THE FATES

15.瓦解(9)

 大量の情報が亜須久の中を侵していく。見たこともない景色が脳裏で再構成されていく。術を行使して情報を共有することは、亜須久の想像以上に厳しいことだった。ひどい吐き気に襲われるが、吐き出したところで何が変わるものでもない。体を二つに折り、耐えるしかなかった。
「竜族は黒髪」
 瞬の呟きで結界内は一気に鎮まった。亜須久は骨を軋ませながら顔を上げた。術は完了した。相変わらず桁違いな能力を持つ瞬に、亜須久はあらためて恐怖した。
「凍馬さんは由稀の髪色に疑問を覚えただけではないように、俺には見えたんだ」
 瞬は会議室の机に両脚を上げて、煙草をくゆらせた。憂いのある整った顔には微塵の疲労もなかった。
「あいつはそんなことを言ったのか」
「ああ。そして青竜から目を離すなと」
 亜須久は結界の強度を徐々に下げる。澱んだ流れは捌け口を見つけ、窮屈な服を脱ぐかのように、体が緊張を解いていった。
「竜族が例外なく黒髪なら、なぜ由稀は違う。なぜ違う由稀を竜族と言い張る」
「それは彼も疑問に思っていたみたいだ」
「お前の勘を当てにするなら、凍馬が言いたかったのはもっと先の次元だ。それが真実になれば、話はここだけじゃ済まなくなる」
 瞬はその先を濁すように口を閉ざした。亜須久は結界内よりも重苦しい空気に耐えかね、壁に嵌め込まれた窓を押し開けた。
「感覚的に凍馬さんの忠告は受け入れられる。だが確固とした理由は何もないんだ」
「それなんだが、夜上。全ての前提がなかったとしたらどうなると思う」
「どういう意味だ」
 亜須久の問いに、瞬は曖昧な返事をして黙り込んでしまった。煙草が砂を踏むような音を立てて灰となっていく。砂の城が崩れるように、灰は落ちた。
「伝説の番人なんて、そもそも存在しないとしたら」
「ちょっと待て、瞬。そんな」
 言いかけて亜須久は大きな手で口元を覆った。そしてうな垂れるように額を押さえる。開けた窓から流れ込む涼やかな風に、亜須久の頭は一層冴えた。
「昨日のその女、確かに橙亜の服を着ていたんだな」
「ああ、彌夕とかいった」
「その容姿、見覚えがある。梗河屋が仕切る店の楽師かもしれない」
 面識はなかったが、演奏を聴いたことはあった。繊細ながら力強さを感じさせる音色を奏でていた。燃えるような赤い髪がひどく印象的な女だった。
「だとしたら、あの男も絡んでるだろう」
「おそらくは」
 亜須久の脳裏に憎み続けた男の背中が揺らめいた。軽く頭を振って、その幻影を追い払う。窓枠に広がる青が目に染みた。陰鬱な思慮を嫌い、瞬が大きく息を吐いた。
「確かなことは、青竜に引力なんてものを感じる能力はなく、またその引力でさえ紛い物の可能性が非常に高いってことだ」
「だがそれをより確かなものにするには、なぜ彼がこんなことをする必要があったのか、だな」
「さすが、話が早い」
 瞬は短くなった煙草を灰皿でもみ消し、ひどく嬉しそうに笑った。
「俺たちにある情報は少ない。手がかりは片っ端から調べつくす」
「瞬、俺に出来ることはないか」
「そうだな」
 考える素振りを見せながら、瞬は椅子から立って伸びをする。
「俺が紅を起こして地下書庫へ連れて行くまで、青竜を足止めしてもらおうか」
 亜須久は多少の物足りなさを感じたが、風にそよぐ木々のように爽快な瞬の瞳に、続ける言葉はなかった。

