THE FATES

15.瓦解(8)

 いつからか、鬼の存在はなくてはならないものになっていた。初めて気が付いたのは、月夜の下、瞬から竜族の顛末について聞いたときだった。
 鬼は、凍えるような冷徹さで、胸裂けんばかりの情熱で、身を斬るような哀切さで、いつも由稀の心に触れ続けてきた。そこには常に、分け隔てのない愛情があった。だからだろうか、鬼の存在を疑問に思ったことはあれ、嫌悪したことは一度もなかった。
 そして今、鬼は別れを告げる間もなく、由稀の中から姿を消した。
 まるで半身を失ったような空虚感が全身を襲う。腕を上げようにも、自分に腕があるかもわからないほどだった。一方で、肌に触れる風の冷たさに解放感を噛みしめていた。枷が外れ、自分には何でも出来るのではないかという根拠のない自信に溢れていた。それは着ていた鎧を脱ぎ捨てる感覚に近かった。
 相反する感覚に覆われてようやく、ぽっかりと開いた穴に気付いた。そこはいつも鬼がいた場所。無意識のうちに拠り所としていた場所。生まれたときから当たり前のようにいた鬼。
 由稀は誰にも届かない観念の呻きを上げた。
 いなくなって初めて、鬼の存在の大きさを実感した。
 自分と世界の境界線がひどく曖昧なものになり、まるで自分が世界へ溶け出してしまったかのようだった。
 自分がここにいるのかすらも怪しかった。今ここにあるのは、鬼が全て連れて行ってしまったあとの残照にすぎないのではないか。ひとしきり輝きを見せては、それを合図に消えてしまうような儚い存在なのではないか。そんな疑心が水飴のように壁にへばりついた。鬼が手を触れ続けた、その壁に。
 由稀は体を震わせた。疑心の果てに見た己の存在に快楽までも覚えた。鬼と離れ、それを悲しむ自分に鬼の意識が存在するはずもなく、正真正銘これが自分の姿なのだと実感した。
 力も知恵も雅量もない。それでも前に進もうと躍起になる自分は変わることがなかった。進もうとするから、自分の核心を見つめざるをえないことにもなるのだ。
 遠く、懐かしい声が響く。由稀は首をめぐらせ耳を澄ました。
 呼んでいる。強く、呼んでいる。
 他の誰でもない、この自分に向かって砕けそうなほど声を張り上げている。
 行かなくては。もう誰も悲しませたくないんだ。
 由稀は手の平に触れた扉の取っ手を、そっと回した。隙間から光が漏れる。薄れていく意識の中、由稀は確かに己の血潮を感じた。

 紅は由稀の体を激しく揺さぶり、何度も彼の名を呼んだ。その声音に微かな歓喜が混ざり、青竜は視線を腕の中に戻した。
 出会った頃と変わらない少年の白い肌に、頭上からの光が踊る。舞い込む風が彼の髪を撫でて過ぎていく。ただ、少年は微動だにしなかった。
「起きてください」
 青竜は堪らず呼びかけた。術の失敗が脳裏をよぎる。途端に不安の波が押し寄せ、青竜は少年の肩を強く抱いた。
「はやく……っ」
 この時をどんなに待ったことか。この瞬間を迎えるために、多くのものを犠牲にしてきた。棒に振るなど、許されるはずがなかった。仲間に合わせる顔がない。それだけでなく、青竜は再び生きる価値を見失うことになる。そしてもう二度と救われることもない。あの時は、絶望の淵に立たされていた自分に、差し伸べられた手があった。それは感情が剥き出しで荒々しく、けれど何ものに染まることもない透明さを持っていた。それがあったからこそ、ここまで生き永らえることが出来た。彼と共に。彼のために。
 腕にか細い拍動が伝わる。青竜は顔を上げて息を呑んだ。じんわりと熱が広がる。腕の中に眠る少年は、掠れた咳をするように息を吸い込んだ。
久暉(ひさき)様、久暉様」
