THE FATES

4.呪縛(3)

 床の軋みが大きく響く。亜須久はそれをわずらわしく感じた。
「亜須久です。入ります」
 中からの返事を待たず、亜須久は扉を引いた。ささやかな反抗のつもりだった。部屋は薄暗く、雨音が虫の羽音のように耳の底に積もった。
 湿った匂いの向こうに、むせ返るほど甘い香の匂いが潜んでいた。亜須久は壁を見遣った。静かに歩み寄る。手の中に握りこまれた紙をそこで投げ捨てた。手のひらは汗に滲んでいた。亜須久は目を伏せて、かかとを二度鳴らした。やがて壁の向こうから声がかけられた。低い男の声だった。
「誰だ」
「亜須久です」
「ああ、来たのか」
 土に埋まった石を抜き取るような音を立てて、壁はゆっくりと開いた。わずかな隙間から強い香気と淡い光が漏れた。
「半年振りだな。まあ、入れ」
「用件なら、ここで聞きます」
 隙間から見えるだけ部屋の中を窺う。寝台の上に女の足が見えた。爪に施された彩色は亜須久の知る女のものではなかった。
「そう冷たいことを言うな」
 引き締まった腕が伸びて来、亜須久の腕を掴んだ。嫌悪感に顔が強ばる。しかし亜須久は逆らい切れず、引かれるまま部屋に入った。
 部屋は狭い。濁った血色をした寝台がほとんどを占めていた。すぐ奥には同色の古めかしい棚と椅子が控えている。椅子の上では香炉がたかれ、湿気に促されて細い煙を吐き出していた。寝台の上に横たわる女は、汗で濡れた黒髪を散らし、恨めしそうに亜須久を見つめていた。思わず過去の情景が重なり、亜須久はきつく眉を寄せて、男の腕を振り払った。
 男は亜須久に弾かれた手を下ろすこともなく、薄笑いを浮かべていた。あまり感情の表れない目元や口元にも、そういった卑しさだけは滲み出た。他の部下の前では決して見せない顔だった。
 亜須久は意志の強い冷たい眼差しで男を睨んだ。男は亜須久の態度を意に介すことなく、酒瓶を片手に椅子へと腰掛けた。
梗河(こうが)さん」
 亜須久の呼びかけに、男は見向きもしなかった。器に注いだ酒を一気に飲み干す。
「梗河さん、俺はもう」
「何度言えばわかる。あれほど周防(すおう)と呼べと言ったろう」
 ようやく亜須久を見た周防の顔には、人並み外れた冷酷さが塗り込められていた。命の温もりなど微塵も感じさせない機械のような眼差しが、亜須久の動きを封じた。そして亜須久の意思は彼を離れ、周防のもとに服従していた。
「どうした亜須久、その先はなんだ」
 周防は器を手に立ち上がると、亜須久の方へ歩み寄った。彼が近付くにつれ見えない手に首を絞められているようで、亜須久は苦し紛れに名を呼んだ。
「周防さん」
「なんだ」
 規格通りの笑みを作る。それは相手に恐怖を与える道具だった。亜須久は声を振り絞る。
「俺は、あなたと手を切りたい」
 口内に粘着質な不快感が広がった。喉が渇いて、亜須久は何度も唾を呑み込んだ。顎を掴まれ、強引に上を向かされる。見下ろしてくる濃灰色の瞳は、曇天のように亜須久の気持ちを圧迫した。亜須久は彼を直視できず、視線をそらした。視界の隅に周防が酒を飲む姿が映る。亜須久は彼の細かな挙動にも命が竦む思いだった。
 周防は空になった器を壁に投げつけた。耳にざらつく音を立てて、器は砕けた。女は悲鳴をあげ毛布に隠れた。
 亜須久は極度の緊張で呼吸もままならなくなっていた。浅い息を何度も繰り返す。周防は亜須久の引き締まった頬に指を食い込ませた。
「半分でも血が繋がっていなければ、見捨てるのか」
 歯が周防の指を頬越しに感じた。すり潰すように肉を押し付けられ、亜須久は返事をする自由を奪われた。
「確かにあれは毒だ。お前を苦しめるだけの存在だ。だがそんなことは最初からわかっていたはずだろう。だったらなぜもっと早く伊純(いずみ)から逃げなかった」
 周防の表情に変化はない。口元だけが下手な役者のように動く。亜須久は目元に力を込める。周防は顔を亜須久の耳元へ近づけた。
「もう何もかも遅い。お前は逃げられないんだよ、亜須久」
 恐怖が亜須久の体を縛り付ける。まだ今ならば、ここへ帰ってきても制裁を受けなくて済むと亜須久は思った。夢を見た代償はただ現実へ戻るだけと許された気がした。