 地面がすすり泣くような振動と、空気が殴られるような爆音に、亜須久と加依は神殿を目指した。お互い言葉を交わす余裕もなかった。肌を過ぎる風に、刃物のような鋭さと冷たさを感じながら、二人は官僚街を駆け抜けた。
 最も天に近い丘を統べる神殿は、遠目に普段と変わった様子はなかった。霞がかかったようにその周囲がぼやけているだけで、感じた衝撃を疑うほどに静かだった。
 青く澄み切った空に、色濃く重い雲が集まり始める。ゆっくりと歩み寄る靴音のように遠雷が重なり響く。
「瞬」
 亜須久の束の間の安堵を掬い取るように、呟きは風に流された。
 眼前にシリア門が立ちはだかる。水路から奏でられる水音は、まるで異世界のことのように涼やかで、亜須久には奇妙な悟りの形に思われた。服と肌の隙間から熱が湧き立つ。二人とも、すでに息が上がっていた。
 二度目の爆音が響いた。振動はそれほどない。亜須久は目にかかる前髪を荒々しくかき上げた。心臓が緊張と好奇心と恐怖で震える。理不尽だと制する余裕はなかった。
 浮き上がるようにして足元に陰が生えた。空を見上げると、せめぎ合っていた厚い雲は一片の影もなかった。
「さっきの話が本当なら」
「え」
 亜須久は異様なほどに冷めた加依の声音に驚き、聞き返した。
「全てが青竜の作り話だとしたら」
「あ、ああ」
 落ち着き払った加依の様子に戸惑い、亜須久は額の汗を拭う。振り返った先の友人の顔には、保身の仮面が張り付いていた。一切の感情は読み取りがたい。しかし亜須久には本人が一番持て余しているように見えた。
「確かに合点がいくんですよ」
「そうなのか」
「だって俺は亜須久からその話を聞いたんですから。知らなかったんですよ」
「まぁ、そうだな」
「俺だけじゃありません。魔界に住む者で知る者はいません。つまり青竜にいるだろう仲間にとって、俺の存在は想定外だったというわけです。それはきっと瞬の存在も。結果として、俺も瞬も伝説のことを知っていた。だから消されることはなかった」
「ああ」
 亜須久には加依が何を言わんとしているのか、予想が出来なかった。加依はさらさらと流れる水路を覗き込み、痛みを堪えるように目を細めた。
「俺はまだ亜須久にも話していないことがあります。それを話していたからと言って事態が変わっていたかどうかはわかりません。でももっと早くに片を付けておけば、羅依が番人として選ばれることはなかったんじゃないかと思うんです」
 振り返った加依の仮面は緊張に圧され、硬くなっていた。
「羅依に、させなくてもいい苦労をさせてしまいました」
「どういうことだ」
「あの剣は、羅依が持っている剣は、ある女に盗まれた物なんです」
 加依は唇を噛み、地面を見据えた。
「羅依があの剣のそばにいなければ、青竜の標的にされることはなかったと思うんです。もっと早くにあの女から羅依と剣を取り返していれば」
「ちょっと待て、加依。剣を持っていたのは、お前たちの母親じゃなかったのか」
 亜須久は加依の肩を強く掴む。加依は一瞬痛がる素振りをしたが、すぐに視線を落として目を伏せた。
「嘘をついていて悪かったと思います。でも俺は」
「いや、そんなことはいい。あの子は、羅依はどうなるんだ。自分の母親を殺したと思い込んでるんだぞ」
「ええ、そうですね」
 加依は亜須久の手を払いのけ、背を向けた。
「待て、じゃあ本当の母親は、どうしたんだ」
 亜須久は加依を逃すまいと腕を引いた。為されるがまま振り返る加依の仮面に綻びが生じる。罪悪感に潤んだ翠緑色の瞳が、亜須久に救いを求めていた。
「それは」
 言いかけた加依の口が息を吸った瞬間、神殿から悲痛な叫びが突き刺さった。誰のものかはすぐにわかった。
 二人は顔を見合わせてシリア門の守衛所へ駆け込んだ。門番も尋常でない状況にすぐに門を開けた。横目に一瞥した門番の男は、怯えきった表情で大量の汗を顔面に浮かべていた。亜須久は達観した心持ちで彼に哀れみを覚えた。
 神殿へと続く階段を駆ける。今までに感じたことがないほど濃厚な《残留気》に息が詰まった。吹き抜ける風にいつものような清涼感はなく、亜須久の火照った肌を癒すことはなかった。五感の全てが、この先にあるものを強く警戒していた。一歩先を行く加依が、最上段まであと数段のところで足をとめた。亜須久もつられて立ち止まる。
「加依」
 後ろから見た加依の顎は、小刻みに震えていた。
「どうした」
「亜須久、俺はこんなにむごい景色を今まで見たことがありません」
 加依は首を振りながら、一歩あとずさった。亜須久は加依を置き去りにして神殿へと足を踏み入れた。
 目の前には地獄が広がっていた。
 白く美しかった石床は、そのほとんどがめくれあがり、とてもまともに歩ける場所ではなくなっていた。薄く立ち上る砂塵は幻想的な世界を作り、その影には刹那的な美徳が揺らめいていた。彫刻が施された祭壇とそこへ続く階段も溶けてなくなっている。亜須久は聖域の悲鳴に顔を歪めた。