THE FATES

4.呪縛(5)

 食堂の窓から由稀は激しい降雨を呆然と眺めていた。目の前に湯気の上がる茶を差し出される。見上げると横に加依が立っていた。
「あ、ありがとう」
「この雨じゃ、とても進めませんね」
「すごいな。こんなに降るの初めて見たよ」
「ラルマテア近辺は乾燥してますし、降っても雪ですからね」
「へぇ、加依って物知りなんだな。俺だって国くらいは知ってるけど、そこの気候までは知らないな。ていうか、魔界育ちだろ。すげぇな」
 灰色に濁った町並みに、滝のような雨が降る。未舗装の道には幾筋も川ができた。由稀の些細な言葉は、加依の平常心を揺さぶった。
「えぇ。厳しい人でしたから」
 中途半端に相手に伝えようとする醜さが、胸のうちでじわりと広がる。加依は顔を顰めた。
「え、誰が」
 それまでずっと外を眺めていた由稀が加依を振り返った。明け方の空に似た青く透明がかった瞳が加依を真っ直ぐに見つめる。北方育ちの肌は白く、少年にしては赤みの強い唇がよく映えていた。無造作にした髪が目にかかり、由稀は邪魔そうにそれをかきあげる。
 耐えられなくなり、加依は視線をそらした。由稀のように素直な心の前では、自分の卑屈さや狡猾さが暴れ出して、いい人の仮面が耐えられなくなる。
 由稀が不思議そうにしているのを、加依ははっきりと感じていた。このままいれば由稀が自分の非を疑うのは明らかだった。それもまた耐えられなかった。加依はさらに強固な仮面を取り出すと、由稀にいつもの笑顔を向けた。由稀は眉根を寄せて加依を見ていた。
「どうかしたのか」
「なんでもありませんよ。で、何の話をしていました」
「いや、いいよ別に。あ、そうだ、それより俺、ずっと聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと」
 問われた由稀は頷くと、腕を組み、頭の中で疑問を整理し始めた。
 小さな笑い声がした。
「お前がそんな顔しても似合わないよ」
 由稀は食堂の入り口を見た。
「羅依か」
 心なしか疲れた様子で、由稀は呟く。
「なんだよ、朝から気分の悪いやつだな」
「おはようございます、羅依」
「おはよう」
 言って羅依は兄にはにかんだ。
 羅依は長く伸びた髪を束ねずに、細身の服をきれいに着こなしていた。男装のための踵の高い靴を今も履いているので、横に並ぶと由稀よりも背が高かった。依然として女性らしさには欠けるところがあったが、今の彼女は前よりもずっと生き生きとしていた。
「あーあ、すごい雨だね。さっきよりも強くなってるくらい」
 羅依は窓に手をついて、空を覗き込んだ。
「ええ。ですから今日は無理ですねって、話していたところなんですよ。で由稀、聞きたいことって」
「ああ、うん」
 由稀は羅依の顔を見て、言いにくそうに茶を飲んだ。
「瞬と会ったときのことなんだけど」
 そう言うと、羅依は唐突に立ち上がり厨房の方へ去った。しかし茶を煎れてすぐに戻ってきた。
「あの曽慈っていう賞金稼ぎは、どうして倒れたんだ」
「さぁ、俺はその場にいなかったので」
「幻術だよ」
 羅依はそう呟いてからふっと眉を寄せ、しばし考え込んでしまった。
「幻術」
 由稀は意味もなく言葉を繰り返し、羅依の横顔を窺った。気付いた羅依が刺々しい視線で由稀を睨み返した。愛想笑いを浮かべる由稀に、羅依は呆れて大きく息を吐いた。
「鬼使のことは知らないのか」
「まったく」
「それでよくあんなことが言えたもんだな」
 羅依は再びため息をつくと、熱い茶を飲んだ。湯気が鼻筋を濡らす。羅依は心の手綱を握りなおした。
「鬼使は元々天水の殺し屋だ。得意だったのは幻術と雷術。特に幻術の方は人を神経から殺すっていうので、かなりもてはやされたらしいよ。殺し方が噂になる国ってのも、どうかと思うけどね」
「じゃあ、あいつはその幻術で」
「殺さなかったみたいだけど」
「最後ちょっとおかしくなってたってことは」
「たぶん、相当つらい夢を見させられたんだろう」
 言い終わらないうちに羅依は器に残っていた茶を一気に飲み干した。熱が喉を引き裂いていく。羅依は顔を歪めた。
「由稀は術の気配を感じなかったんですか」
「気配って」
「たとえば結界の中にいるときのような違和感というか」
 加依の問いに対して、由稀の反応は薄かった。
「聞いた話なんですが、龍羅飛というのは王族に対して絶対服従で、術も無意識に無効化されるとか」
 加依は語尾を濁して、口元で両手を組んだ。
「本当かどうかは疑わしいのですが」
「別にいいと思うよ。本当じゃなくても。だって由稀が王族なわけないんだもん。関係ないって」
「なんだよ、その決め付け」
「だってどう見たってお前なんか一般市民じゃん。ちょっとした賞金かかってるけど、大したことないしさ」
「待て待て待て。その賞金を稼ぎにきたのは、どこのどいつだ」
「お昼ご飯の足しにはなるかなと思っただけだよ」
「馬鹿か。五百スタンもの昼飯、どこにあるんだよ」
「ラルマテアにはないかもしれないけど、都会にはあるの。そういう店が」
「ふざけんな。ラルマテアは立派な街だってんだよ」
「まぁ、そのくらいにしましょう」
 加依は腰を浮かせて二人の間に割って入った。由稀はふてくされて頬杖をつき、窓を向いた。雨が降り続いていた。
「どこか体の具合が悪いのかもしれませんね。橙亜を抜けたら医師に診てもらった方がいいかもしれませんよ」
 加依の言葉に空々しさは感じられず、由稀は目だけを二人に戻した。なんとか場の空気を取り戻そうとしている加依が不憫で、由稀は体ごと机に向き直った。
「ついでに頭の中も診てもらったら」
 そう言って羅依は器を持って厨房へと向かった。
「お前こそ」
 そこまで言いかけて、由稀は口をつぐんだ。
『お前こそ、瞬の話になるとむきになるの、やめたらどうだよ』
 言えば、首を役所に突き出されそうな危険を、彼女の背中に強く感じた。

