FATES

15.瓦解(7)

 神殿を風が駆ける。まるで背後から迫るものから逃げるように、また遠くにある夢を追いかけるように、由稀の存在など無視して駆け抜けていく。
 ただ呆然と立ち尽くしていた。青竜の言葉を何度も口の中で呟くが、意味を解することは未だにできないでいた。視界に映る足元が揺らぐ感覚に、ひどい吐き気をもよおした。自分が立っている場所にすら何の頼りもない。その現実が由稀に押し迫った。
 光の中を闇が動く。由稀は体を震わせた。
「その驚きは、人として非常に嬉しく思います。私のことを信用していてくれた証ですよね」
 すぐそばに青竜の声が響いた。しかし由稀はただ首を振るばかりで、彼を認識しているかも定かではなかった。
 青竜のことを信じていた。それはあの日、血が繋がっていると聞いたときから。そして初めて会ったあの時から。大丈夫とかけられた声は、心の底辺に流れる寂しさを埋めるように染み込んだ。出所のわからない信頼を彼に覚えた。彼になら何でも話せると、どんなことにも協力してくれるだろうと。その確信は自分が生きていることを疑えないように、由稀の中で確固たるものとなっていた。今ここで青竜の言葉を心に飲み込めば、自分の全てを否定してしまうような、そんな感覚に由稀は陥っていた。
「どうして、どうして……」
 こめかみに激しい痛みが走り、由稀は頭を抱え込んだ。自分の信頼という矢印は、一方通行だったのか。青竜の眼差しに時折見え隠れした優しさは、自分の見間違いだったのか。様々な疑問と不安が由稀の中から溢れ出る。精神的苦痛が肉体的な痛みを超え、由稀の体は押し潰されんばかりの圧力を感じていた。
「申し上げましたよね。血の繋がりなんて、そんなに強いものではないんですよ」
「どうしてそんなことをしたんだ! どうして俺一人、生き残ったんだ……!」
 由稀は青竜に掴みかかり、引き千切らんほどに引き寄せた。青竜は底の見えない昏い目を細めて不快を顕わにした。
「そんなこと、どうでもいいじゃないですか」
「よくない! お前には俺に全てを話す義務がある。違うか!」
「また傷付きたいのですね」
 体に響くような低い嘲笑が、由稀を襲う。青竜は由稀の手に自分の手をかぶせ、力任せに容赦なく握った。由稀は痛みに顔を歪める。
「あなたの体が『器』として必要だったからですよ」
 青竜は由稀の手を引き剥がし、逆に由稀の胸倉を掴み上げた。服の止め具が弾け、肌が外気に晒される。青竜はそこに赤黒くなった刻印を見つけた。
「むしろあなたの存在を危険に晒さないため、彼らを葬ったと言っても過言ではありません。まぁ、あなた自身には何の関係もないことですがね」
 由稀は爪先立ちになった体を支えるように、青竜の腕に手をかけた。そして刻印を食い入るように見つめる青竜に気付いた。機械のような冷たい頬の奥に、血潮の輝きを見た。
「これが何か、知ってるのか」
「あなたが今日、私のところに来たのは、もはや運命論的に定められていたのかもしれませんね。私はこの偶然に彼の意思を感じざるをえません」
「何なんだ、これは」
 青竜の冷たい唇が歪むように微笑む。
「ずっと待っていました、この時を」
 青竜は由稀の体を祭壇に押し付けた。痛みは感じなかった。冷たく硬い祭壇の感触が腰に伝わる。喉元を青竜の腕で押さえ込まれた。由稀は息苦しさに声を洩らす。睨み上げると視界は涙に揺らいだ。
「術式解放」
 辺りは目映いほどの光に呑み込まれ、白く染まった。