 青竜は逸る気持ちを抑え、呼び続けた名を呼んだ。それに応じるように、少年の瞼が痙攣する。そして厚い雲が風に流されるように、孤高の空色の瞳が開かれた。
慶栖(けいす)、お前か」
 そう言って久暉は体を起こした。眩暈がして、座っているのに視界が揺れた。それを横から青竜が支える。
「あなたを助けられるのは、私だけだと思っていました」
 睨み上げると、青竜の真剣な双眸が見つめていた。久暉は腕を払いのけ、鼻で笑った。
「戯言を」
 久暉は軽く拳を握りしめ、何度もその感触を確かめた。
「久しいな、自分の体が」
「あなたはあの頃のままです」
「お前は随分老けたな、慶栖」
 上目遣いに見上げてくる久暉には、人を上から見下すような威圧感があった。久暉の体は少年のままで、すぐにも組み伏せられそうなほど頼りない。しかし青竜は久暉の空色の瞳に、何よりも強大な力の渦を垣間見た。全身が喜びにうち震えた。
「ずっと、この時を待っていました」
 青竜の頬は昂りに痙攣した。しかし久暉は波立たぬ水面のように静かな目を湛えていた。青竜はそこに一抹の不安を覚える。呼びかけようと息を吸うと、久暉の秀眉が揺れた。
「そのあたりにしておけ」
 青竜が聞き返す間もなく、息苦しくなるほど強力な結界が張られた。紙一重で瞬の《気波動》を弾く。結界からは細い煙が上がった。
 久暉は徐に祭壇の下へと視線を向けた。溶けた階段を這い上がるように、殺気が肌を掠めた。白い世界に焼きつくような深緑の瞳が浮かぶ。
 瞬は《気波動》が触れた際の感触に覚えがあった。
「貴様、あの時の『由稀』か」
 遠く雷鳴が響く。瞬は体中が軋むような感覚に耐えながら、祭壇を睨み上げた。神殿に生まれた小さな空色は、近付く者を容赦なく斬り捨てるような鋭い気配を漂わせていた。そして同時に粉雪が降り積もる優雅さを併せ持っている。彼は瞬の綱渡りを見抜いて小さく笑った。
「さすが、いい勘をしている」
「どういうことだ、青竜。説明をしろ」
 瞬は押し殺した声で、青竜を一瞥する。青竜は刃物で切りつけたように冷たく鋭い目を細めて立ち上がった。
「十五年前、私と久暉様は戦地で仲間とはぐれ、四方八方を敵軍に囲まれてしまいました。そこを突破する際、久暉様は深い傷を負い、ほとんど虫の息でした。けれど私は彼を死なせるわけにはいかなかった。なんとか竜樹界まで舞い戻り、彼の魂を彼の肉体から分離させ、まだ母親の胎内にいた由稀さんの中に埋め込んだのです。そして久暉様の能力や意識を封印しました」
 吹く風が湿り気を帯び、冷たさを増した。
「まさか、そんなこと」
「私に出来るはずもないとお思いでしょう」
 そう言って青竜は口を曲げて微笑むと、腕を横に薙ぎ払った。そこには黒く染まった一本の杖が握られていた。柄には細長い蛇が絡みつき、上部には漆黒の翼が左右に広がっていた。その奇妙な形に、瞬は声を上げた。記憶の隅に追いやられていた映像が甦る。燃える街、長身の男、暗い洞窟、そして奇怪な形の杖。それらは以前由稀と戦った時、彼の記憶の中から盗み出した情報だった。
「そうか、それが天地の杖ってことか」
「よくご存知ですね。この天地の杖は竜族に伝わりし名宝。これを使えば魂と肉体を引き離すことも、そして遠地から治癒法を使い続けることも、さしたる難事ではありません」
 青竜の手に握られた天地の杖は、まるで意思を持つかのように翼を竦め、じっと瞬を見据えていた。瞬はあるはずもない視線を感じ、額の汗を拭った。
 空はすでに重く厚い雷雲で埋め尽くされていた。地響きのような雷鳴が周囲に満たされる。瞬の喉元が大きく脈打った。瞬は外部からの圧迫と内部からの侵食に対し、奥歯を噛んで唾を吐いた。
「なぜ、こいつらを集めた。その男の傷を癒すためなら、肉体をどこかへ隠し、由稀の身に危険がないよう見守るだけで充分だろう」