 扉が全開になっていた。覗くと、玲妥が包丁を片手に野菜を切っていた。瞬が一歩踏み込むと、彼女は驚いた様子で振り返る。しかしすぐに肩をすくめて笑った。
「瞬」
 玲妥は自分の手元を見て、悪戯を隠す子供のように笑った。笑うたび、絹糸のような金色の髪が肩で踊る。
 瞬は扉を閉めると、彼女の脇に立って台の上を見渡した。宿には炊事場のついた部屋がいくつかあり、玲妥の部屋がそれだった。切り終えた野菜や、まだ土のついたものなど、相当な量が置かれていた。
「突然どうした」
「宿主さんのお手伝いしたら、たくさんお野菜くれたの。せっかくだし、みんなに食べてもらおうかなと思って。これでも私、飲食店の娘なんだから」
 得意げな表情が動揺を帯びていることに、瞬は目敏く気づいた。すぐに素知らぬ振りをする。玲妥は再び鼻歌まじりに野菜を切り始めた。彼女の包丁捌きは年齢の割に手馴れたものだった。しかし皮の硬いものだけは瞬が代わって切った。
「瞬って器用なんだね」
「そうか」
「ねぇ、どうして」
 亜須久から聞いていた鬼使・瞬の印象とは、あまりにもかけ離れていた。玲妥は軽く飛び跳ねながら、瞬の深緑の瞳を覗き込んだ。
「情報集めのために酒場で働いてたんだ。一人暮らしも長いしな」
 そう言って瞬は寂しそうに微笑んだ。玲妥は瞬の儚さに惹かれ、彼の袖を引いた。瞬は眉を上げて何事か問うた。玲妥は押し黙った。
「どうかしたのか」
 瞬は切った野菜を籠に入れて手を拭くと、鍋を取り出して水を注いだ。
「この様子だと、煮込みでいいんだろ」
「あ、うん」
 玲妥は弱々しい声で頷いた。瞬は竈に火をくべると、鍋に野菜を投げ込んだ。相当大きい鍋だったが、すぐに色とりどりの野菜で埋まった。
 瞬は煙草に火をつけて深く吸い込んだ。玲妥の小さな手が瞬の腕を掴む。瞬は煙草をくわえて玲妥の頭を撫でた。
「あーちゃん、何かあったの」
「ああ、まぁ」
 思い返すような仕草をすると、瞬は前髪をかきあげた。尋常でない様子に、加依との会話を聞いたのが彼女だとわかった。
「確かに、らしくないな。でもどうせここから動けないし」
「何か用事があるの」
「心配か」
「当然だよ、だって」
 玲妥はまたも黙り込んだ。仕方なく瞬は屈み込んで、下から玲妥の顔を覗き込んだ。引き結んだ唇が、瞬の心を切なくした。瞬は玲妥の両手を握ってやった。
「似てるの」
「誰に」
 思いのほか優しい問いかけに、玲妥は驚いて瞬を見た。引きずり込まれるような樹海の緑が、玲妥をある種の催眠術にかけた。自然と言葉がせり上がってくる。玲妥は瞬の手を握り返した。
「お父さんに」