THE FATES

15.瓦解(10)

 崩れ去った神の世界に、うめき声が洩れた。
 すぐそばには重なり合うようになって、由稀と紅が倒れこんでいた。そして視線を上げた先には、瞬の姿があった。
 瓦礫の中に座り込む瞬は、見たことがないほどに傷付き疲れ果てていた。亜須久は呼びかける声も失った。強い拒絶を感じた。誰にも解けない結界が張り巡らされていた。
 一歩を踏み出せない亜須久の代わりに、加依が無言で駆け出した。加依が由稀の横に膝を折った頃、亜須久はようやく紅の元へと駆け寄った。由稀は全く意識がないようだったが、紅は足音に気づいて顔を上げた。
「怪我は」
「多分ねぇよ。腹ん中が気持ち悪いけど」
 紅は亜須久の力を借りながら、瓦礫に体を預けた。喉が絡まるようで、何度も唾を吐き捨てていた。
「由稀は」
 透明感のある新緑の瞳を苦悶に歪めて、それでも紅は他人の心配をする。ただ自分では友人の無事を確認する余力すら残っていなかった。亜須久は何も答えられずに、加依の真剣な横顔を見つめるしか出来なかった。届かぬ返事に、紅は苛立ちを隠しきれない。
「クソ野郎、なんであいつら行かせるんだよ」
 紅の荒々しい言葉の端から、小さな悲しみが剥がれ落ちていく。亜須久は紅の肩に手を乗せたまま、顔を上げて瞬を見た。
 うな垂れていた瞬は、けだるく腕を上げて煙草に火をつけた。紫煙が砂塵に絡みつく。
 紅は瞬に向き直って、崩れた石床を拳で叩いた。
「何のために鏡使ったんだよ!」
 掠れた声が神殿に響く。滑り落ちるような残響が虚しく溶けていく。
「鏡を、使っただと」
 想像もしていなかった言葉に、亜須久は血相を変えた。
 瞬の持つ龍仰鏡は、今は紅の体を支えるために使われている。それ自体がすでに賭けの要素を含んでいることは、薄々と感じていた。鏡を使うことがいかに危険か、細事を知らなくとも明らかだった。
「鏡を抜いたのか」
 問いには、瞬への非難がこめられていた。紅は力なく首を振る。
「背中から、腕突っ込まれた」
「なに」
 横顔に加依の視線を感じた。亜須久は由稀の無事を確信した。紅に妙な気配りをする必要はなくなった。そしてもう、そんな気持ちの余裕はなかった。
「本当に怪我は」
 亜須久の言葉を遮るように、瞬の笑い声が響いた。
「何がおかしい」
 今まで瞬の行動に何度か度肝を抜かされてきた。それでも最終的には彼の正当性をいつも認めてきた。多少手段に手荒なところがあっても、そこに目を瞑って余りあるほどの結果をもたらしてくれたからだ。だが今回は許せる自信がなかった。
「自分の子供を危険にさらして、何がおかしい!」
 亜須久の必死の叫びにも、瞬の笑声は止まない。背後にあった瓦礫に仰け反るように凭れかかり、喉を鳴らしながら煙草をふかす。その姿は亜須久の目に鬼使の所業として映った。
 激情と理性の狭間にある一瞬の無意識から、亜須久は《気波動》を瞬に向けて放った。腕に走る衝撃で霞んでいた理性が叩き起こされた。すぐに後悔が押し寄せる。
「ああ」
 拳銃を撃ったときのような軽く乾いた音が響いた。亜須久の口から言葉が漏れたときには、《気波動》はもう霧散していた。瞬の煙草を持つ指がしなやかに動き、再び口元へと戻っていく。亜須久はどこかで安心していることに気付き、自らに冷静さを求めた。
 瞬は短くなった煙草を投げ捨て、瓦礫に凭れたまま亜須久に物憂い視線を送った。
「俺が満足してるとでも思っているのか」
「じゃあ、なぜ笑う」
「聞いてくれるな」
 そう言って瞬は天を仰ぐと、両手で目を覆った。片腕は彼の血で真っ赤に染まっている。いつもは冷ややかな口元が、悔しさに歪んでいた。
「どうしてこんなに無力なんだ」
 瞬は涙を流さず泣いていた。それは余人の心を浄化する涙だった。
 薄茶色の髪が天の光を受け入れ、神々しいほどに輝いて見えた。亜須久は胸を詰まらせた。無慈悲な神に憤りを感じた。
 神よ、まだ足りないというのか。
 我らが業は、それほどにも深いのか。
 心を削られた残滓が真っ赤に染まって瞬の肘から滴り落ちる。
「青竜を天水へ飛ばした」
「なぜ」
 引き止めなかったのだ、という言葉を亜須久は飲み込んだ。
「あいつら、とてもじゃないが今の俺に立ち向かえる相手じゃなかった。だからってみすみす行かせることもできない。まさか青竜が異次元を移動できるはずはないと踏んだ。ここに残ってる仲間と引き離すためにも、こっちから追いかけやすくするためにも、天水へやるのがいい」
 蓋をしていた深緑の瞳を光に晒し、瞬はじっと神殿の吹き抜けを見つめた。端正な横顔に光と影が同居する。
「全てが後手だ」
「いや、でも」
 亜須久には瞬を救う術がなかった。怒りを顕わにしていた紅も、今は俯いたまま動かなかった。
「でも今からなら先手が打てますよ」
 思わぬ声に、亜須久は加依を振り向いた。加依は顔を綻ばせて由稀を担ぎ上げる。
「このまま青竜のいいようにされるつもりがないなら、行動は早い方がいい。追うんでしょう、彼を」
「当然だ、そのために」
「じゃあ、追って清算させてやりましょう」
 瞬は加依に言葉を奪われ、身を起こして呆けた。加依は愉しそうに笑って背中に担いだ由稀の顔を覗いた。
「由稀なら、そう言うかと」
 海側の階段から、大勢の靴音が響いてきた。軍隊の到着が、神殿に満ちていた生死のかおりを打ち消した。
「帯都帝に報告しなければな」
「そうですね」
 加依が身長差のない由稀を背負うのには無理があった。亜須久は由稀の体を背中に引き受けた。
「玲妥ちゃん、びっくりするかな」
 紅は凭れていた瓦礫に手をついて、かろうじて立ち上がった。横から加依が支える。
「大丈夫。あの子は由稀が生きてさえいれば、他は全て瑣末なことだと言い切りますよ」
「そっか。強いな」
 二人は連れだって歩き出す。足場はかなり悪く、紅は何度も足を踏み外した。加依が肩を貸そうとしたが、紅は頑なに拒む。数歩行ったところで、紅は不意に振り返った。
「歩けるか」
 その声で、空に焦がれていた瞬が驚いて顔を向けた。紅は居心地悪そうに唇を尖らせると、つま先を見つめるほどに俯いた。
 加依は瞬の顔が今までにないほど和らぐのを見た。
「言ってくれる」
 声に微笑みは織り込まれていなかった。加依は呆れて眉を下げた。
「なんなら神殿を元に戻してやってもいい。鏡を使ってな」
「は、ふざけんな。殺す気かよ」
 紅は瞬を思い切り睨みつけて背を向けた。加依の腕を掴み、早く行こうと急かす。前を見ると亜須久に背負われた由稀の背中は、階段の向こうに消えようとしていた。
 瞬は軋む体に鞭打って立ち上がる。何度もこうやって立ち上がってきた。歯を食いしばり、もう嫌だと泣き叫びながら、最後には困難を承知で高みを目指していた。
「清算、か」
 瞬は階段に消えていく彼らの背中を見送り、吹き抜けを見上げた。
 これが神の思し召しだというのなら、乗ってやろう。
 強い風が神殿を突き抜ける。それは憧れた人の瞳に似て気高いものだった。砂塵の揺らめきが一掃されていく。聖域に光が戻った。瞬は煙草を口に咥えて、光の中を歩み始めた。