「今更ですね。毎日のように会議に出席しておきながら、あなたは何を言って」
「わかってるんだ。伝説の番人なんてものは、お前の作り話なんだろう」
 ひときわ大きな雷鳴が神殿に襲いかかる。青竜は言葉を詰まらせた。
「たった一人を守るため由稀を利用したお前に、番人を集める義理もない」
「心外ですね」
「俺は二年前、かなり多くの人間の記憶を覗いた。そうするのがこの世界を知る手っ取り早い方法だからだ。その中で番人のことを知るのは羅依ひとりだった」
「まぁ、そういうことも」
「しかも歪な形で、犯すように埋め込まれていた。あれは明らかに術者による記憶操作だ。お前が意味もなくこいつらを集める必要なんてあるはずがない。何か目的があるんだろう。それは何だ」
 瞬の追及に青竜は思わず押し黙った。稲光が神殿の屋根や柱を舐める。祭壇の周りにはすぐにも千切れそうな緊張が巻きついていた。
 瞬が片腕を目線まで真っ直ぐに上げる。指先までが帯電して、青く光った。青竜は横目で久暉の顔色を窺った。そこには目を細めて悦ぶ久暉の姿があった。青竜は杖を強く握った。
「世界を、跪かせるのです」
「なんだと」
 瞬は首を傾げて鼻で笑った。しかし嘲笑は続かない。頬に触れる風の動きが変わった。瞬は咄嗟に術を放った。すぐ正面で力が相殺され、爆風が唸りを上げた。瞬は体を支えきれずに、石床に膝をついた。後方に由稀と紅がいることを思い出し、急いで結界を張る。力が安定せず、表面は薄膜のように震えていた。腕を伸ばして堪えるが、皮膚が裂け血が滴った。
 猛威が途切れ、吹き上げられた砂塵が思い出したようにゆっくりと舞い下りる。その一つ一つが光を受けて輝く姿に、瞬は息を呑んで空を見上げた。
 そこにはどこまでも続きそうな高い青天が広がっていた。あんなにも敷き詰めた雷雲は影も形もなかった。攻撃を受けたのは自分ではなかった。即座に気付かなかった自分を恥じた。体の隅で、禁忌が罵声を吐いた。
「鬼使よ、ここは退け」
 少年と青年の狭間をたゆたう中性的な声が、祭壇から響いた。久暉と青竜の体は塵一つ被っていなかった。瞬の高い自尊心が深く抉られる。
「お前は誰だ」
「私の名は久暉。斎園、旋利(せんり)皇室の第二十三皇子だ」
 そう言って久暉は首周りの服を引き下げ、胸元を顕わにした。白い肌に赤黒い染みがある。遠目ではっきりとしなかったが、瞬には焼印に見えた。
「斎園か。混血でないと耐えられないらしいな」
「博識だな」
 空色の瞳が嘲るように歪む。
「しかし今はお前の講釈を聞く余裕などない」
 久暉は瞬の背後に視線を投げた。瞬はつられるように肩越しに振り返る。
「お前の怒りを受ける余裕もない」
 久暉の声に、哀しみという愛情が混ざる。
「由稀」
 そこに立ち尽くす少年は、黒い艶やかな髪を風に乱されながら、じっと祭壇の空を睨みつけていた。意志の強さを物語るような黒い瞳に一切の揺らぎはない。今の彼は怒りの激情で構成されていた。
 由稀が地を蹴るのと瞬が腕を伸ばすのは、ほぼ同時だった。
「放せ、瞬!」
 由稀は瞬に肩を強く押さえ込まれ、それ以上前へ行くことは出来なかった。瞬は全力で向かってくる由稀の体を、必死に引き止める。心が痛んだ。
「お前に敵う相手じゃない」
「そんなのわかってるっ。だけど俺は……っ!」
 胸に積もった感情の欠片を言葉にして伝えることは出来なかった。苛立ちは愛しさに染まり、後には悔しさだけが残った。由稀は瞬に凭れるようにうなだれ、小さく呟いた。
「一人で行くな」
「え」
 聞き返すと時を同じくして、力の波が体の芯を強く押した。瞬は祭壇を振り仰いだ。青竜と久暉の周りに、淡い金色の光が渦巻いていた。移動法を使うのだと直観した。
