THE FATES

4.呪縛(2)

 国境の山を越えると、空は南方から競り上がった雲に覆われた。この辺りは今、短い雨季に入っていた。じめじめとした空気が肌に纏わりつき、鼻孔に居座る。さほど暑くもないのに、ただ立っているだけで汗が吹き出た。
 橙亜国は、俗界の中でも特異な色を持っていた。食物の自給自足が適う気候のため、他国との国交は結ばれていなかった。そのため入国審査に日数がかかり、旅では橙亜を迂回する道の方が一般的だった。しかし亜須久は旅程を短くするため、あえて橙亜を抜ける道をとった。亜須久には関所をすぐに通過できる許可証があった。それは彼自身だった。
 梁永(りょうえい)の関所で官吏は、亜須久の顔を見るなり門を開けた。由稀は頭を下げる官吏の指先が震えているのを目に認め、先を進む亜須久の背中を見遣った。そこには誰の干渉も許さない強い拒絶が牙を剥いていた。
 いくつかの集落を過ぎ、中心都市である甘広(かんこう)についたとき、空からは大粒の雨が降り始めた。街並みは薄暗く、すでに夜の香りがした。雨足は弱まる気配がない。
「この辺で宿を取った方がいいのではないでしょうか」
「だよな。かなり暗くなってきたし。俺も加依の意見に賛成。いつもの赤屋根なんだろ」
 誰からともなく彼らは道端に立ち止まり、意見が一致していることを確認しあった。しかしただ一人だけ、首を縦に振らなかった。
「この程度の雨で立ち止まっていたら、先へは進めない。今日中にでも隣の西環(さいかん)へ行ける」
 苛立ちが混じった亜須久の言葉で、彼らの中に波が引くような違和感が生じた。
「ここで生まれた俺が言うんだ。大丈夫だ」
「待てよ」
 一人進みかけた亜須久を、瞬が呼びとめた。
「お前には住み慣れた場所かもしれないが、他は違うんだ。譲れ」
 普段と変わらない瞬の語気は、かえって亜須久に対する非難を強調した。亜須久は黙るしかなかった。

 国交のない橙亜国に、正規の宿泊施設である赤屋根はない。亜須久は土地鑑を活用して、評判のよい個人経営の宿屋へ彼らを案内した。雨季のため宿泊客は少なかった。
 雨で冷えきった体を温め、瞬は寝台に体を横たえた。濡れ髪を乾かしもせず、ぼんやりと天井を眺めていた。階下からは由稀や玲妥の楽しそうな笑い声が響いてくる。瞬は額に手を乗せて、大きく息を吐いた。体の中が空洞になり、そこに自分の過去が詰め込まれて悲鳴を上げているような錯覚に陥る。弱さが全てを忘れたいと喚き、義務が一つも忘れるなと追い立てる。せめぎ合いに、体のあちこちが軋んだ。華奢な瞬の体は、重すぎる過去を背負いかねていた。現実から目を背けて辿り着いた場所でまで、また逃げ道を探そうとしている。瞬は情けなさを越えて軽い憤りを覚えた。
 扉の閉まる音がした。寝転がったまま、気だるく顔を扉の方へ向ける。廊下に靴音が響いた。律儀なほどに規則的な足音は、亜須久のものだとすぐにわかった。行き先にも想像がついた。馬鹿な男だと瞬はため息をついた。
 初めて出会った日、瞬は亜須久の結界のもと治癒法を行使した。それがどれほど危険な行為かは、重々わかっていた。しかし曽慈に付けられた網陣(もうじん)から逃れるには、亜須久の結界を隠れ蓑にして体力回復の時間を稼ぐしかなかった。術者の傘下にいるものが違う術を使えば、力が反撥し術が跳ね返ってくる。それを避けるためには呼吸の波を合わせるように、それぞれ違った波長を持つ力を、一時的に近付ける必要があった。その際、瞬は亜須久の過去を全て知ってしまったのだった。瞬が過去を司る龍羅飛であるから起こったことだ。気が付いたときには、まるで本を一冊読み終えたようなある種の充足感が広がっていた。
 昼間、亜須久が必死でこの街から離れようとしていた理由も、瞬には手に取るようにわかった。感情的にはそれを押し通してやりたくもあったが、あえて留まることで彼に機会を与えたかったのかもしれない。実際のところ、瞬にとっては亜須久がどうなろうと知ったことではなかった。けれども亜須久の置かれた状況が、瞬には他人事とは思えなかったのだ。そして今の亜須久は瞬とは違って、行く先を選べる立場にあった。
 瞬は突然体を起こして、思考に眉を寄せた。
 自分の勝手なエゴで与えた機会が、亜須久に更なる追い討ちをかけたとき、瞬は平気な顔をする自信がなかった。たとえそれを避けるために瞬が手助けをしたところで、事態が好転するようにも思われなかった。だが、最後までエゴを貫けたなら、そこに縋って壊れずに済むかもしれない。考えは自分の都合のいい方へと膨らみ、瞬を新たな衝動へと突き動かした。
 瞬は居ても立ってもいられなくなり、椅子にかけてあった外套を掴み取ると部屋を飛び出した。