 身震いするほど強い気配に覆われ、瞬は体中の神経が逆立つのを感じた。すぐに頭上から轟音がとどろく。
「なんだよ、今の」
 紅は頭を抱え込み、零れ落ちてくる細かい破片から身を庇った。天井から吊り下げられた燭台は、強い揺れにほとんどが消えてしまっていた。油断すればすぐに足を取られそうな暗さだった。
「地震か」
「いや、違うな」
 瞬は破片に構うことなくじっと天井を見つめていた。濃い気配が体の中へと侵食してくる。瞬はその不快さに耐えるため、奥歯を音が鳴るまで噛みしめた。紅はそんな瞬の様子を不思議そうに覗き込んでいた。彼のこんなにも追い詰められた表情は初めて見た。
 揺れの余韻も失せ、辺りには再び静寂が戻った。瞬の感覚を取り巻いていた気配も、雪が土に溶けるように儚く消えた。紅は危険が遠ざかったのかと、腰を上げて服にかかった破片を払い落としている。しかし瞬にはその静けさがむしろ恐ろしかった。禍々しいまでの強力な気配が、早々簡単に感じられなくなるとは思えなかった。
 瞬は手にしていた本をその場に置いて、出口の階段へと駆けた。
「あ、おい。鍵」
 呼び止めても瞬が立ち止まることはなく、紅は舌打ちをして後を追った。鍵を背中に投げつけたい気持ちを抑え、瞬を押し退けて扉を開けた。不躾な光の束が二人の視力を奪う。紅は眩しさに目を伏せ、手探りで外へと這い出た。その横を、瞬はしっかりした足取りで上がっていく。
「ほんと化け物だな」
 紅は石床に座り込んで、痛む目をこすりながら呟いた。
 瞬は慎重に神殿の表へとまわる。辺りは清浄な空気に包まれている。肌を溶かすようなおぞましさは、微塵も感じられない。気のせいと思いたかったが、長く生きた経験がそれを許さない。目に見える危険は一つもないというのに、肉体は反比例するように警戒を強めていった。
 後ろから紅が歩み寄る。
「何もないじゃん」
 安堵を超えた声音は、瞬の勘違いを歓迎しているふうでもあった。
「いや……」
 否定をしても、続く言葉はなかった。この直観を紅に伝えることは不可能だった。
 風のそよぎが神経を研ぎ澄ます。鳥の鋭い鳴き声が空を突いた。二人はリノラ神殿の《俗の間》へと足を踏み入れた。靴の裏で砂利が鳴る。
 目の前に広がる光景に息を呑んだ。
 白く美しい石床はめくれあがり、繊細な彫刻の施された石段は表面が溶け落ちていた。また重厚な造りでこの場所の秩序を保っていた祭壇は、無残にもただの瓦礫へと化していた。所々で細かく砕けた石の粉が舞い上がっている。もはや神の気配など殺されている。それどころか、上から差す光が聖域の亡骸を浮き彫りにしていた。瞬はその光景に破壊された龍羅飛の街を重ね見た。
 瓦礫の奥から、うめき声が響いた。目を凝らすと、白い砕石の向こうに黒い影が動いた。
「由稀……!」
 紅は名を呼んで駆け出した。しかし瞬にはそれが由稀に見えず、後を追えずに立ち尽くした。
 石塊の崩れる音に、瞬は祭壇のあった場所を振り仰いだ。そこには青竜が膝をつき、一人の男を抱きかかえていた。男は意識がない様子で、ぐったりとしている。瞬はその男の姿に目を奪われた。
 汚された聖域に、空が広がっていた。
 男は由稀と同じ空色の髪を持っていたのだった。瞬は視線を瓦礫の向こうへと戻した。
 紅は由稀の体に降りかかった礫を払いのける。
「おい、由稀っ」
 そう言ってあらためて友を見ると、その容姿は別人のようだった。突き抜けるような青天の空色は失せ、墨で塗り込められたような闇色の髪が陽光に照らされていた。
 紅は助けを求めるように顔を上げる。しかし視線の先で瞬は徐に首を振るだけだった。