「行かせるか」
 瞬は由稀の体を支えたまま指を鳴らして、実体のない砂嵐を祭壇に向けた。幻術だけは龍仰鏡がなくとも使いこなす自信があった。砂嵐は波音のようなざわめきを従え、光の渦に飛び込んでいく。内側は流砂で満たされ、様子は一切見えなくなった。瞬は心の内で手応えを感じた。舞うように手の平を揺らめかせ術を操る。
 しかしその動きは不自然なほど唐突に凍りついた。
 瞬の意のままだった砂嵐が、徐々に光と混ざり合い、溶け合っていた。次第に中の二人の姿も顕わになった。青竜の満面には訝しげな色が濃く浮かんでいた。瞬は手の平に返ってきた術の感触を握りしめて呆然とした。
「共鳴……?」
 光の渦は一度威力を落としたものの、天地の杖によって再び術の膨らみを見せていた。
 瞬に残された時間はほとんどない。自分の感じたものを信じるしか、取る道はなかった。
「おい、このまま行かせていいのかよ」
 駆け寄ってきた紅が、由稀の腕を肩に担ぎながら瞬の脚を軽く蹴りつけた。その顔を見て、瞬は冷たい笑みを口元に浮かべた。
「鏡を借りるぞ」
「は。どういう」
 紅の言葉は最後まで続かなかった。瞬は何の断りもなく紅の背中に腕を突っ込んだ。紅は痛みに膝を折った。
「何、しやがる」
 紅の顔が苦痛に歪んだ。瞬は紅に一目もくれない。
「あいつらを思い通りの場所には行かせない」
 瞬は片腕を紅の背中に突き立て、もう片方の腕を祭壇に向けた。体の奥に潜む禁忌が暴れ出す。瞬は必死に歯を食いしばり狙いを定める。みるみるうちに瞬の伸ばした腕に黄金色の光の球体が出来上がった。それは青竜が天地の杖で生み出した渦と酷似していた。
 青竜の目元が僅かに震えた。杖が瞬の力に吸い寄せられていく。その強引さに体を振り払われそうだった。
「案ずるな。どうせ何も間に合わん」
「だといいのですが」
 不安を隠すことは出来なかった。瞬の行動が読めなかったのだ。
「由稀」
 久暉の呼びかけに、由稀は顔だけを上げた。その目から強い意思は失われていなかった。それを見て久暉は満足げに微笑んだ。
「お前と一緒にいられてよかった。礼を言う」
「俺は何も許してねぇ」
「またすぐに会える。それまで」
 元気で、という言葉を久暉は飲み込んだ。自分にそのような情けをかける権利はないと思い直したのだった。
 光の渦の中に、強い負荷がかかる。胸が押され、息苦しさに久暉は僅かに顔をしかめた。
 青竜は強く杖を握りしめた。それで瞬の奇行をふせげる計算もなかったが、気持ちが体をそうさせた。足元が不安定になり、まるで雲の上に立っているようだった。近いと青竜は感じた。片手を杖から離し、久暉の肩を抱き寄せた。
「離れると、どこへ行くかわかりませんから」
 久暉は何も返さずに、じっと由稀を見つめていた。
 瞬は整った顔を歪めながら、機を窺っていた。好機となるのは一度、それもほんの僅かな間しかなかった。荒い息が耳を塞ぐ。光の球体を支える腕は痺れ、すでに切れた傷口からは布を絞るように血が落ちた。
 紅の意識が途切れそうになるのを、何度も内側から叩き起こす。あとでどんな非難をも受ける覚悟はできていた。
 空間に歪みが生じ、機が熟したことを瞬に告げた。
「俺がここにいたことを向こうで後悔するといい」
 口元に笑みを乗せ、瞬は球体を青竜に向かって押し出した。光は縄のように伸びてしなり、高速で渦に巻きついた。
「な……っ」
 青竜の驚く顔が垣間見えた直後、祭壇上の二人の姿はその場から消えた。光の余韻が風に流される。瞬は紅の背中から腕を抜いた。
 神殿は、何事もなかったかのように静まり返っていた。空からは隠す優しさを知らない陽光が、無粋なほどに崩壊を照らし付けた。
 由稀のいのちを漉した叫びが、光を裂いた。