 火中の薪が割れるように椅子が軋んだ。亜須久の意識が息を吹き返す。隙をついて周防の手から逃れ、部屋の奥を見た。
「瞬」
 亜須久の視線を追って、周防も振り返る。そこには細長い脚を組んで優雅に腰掛ける瞬の姿があった。彼の薄茶色の髪は濁った灯りの中でも鮮やかだった。まるで作り物のような光沢をもって、目元の遮光眼鏡にかかっていた。瞬は透明の器に酒を注ぎ、一口飲んだ。その場が瞬の色に染まる。
「何の用だ」
 周防も無能ではない。無用な問いはしなかった。瞬は楽しそうに唇を歪める。
「あんたの仕事はなんだった。梗河周防さん」
 瞬は立ち上がる。周防は完全に亜須久から離れ、瞬に向き合った。
「それがどうした」
「忘れたのなら教えてやろうか」
 好青年のように爽やかな笑みを見せた瞬に、周防は返事をしなかった。亜須久には周防の焦燥が手に取るようにわかった。
「もとは翠穂(すいほ)山脈を源泉とする、西の夏璃(かり)川で運輸業を生業にしていた梗河屋。しかし三代目の梗河大連(だいれん)の友人津孫(つそん)が、自分の土地で麻薬の栽培に成功した。幼い頃からずっと一緒だった二人は、まだ法律で規制される前に麻薬売買に乗り出した。その頃栽培に成功していたのは津孫だけで、麻薬貿易はほぼ独占状態になった」
 亜須久は瞬の意図を汲みきれず、眉を寄せる。早々とこの場所から離れたい気持ちだったが、足は動かなかった。
 瞬と目が合った気がした。亜須久は傍観者を決め込んだ。
「津孫には娘ばかりだったが、大連には息子が一人いた。四代目となる黄悠(こうゆう)だ。そしてまるでそれが当然であるかのように、黄悠と津孫の娘は結婚した。もちろん津孫はその後もそれまで通り、利益は山分け出来るものと考えていたが、事はそう上手くは運ばなかった。なぜなら、四代目に津孫との友人関係はなかったからだ。黄悠にとって津孫はただの金づるでしかない。食い下がった津孫だったが、娘もろとも行方不明になった。どうせ川底にでも投げたんだろう。それからは梗河屋の天下さ。麻薬の栽培は取締りをかいくぐって広まり、医療用で使われる以上の量が栽培され出荷されてる。そして今それを束ねているのが、梗河屋六代目のあんただ。さぁ、ここまで説明すれば、そろそろ自分の仕事を思い出してもらえたかな」
 瞬は眼鏡越しに周防を射抜く。周防は微塵も動くことができなかった。隠れて見えないはずの瞳が、ただそこにあるだけで周防を拘束した。瞬は妖艶なまでの薄い笑みを湛える。周防も負けじと引き攣った薄笑いを浮かべた。
「詳しいな。そんな昔話、俺は初めて聞いた」
「そうか。勉強になってよかったよ。他に聞きたいことはあるか」
 瞬の誘いに、周防はじっと言葉を選んでいた。
「どこから、そんなくだらない話を聞き知った」
「この場所からだよ」
 そのとき亜須久はこの部屋に起きている異変にようやく気がついた。爪先のすぐ先に、空気の歪みが見えた。結界だった。しかもかなり強力なものだった。瞬は結界内の術が仕上がるのを待っていた。そこまでわかると、亜須久は微力ながらも瞬に手を貸した。瞬が張った結界の外に、保護用の結界を作る。気付いた瞬が、にやりと笑った。
 周防は何が起きているのかも知らずに、ただ危険だけを感じていた。そしてそれをどうにかして自分のものにできないかと知恵を絞っていた。
 しかしその行為はあまりにも無謀すぎた。
 周防は着物の内側から黒い塊を取り出した。その先を瞬へと向ける。
「お前は誰だ」
 周防は引き金に指をかけた。瞬は背中が凍るほどの笑みを浮かべる。それは色褪せた張り紙の中で見た鬼使の笑みだった。寝台にいた女が逃げようとしたが、指一本すら動かせない様子だった。
「俺が誰かだと。それなら聞くが、お前は自分の存在を言いきることが出来るのか。お前は自分が思っている存在か。本当にお前はお前か。そもそも、そこにいるのはなんだ。その意識はすでに滅びた夢ではないのか。今というのは、どこにある」
 周防の表情がみるみる蒼白になっていく。亜須久はそんな彼の顔を初めて見た。彼は亜須久からは確認できない何かに恐れている。今の周防は恐怖という保身で構成されていた。
「ああ」
 亜須久は思わず感嘆の声を上げた。周防は瞬の術に嵌っていた。
