THE FATES

16.光芒

 窓に広がる空が闇を極めた頃、由稀は部屋を抜け出した。昔よくしたように窓枠に足をかけ、宮殿の屋根へと上り詰める。尖塔の高みまでよじ登り、寄りかかるように先端を抱え込んだ。視界には黒い海が蠢いていた。波が砂浜に押し寄せるたび、体の奥で共鳴するように血潮がざわめいた。
 その音は、哀しく虚しい響きだった。胸の奥にある空間は遠い空に恋をして、由稀はその場に取り残されたようだった。
 強い潮風にあおられ、見慣れない毛先が目の前を揺らぐ。闇に溶け入りそうなほど黒い。由稀は髪を掴んで頭を抱えた。目頭が熱くなるが、涙は出なかった。
 脳裏に、鬼の姿が浮かんだ。不安や自尊心が鬼に様々な理由をつけようとするが、どれも由稀の心を癒すものではなかった。逆に心は乾いていった。
 自分が生かされてきた理由を考えると、由稀は風に砕けてしまいそうだった。自ら生きてきたのではない。周りに生かされてきた。それだけでも由稀の尊厳は虐げられる。だが現実は由稀の個性など元より無視した次元で生かされていた。
 風が足をすくう。由稀は体を捻って体勢を保った。とっさに我が身をかばう卑しさにへどが出た。
 意識があるからいけない。だから苦しい思いをするのだ。ここから落ちたなら、何も考えずに済むようになる。消えよう。いっそ無になってしまおう。
 由稀は夜空を吸い込む黒い瞳を閉じて、息を整えた。自分が世界に溶け込むような幻想を抱く。徐々に心は周囲に広がった。自分が体から滲み出し、潮風に運ばれていく。再び目を開けたとき、恐怖は一切なくなっていた。自分と世界を隔てるものは何もない。飛び出した先も自分の一部であり、それと同時に自分という存在はすでに世界のものだった。由稀は、手をかけていた煉瓦の継ぎ目から、煙のように静かに離れた。片足が、一歩を踏み出そうと震える。風に乗って、獣の鳴き声がした。
「由稀!」
 聞き知った声に、由稀の意識は急速に広がりを失い、肉体という檻の中へ収束していった。途端に世界が遠くなる。手が空気を掴んだ。肉の感触に恐怖が君臨した。由稀はとっさに身を翻して、尖塔の屋根にしがみついた。おそるおそる下を覗くと、壁から突き出た露台に羅依と真小太がいた。建物から洩れる明かりで、羅依の肌がほのかに赤く染まっている。どんな光に晒されようとも怯むことない真っ直ぐさが、彼女の顎を引き締めていた。由稀は自分を恥じて俯いた。
「由稀」
 やわらかい声音に、由稀は肩越しに覗き込んだ。羅依は笑顔で手招きをしていた。
「そこ、寒くないか」
 由稀は曖昧に首を傾げた。
「降りて来いよ」
 優しさの陰には思いやりという強引さがあった。由稀は甘えることに抵抗を感じた。誰かに慰めてほしいという、子供染みた欲望を認めたくなかった。
「話、聞いたよ」
 羅依の声は風に乗って運ばれてくる。
「あたし、全然気付かなかった」
 途切れがちに、控え目に、羅依は心を紡ぐ。
「悔しい」
「え」
 由稀の呟きを肌で感じ、羅依は屋根を見上げた。
「だって、こうなるまで誰も何も教えてくれなかった。それだけじゃない、周りのことに気付こうとしなかった自分が情けなくて、情けなくて」
「羅依」
「わかってるよ、お前が一番悔しい思いしてるって。でも、だから」
 羅依は言葉を詰まらせた。俯いて肩を震わせる。真小太がか細い声を出して羅依の足元にすり寄った。
「悔しいんだ。どんなに思ってもお前の悔しさに近づけない」
 羅依の淡い色彩の瞳が、室内灯に揺らめいている。由稀は瞠目した。喉の奥が痺れて痛い。
「何でも分かり合えると思ってたのに」
 波音が羅依の声を覆っていく。由稀の胸で膨らむ期待をよそに、羅依の声は急速にしぼんでいった。
「違う、違うよ、羅依」
 小さな呟きは夜陰に呑み込まれていく。己の弱さが厚い雲になって背中に降りる。また同じ思いをしたいのかと痛みが過去を突きつける。一方で彼女だけは裏切らないという確信が、雲を突き破った青天の中にあった。証のない情に由稀の心は揺れた。
「ごめんな、由稀」