 窓の外に広がる赤土を眺めて、男は満足げに口を歪めた。耳に届く会話は、半分予想していたもので、半分は意外な結末だった。
「わかりました。私にも人を見る目がなかったということでしょう。彼の言葉を鵜呑みにした私にも罪はあります。あなたたちの思うがまま、なさってください。出来ることなら、なんでも協力をしましょう。それが私の罪滅ぼし、になります」
 男は小さな声でそう呟く。頭に響く会話にも同じ言葉が流れたのを確認すると、意識を目の前に戻した。風が一段と強く、窓は地団駄を踏むように揺れていた。乾いた砂は高く舞い上がり、外を歩くには眼鏡が必要なほどだった。多くの獣族を引き連れて、歩兵隊が列を成して進軍していた。それぞれの背中に個性はなく、男の目には平らに続く武器のように見えた。規則的に聞こえる足音も、耳を澄ませばずれがある。あらかじめ計算された調和にも思えて、男は額を縮めるように顔を顰めた。騒音から逃れるように、瞳を閉じる。
「青竜め、ようやく尻尾を出しおったな」
 鼓膜に生真面目な亜須久の声が蘇る。共に帯都帝に謁見をした瞬は、青竜を天水へやったと言っていた。
「しばらく自由にできそうだ」
 浅黒く焼けた頬に、笑い皺が刻まれる。
 扉が叩かれた。返事をすると、何度か言葉を交わしたことのある事務官が敬礼をして立っていた。
「長が指揮に出られます」
 だが名前は覚えていなかった。男はそれを悟られないように、顔を崩して軽く駆け寄った。
「おおきに。ほな、すぐ行くわ」
 部屋にはまだ、踏みしめられる砂の悲鳴が響いていた。

15章:瓦解・終