THE FATES

4.呪縛(4)

 加依は目覚めてすぐ、瞬を探して食堂に下りた。宿の中に人が働いている気配はなかった。窓の向こうに広がる空は、暗澹としていた。
「いないんです」
 瞬は加依を一瞥して紫煙を吐いた。
「だろうな」
「何か知ってるんですか。だったら教えてください。亜須久はどこに行ったんですか」
「騒ぐな。頭に響く」
 瞬は疎ましそうに手を払った。灰色に沈む街を背景に、彼は優雅に煙草を吸っている。加依は苛立ちを覚え、想像の中で彼を殴りつけた。血を吐くほどに拳を上げて、心を落ち着ける。
「梗河屋が来たんですか」
「あいつの商売のこと、知ってるのか」
「ええ、まぁ。一通りは」
「じゃあ、俺に聞くこともないだろう。今から祥楼路へ行って連れ帰ればいい」
 瞬は煙草を灰皿に押し付けると、茶を一口飲み、新しい煙草に火をつけた。加依はその様子をじっと見つめ、瞬の真向かいに座った。
「あなたのように亜須久のことを知ることができれば、連れ帰る勇気を持てるかもしれません」
「は」
 深緑の瞳が険しく尖る。加依はそれを正面から受け止めることができず、机の上に乗せた手を組んで、穴が開くほどに凝視した。
「どんな仕事をしていたか、どれくらいの立場にあったか、そのくらいのことは聞くまでもなく会ったときからわかっていました。半年前に脱獄をしてアシリカに逃れたときも、一応連絡をくれましたし、彼の身に何が起こっているのかは知っています。でも俺が知りたいのはそんなことじゃないんです。亜須久がどう考えているのかが知りたいんです。彼は長く梗河屋にいました。どんなにあの場所を恨んでいたかは知りませんが、あそこが彼にとって心地いい場所であるかもしれないのです。だとしたら、俺は祥楼路まで行くことはできません。事実はもういいんです。俺は亜須久の気持ちが知りたいんです」
 言葉はとめどなく溢れた。雨で増水した濁流のようだった。
「あいつの様子がおかしいのは、ずいぶん前からわかっていました。俺は亜須久の方から話してくれると思っていたんです。いざ相談されたときには的確に答えてやろうと、たくさんの選択肢を用意して待っていたんです。でもあいつが打ち明けることはなかった。俺は思い上がっていたのかもしれません。きっとそうです」
 加依は顔を上げて瞬を睨みつけた。
「あなたが羨ましい。人の心の機微に関係なく、内側を覗き見うるあなたが」
「好きでやったことじゃない」
「だとしても」
 加依は声を荒げた。思いのほか響き、加依は勢いを失った。
 瞬は体を斜めにし、椅子の背もたれに腕をかけた。低い雲を眺める。山の上には稲光が走っていた。
「雨は嫌いか」
「え」
 思わぬ問いかけに、加依は侮蔑まじりに聞き返した。
「俺は雨が好きだ。この世に絶対的な正しさなどないと教えられる。陽光だけではまかなえない慈悲が世界には必要だと。ただ照らすだけが全てではないと」
 瞬は加依に向き直った。
「夜上が何も話さなかったのは、お前を信頼していたからだと、なぜ思えない」
「思えません」
 声は喉を引き絞られたように小さく掠れていた。加依は唇を噛んで俯いた。瞬は呆れて煙を吐いた。
「心配をかけたくなかったんだろう」
「そんなの」
「それがあいつの思いやりと優しさだ。そういう男だ。お前はそれを理解してやるべきじゃないのか」
「説教ですか」
 加依は俯いたまま、口元を歪めて笑った。見えなくともその歪みは瞬に伝わった。
「好きにしろ」
「俺はそんなに強くないんですよ。語らないことで信頼を確信できるほど出来ていないんです」
「ああ、そうか」
 瞬は首を回して立ち上がった。食堂の入り口に影が走った。気付いて見たときには、もう誰の姿もなかった。加依も瞬の様子を怪訝に思い、入り口を振り返る。
「誰ですか」
「さぁ。だが逃げるところを見ると、大体は絞れる。とりあえず夜上がいないことはあいつらに言うなよ。騒ぎにはしたくない。外はこの雨だし、どうせ動けない。故郷なんだから私用の一つ二つあってもおかしくないだろう」
 加依は瞬を振り仰いだ。瞬は屈託のない笑顔を見せた。
「大丈夫さ」
「根拠のない慰めは嫌いです」
 加依は机に刻まれた傷を弄るように指でなぞる。
「俺がお前の雨雲を払ってやるよ」
「え」
 加依は思わず行き過ぎた期待を抱いた。瞬は椅子に斜めに座り、空になった器の中を見つめた。
「何も知らないままいればいい。俺が夜上を連れ帰る」
「でも」
「何も知らない相手だからこそ、深くなれる仲もあるんだ。たまには人の言うことを信じてみろよ。馬鹿になれ」
 加依は沈黙した。
「馬鹿になる賢さを持て」
 遠雷が響く。瞬は窓の外に目をやった。雨足は激しさを増していた。加依は瞬の後ろ姿に、彼自身の戒めを感じた。
「あなたにも大事な人がいるんですね」
 瞬は加依の問いかけには応えず、煙草に火をつけた。
「どうしてここへ来たんですか」
 重ねた問いにも瞬は煙を吐き出すだけで答えようとはしない。
「ここへ来たら賞金がかかって」
「馬鹿になりきれなかったんだよ」
 瞬の横顔には自虐的な笑みが浮かんでいた。それは加依が想像していたより残酷な景色だった。
「掴みかけた幸福に、俺は自分の居場所を許すことが出来なかった」
 瞬は腰を上げると、加依の横を通り過ぎて入り口へと向かう。
「あなたが許すものではないでしょう!」
 振り返り立ち上がったが、そこにはもう瞬の姿はなかった。灰皿には吸いかけの煙草が音を立てて身を削っていた。