 羅依の瞳から、懺悔の雫がこぼれ落ちた。赤く染まる頬を伝い、唇を濡らす。由稀は屋根から飛び降りた。強く、羅依を抱きしめる。
 これ以上に証を求めるのは、ただの罪に過ぎない。
 羅依は驚いて、身を固くしていた。彼女の肩は、由稀が思っていたよりも細く頼りないものだった。衝動が突き上げる。彼女を組み伏せたい狂気と、優しく守りたい慈愛とが綯い交ぜになる。由稀は抱く腕に力を込めた。
「羅依、もう充分だよ。ありがとう」
「でも」
「ありがとう」
 由稀は出会った頃の彼女を思い出す。社会を見下し、人に触れず触れさせず、いつも相手を値踏みするような目つきをしていた。そして常に調和を崩すことに腐心していた。それはいつ裏切るかわからない者に対する牽制であり、いつ崩壊しても新しい孤独を味合わずに済むための保身だった。そこに気付いたとき、由稀の彼女に対する嫌悪感は一掃された。むしろ皮を剥げば直情すぎる彼女に惹かれた。
 友情という不確かなものに飢え、飽くことなく憧れ続けてきた二人だったから、辿り着いた信頼だった。
「駄目だよ。俺のことで泣いたりしたら」
 言いながら、他の誰かの前で泣く羅依の姿は想像できなかった。胸の奥にあった空洞が満たされていく。叫びは柔らかい布に包まれて、静かに生命を絶っていく。弔われていく。抱かれているのは自分の方だと由稀は感じた。
 羅依の両肩を掴んで引き離す。顔を覗き込むと、羅依は口を引き結んで必死に涙をこらえていた。
「俺はさ、ただ、あいつのことを助けてやりたいんだ」
「あいつって」
「名前、なんだっけ。久暉っていったか。あいつ。俺の中にいたあいつ。空色の髪したあいつ」
 由稀は羅依の体から手を離し、露台の柵にもたれかかった。屋根の上にいたときよりも海が近い。得体の知れない蠢きに見えていたが、今は世界の鼓動に感じられた。
「ずっと俺の中にいたんだ。物心ついたときから一緒にいたんだ。俺はあいつが知らないあいつのことも知ってるつもりだ」
「許せるのか。だってお前は」
「うん。確かに騙されてたんだと思う。でも本当はそんなのどうでもいいことだなって思った。今ね、たった今。羅依がそう思わせてくれた」
 由稀は満面に笑みを浮かべた。羅依はその笑顔に言いくるめられることにした。
 やわらかな波音が、鎧を剥ぎ取っていく。盲目の闇は、深い心を露わにした。
「瞬のこと、好きなのか」
「え」
 羅依は息をとめて、頬を赤らめた。
「いや、別に、好きとか嫌いとか、そんな」
「俺はありなんだと思う」
 羅依は風に乱れる長い髪を押さえ、隣に立つ由稀の顔を見上げた。見上げてみて初めて、彼の背の高さに気が付いた。もう背中合わせをするまでもなく、随分と追い抜かれていた。
 かつては空色だった瞳が、変わらぬ優しさで微笑む。
「気持ちに理屈なんていらないし、そんなの通しちゃいけない。自分が思うままに感じるままにあればいいんだよ。裏切られた、騙された。事実だよ。それでも俺は久暉を救いたいと思うんだ」
「どうして」
「どうして、かなぁ。じゃあ、どうして羅依は瞬のことが好きなんだよ」
「だから、好きとか嫌いとかじゃなくて。ただ、気になるんだ」
 羅依は海に背を向けて、石造りの柵に背中を預けた。夜空を見上げて目を閉じれば、いつでもあの日の言葉が耳によみがえる。
『寂しい色だね』
 そう言った彼の孤独に共鳴した。彼を二度と独りにしないと心に誓った。羅依は顔を綻ばせた。
「一緒なんだな」
「多分な」
 空の端が色を失い始める。室内灯が音もなく消えた。
「なぁ、由稀」
「うん」
「あたしたち、どっちかが死んだら、相手が抱えてたもの引き継ごうな」
「え」
「たくさん抱えられるようになろうな」
「ばっか」
 由稀は羅依の頭を小突いた。
「死なねぇよ、俺らは。どこまでも生きるんだよ。たくさんのもの抱えて、這ってでも生きていくんだよ」
 そう息巻くと、由稀は露台の柵にのぼり、大きく手を広げた。
「いつか、この海だって抱え込んでやるんだ」
 光が闇を浸食する。
「お前が言うと、本当になりそうだ」
 羅依の目には、海を割り、世界と由稀を結ぶ一条の光がすでに見えていた。

THE FATES vol.1・終