 瞬は周防の変化を窺いながら、機会を待っていた。瞬は手にしていた器を掲げて揺らす。
「いい酒だ」
 濁った光に透かすと、酒は揺れた軌跡に薄い膜を張った。
「さあ、どうだ。お前は誰だ」
 一歩、そしてまた一歩と、瞬は周防を追い詰めていく。亜須久に入り込む余地はなかった。結界は徐々に範囲を狭めていき、周防だけを包み込んでいた。彼は凝縮された空気の中で滝のような汗をかきながら、銃口を瞬に向けていた。
 瞬が急に立ち止まる。二人の間にはもう、人ひとりすら入れない。
 すっと瞬の腕が動いた。その手は自らの遮光眼鏡にかけられる。彼はおもむろにそれを外した。
 周防は露わになった至宝に息を詰めた。全てのものを包み込み、全てのものを突き放すような、そんな二律背反の色彩が瞬の瞳にはあった。少しでも長く見つめれば、自分の居場所を失いそうになる。
「さあ」
 瞬の指が鳴った。結界が弾ける。衝撃で亜須久の張った結界も千切れて消えた。周防は膝が溶けたかのような不自然なかたちで床に崩れ落ちた。僅かに瞬の顔が歪んでいた。
「瞬」
 亜須久の呼びかけに瞬は応じず、女のそばへと歩み寄った。
「や、やめて、殺さないで」
 女は毛布をきつく握り締めたまま、か細い声で訴える。瞬は優しく微笑みかけると彼女の額に手を翳した。
「殺さないよ。大丈夫、起きたら何もかも消えてるから」
 囁きとともに、女もその場に倒れこんだ。瞬はそれを確認すると、ようやく亜須久に向き直った。
「殺した方がよかったか」
 言われて初めて、亜須久は自分が落胆していたことに気付いた。だが、己の欲望に素直になることはできなかった。
「わからない」
 俯き加減に答えると、瞬は軽く鼻で笑った。周防を跨いで、亜須久の横を通り過ぎる。
「よしてくれ。俺にも都合があるんだ」
「あ、ああ。すまない」
「やるなら今のうちに自分でやればいい。そうそうない好機だ」
 瞬はそう言って部屋を出て行く。亜須久もそれに続こうとしたが、一歩踏み出て振り返った。
 そこは今も濁った光に満ちている。過去が重なって見える気がして、すぐに部屋を出た。後ろ手に扉を閉める。
『お前は逃げられないんだよ、亜須久』
 刹那、周防の声が蘇った。
 建物を出ると、雨はすっかり上がっていた。
 彼らがいる祥楼路(しょうろうじ)は甘広で最も賑やかな遊郭筋だ。狭い道の両側から、個性の強い弦楽器の音色と女たちの客引きの声が寄ってくる。亜須久にとって見慣れた光景だった。ここでは世間の肩書きは価値をもたない。外でどんな善行を積もうと、ここに来ればただの男と女でしかない。胸に安心感が広がった。体に染み付いた匂いが、首筋に纏わりつく空気を受け入れた。
「どうしてここがわかった」
 亜須久は先に行く瞬を引きとめようと問いを重ねた。
「麻薬を使ったことはあるのか」
「少し。術の切れが悪くなったからすぐにやめた」
「そうか」
 こんなことが聞きたいわけではなかった。だが、率直に聞くことは憚られた。それを見越して瞬が口をひらく。
「それだけか」
 靴が水溜りをはねた。亜須久は観念して顔を上げる。視線の先には瞬が腕を組んで微笑んでいた。相手を引きずり込むような妖艶な笑みだった。
「いつ俺のことを知った」
「結界に入ったときだ。あの状況では避けられなかった。事故だと思ってくれ」
 それは亜須久が予想していた答えだった。
「で、どこまで知ってる」
「どこまで」
 そう繰り返して瞬は整った顔を崩し、声を出して笑った。
「聞いてどうするつもりだ」
「どう、するって」
「口止めでもするか。それはお前の自由だ。何をもって全てとするのかも、な」
 瞬は笑いの余韻を引きずりながら、亜須久に背を向け歩き出す。店から飛ぶ誘惑の声に軽く手を振る。外にいた女が親しげに瞬の腕に体を寄せた。瞬はそれを拒むことなく、ゆっくりと遠ざかっていく。
 女と話す瞬の横顔に、亜須久は彼の真意を見た。
「瞬!」
 声は喧騒に呑み込まれそうだった。瞬は肩越しに振り返った。
「助かった。礼を言う」
 耳の奥で弦の切れるような高い音が鳴り響いていた。自分の声が他人のもののように感じた。彼への深い感謝の念が感覚神経を侵すほどの緊張をもたらした。瞬は目が覚めるような笑みを見せ、鮮烈な残像を落として闇の向こうに消えていった。